えむます | ナノ


▼ とらの湯

通り雨に出くわした。こういう日に限って、家を出る前に天気予報を見忘れているものだ。もう少し早く出ていれば、帰っていれば、と考えてもどうしようもない。ロードワーク中だったタケルは、近くの公園の東屋に駆け込んだ。雨は急にざっと降り始めたため、服はもちろん髪の毛からも滴が落ちる。
雨は一向に止む気配を見せず、タケルは東屋に設置されているベンチに腰掛けた。勢いが強いため、向こう側の景色が白く霞がかって見える。公園前の道路では、大きく水しぶきを上げて自動車が通り過ぎて行く。雨粒が屋根に当たる音が辺りを支配して、まるで自分が居る場所だけが切り取られてしまったように錯覚してしまう。
雨のカーテンの向こうから、誰かが近づいてくる。大きなビニール傘を携えたその人は真っ直ぐに東屋に向かった。

「やっぱりタケルくんだ」

タケルの目の前に現れたのは佐楽だった。予想していなかった人物の登場に、タケルが目を大きく開く。佐楽は傘を閉じて東屋の中に入った。

「佐楽さん、どうしてここに?仕事は?」
「施設点検があるから、午前中の事務だけで終わったの。傘は……持って無さそうだね」

タケルが佐楽の足元を見ると、彼女はレインブーツを履いていた。今朝は雨の気配もなく晴れていたから、ちゃんと準備して出かけたことが分かる。しゅんとした様子でタケルが佐楽の問いかけに頷くと、佐楽はリュックを開いてタオルを取り出した。

「まだ使っていない綺麗なのだから頭拭いて。風邪引いちゃう」
「すまない」
「ごめんタケルくん。予備の折り畳み傘は持ってなかった」
「いや、俺の準備不足が原因だ」

頭からタオルを被ったタケルが言う。タオルを貸してくれただけでもありがたい、とタケルは言うが、びしょ濡れのタケルを放ってはおけない。この状況下でタケルを置いていけるなら、偶々見つけたタケルに声をかけたりしない。
どうしたものかと、佐楽は顎に手を当てて考える。一つ案が浮かんだが、流石にそれはお節介が過ぎるだろうと考え直す。だが、その案以上に最適解が思い浮かばない。
うんうんと唸る佐楽の様子を見て、タケルが不安そうに顔を覗き込む。タオルを持つ手が寒さで白くなっていることに佐楽は気づいた。最優先にすべきことは、タケルを温かい場所に連れて行くことだ。佐楽は恐る恐るタケルに尋ねた。

「タケルくんが良ければなんだけど。――うちに来る?」

タケルが頭を拭く手を止めた。
佐楽の家に行く。思いもよらなかった提案にタケルはしばらく固まってしまったが、こくりと頷いた。
佐楽が一人で使う分には大きいビニール傘は、二人で入ると少し狭い。タケルの方が身長が高いため、タケルが傘を持って二人は歩き始めた。密着している訳ではないが、いつもより距離が近い。若干緊張していることを佐楽に悟られたくなくて、タケルは終始無言だった。
佐楽のうち(家)とは銭湯である。「とらの湯」と書かれた暖簾をくぐって中に入ると、ほのかに石鹸の香りが届いてきた。入ってすぐにある受付には、近所の商店のチラシが置いてある。その中に男道らーめんのカードがあるのを見つけた。
銭湯が賑わうのは主に夕方からなので、平日の間昼間である今の時間帯は休憩スペースに誰も居なかった。
受付の中に居た女性が二人の足音に気付いて顔を上げた。

「おかえり、佐楽ちゃん。雨大丈夫だった……って、その子どうしたの?」
「後で話す!タケルくん、男湯は左側ね。あとこれ持って行って」

佐楽は受付内に置いているタオルや客用のTシャツなどを引っ張り出すと、袋のままタケルに手渡した。

「サイズ分からないから、自分に合うやつ袋から出して着てね。袋のゴミは脱衣所のゴミ箱に捨ててくれていいから」
「ありがとう、佐楽さん」
「しっかり温まっておいで。ごゆっくり」

手を振る佐楽に見送られて、タケルは男湯の脱衣所の扉を開けた。客は一人も居ない。それだけで少し特別な感じがする。濡れた服は袋に詰め込み、フェイスタオルを持ってタケルは浴場に入った。お湯が流れる音だけが響いてくる。タケル一人しか居ないため、洗い場で気を遣う必要が無いのは楽だ。さっと身体を流し、タケルはゆっくりと肩までお湯に浸かった。

『気持ちいい』

雨で冷えてしまった身体が、じんわりと暖まり身体のこわばりが解けていくのを感じる。タケルは壁に背中を預けて脱力した。
身体の芯までしっかり暖まったタケルは、冷水で顔を洗ってから浴場を出る。肌からは湯気が立ち上る。脱衣所の端に置いてある扇風機の風に心地よく当たりながら、タオルで身体を拭く。タオルが肌を滑った後も汗が引かないため、汗の玉がところどころ浮き上がった。

『……違う匂いがする』

東屋で佐楽が渡してくれたタオルは柔軟剤特有の甘い匂いがした。匂いが違うのは当たり前のことなのに、一度意識すると頭から離れなくなった。Tシャツとハーフパンツも新しい物に着替えたタケルが男湯から出ると、佐楽がすぐに気が付いた。

「とらの湯のお風呂はどうだった?」
「すごく気持ち良かった。長湯はしない方だけど、ずっと浸かっていたくなった」
「嬉しいこと言ってくれるね。タケルくん、ジュースと牛乳どっちが飲みたい?」

佐楽が取り出したのはきんきんに冷えたペットボトルと牛乳瓶だ。にかっと楽し気に笑う佐楽を見て、タケルも表情を綻ばせる。佐楽の隣に座り、牛乳瓶に口をつける。ごっごっと喉を鳴らすタケルに、佐楽は良い飲みっぷりだと感心する。一気飲みしたタケルが窓に目を向けると、重たい雲の隙間から光の線が差し込んでいた。

「いつの間に止んでいたんだ」
「さっきまでちょっと降っていたんだけど、これなら帰れそうだね」

とらの湯に入った時の雨の勢いが嘘のように穏やかだ。風はまだ強いが、そのせいで雲が流れて青空が顔を覗かせる。
タケルが財布を取り出そうとすると、佐楽がそれを制止した。

「代金は要らないよ。私がおいでって言ったんだから」
「でも――」
「じゃあ、またお風呂入りにおいでよ。うちのお風呂を気に入ってくれることが一番嬉しい」
「分かった。絶対に来る」

タケルはそう言って力強く頷いた。雨も止んでいるので、佐楽は店先までタケルを見送る。深くお辞儀をしてから帰路についたタケルの背中がどんどん小さくなっていく。
佐楽が戻ろうとした時、受付にいた女性――佐楽の義姉である榎本ゆりが様子を見に来た。

「今の男の子、よく三人で来てくれる子だよね。どこで仲良くなったの?」
「男道らーめんで仲良くなったんだよ。雨で帰れないところ見ちゃったら、放っておけないじゃん」
「そう。また来てくれるといいね」
「うん」

滑らないように気を付けて、と言いながら二人並んで戻る。雨が大気の汚れを払い、深く息を吸うと気持ちが良い。清々しい空気に包まれ、佐楽の足取りは軽やかだった。

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