とうらぶ公開用 | ナノ
701.

『おはようございます。本日の開館時間は午前九時から午後四時半までです。どうぞごゆっくりお楽しみください』

直江壮からバスと電車を乗り継ぎ、ともえと清磨がやって来たのはN県の市立海洋博物館だ。海に面しているN県には大型の水族館があり、ともえ達がやって来たのもその一つだ。
この海洋博物館はN県で一番最初に出来た水族館だ。建物の老朽化で一時閉鎖したものの、改修を経て九年前にリニューアルオープンした。チケットを購入して中に入ると、十年近く経っているとは思えない程綺麗だった。
館内は空調がよく効いていて、水族館特有の海水と生き物の匂いがした。エアコンの風が直接肌に当たり、ともえは腕を擦りながら歩く。
一階はエントランスやショップやレストラン、タッチングプールがあり、水槽展示は二階から三階に設けられている。昇りエスカレーターを降りたところで、ともえがポスターを見つけた。

「清磨、見て。バックヤードツアーだって。楽しそう〜」
「それは何をするものなんだい?」
「ん〜……普段は見られない管理設備や生きもの達をお世話する様子が見学できます、だって。でも残念、開催日がずっと先だ」
「ひい様はこういうものに興味があるのかい?」
「楽しそうだなとは思う。遊ぶ場所の裏側って普段は見られない場所だから気になっちゃう」

順路を示す矢印に沿って進む。目の前に現れた光景に、ともえと清磨は同時に声を上げた。
アクリルガラスの海中トンネルは、360度楽しめるものになっている。ガラスで隔たれていると分かっているのに、清磨は足を踏み入れることに緊張してしまった。対するともえは、頭上を泳ぐ魚達を眺めながらすいすいと進んでいく。客は少ないが館内は暗いため、ともえとはぐれないように清磨はともえを追いかけた。

「あの大きい魚、ずっとぐるぐる回ってる」
「海の中を歩いているみたいだ。よく割れないね……」
「水族館のガラスはすごく厚いんだよ」
「へえ〜。ひい様は物知りだね」
「入り口にガラスの展示があったのを見たの。奥の方も行こう」

水槽はN県が面している海をいくつかのテーマに分けて展示されている。海の美しさ、海がもたらす多くの恵み、海と陸の共生。清磨は水族館に来るのが初めてだったため、パネルを見つけると興味深く読み込んだ。
二階と三階を突き抜けるようにして設置されているのが大水槽だ。水槽を泳ぐ約四万点の生きものは、どれも水族館の目の前にある海で生息している。温かい水と冷たい水がぶつかり合う海域の特性を見事に表した展示だった。
ともえと清磨が見上げると、上のフロアで水槽を見ている客の姿もあった。上から見たら、水槽はまた違った顔を見せるのだろう。写真撮影をしていたグループが水槽の前から退いたので、ともえと清磨はガラスの前に立って水槽を見つめた。

「トンネルも見事だったけれど。これはずっと見ていたら吸い込まれてしまいそうだね」
「小学生の頃に見たのもこの水槽だった。その時はもっと大きく見えたなあ」
「物足りない?」
「そんなことはないよ。今見ても楽しい」

館内は大水槽の雰囲気に合わせて深い青の照明が点いている。魚が泳ぐ影と、水が揺れる影が、ともえ達の足元に映る。淡く照らされたともえの横顔を見て、清磨は目を細めた。
大水槽よりも奥の通路に入ると、小さなカフェスタンドがあった。レストランは一階にあるが、ここでもサンドイッチなどの軽食が買えるようなのでここで昼食を済ませることにした。サンドイッチとジュースのセットを二人分購入して、半屋外のテラスへ向かう。ちょうど真下にはタッチングプールがあるため、生きものを観察している子ども達の声が聞こえてきた。
広めのベンチに座り、二人の間にサンドイッチとジュースを並べる。手を拭いてから「いただきます」と手を合わせた。食べ始めたところで、十二時を知らせる時報が水族館周辺に響き渡った。
今朝、清磨と砂浜を歩いてから半日が経った。一度入れたスマホの電源は、再び位置情報をオフにして電源を落としている。ジュースを飲んでいた清磨がおもむろに呟いた。

「主達はいつ来るだろうね」

サンドイッチを食べていたともえの手が止まる。スマホの電源を落とす前、ともえは清峰と静香宛てにこの水族館の位置情報を送っていた。黙っているつもりは無かったが、なんだかばつが悪い。ともえが清磨を見ると、彼は「指の動きを見れば分かる」とだけ答えた。

「来るっていう保証は無いよ」
「そうだね。でも、もし来るならここを全部見終わってから来てくれたらありがたいな。そんな顔をしないでよ」

ともえが視線を下げたのを見て、清磨が困ったように笑う。

「家を出ることは私から誘ったって伝えるから」
「嘘は良くない。持ちかけたのは僕からだ。本丸に戻った後、僕は相応の処分を受ける」
「でも!」
「旅を続けるかもと言ったのは、処分を受けるのが嫌だからじゃないんだ。全部承知の上でもちかけたんだよ」
「じゃあ少しでも清磨の処分が軽くなるように……」
「気持ちだけ受け取るよ。大丈夫だよ、心配しないで。ひい様を悲しませたくて話したわけじゃないんだ。ただ時間の限り、ひい様が来たいと言ったこの場所を見たいだけなんだよ」

ただそれだけ。清磨はそう言って、再びサンドイッチに手を付ける。納得していない様子のともえを見て、清磨は明るく声をかけた。

「まだ回っていない展示もたくさんあるよ。食べたら見に行きたい」
「うん……。ちゃんと全部回ろうね」
「よろしくね」

昼食を終えた二人は、残りの展示を見て回る。
あれは何だろう。これはどうなっているんだろう。水槽を前に楽し気に話す清磨を見て、ともえは今清磨と一緒に居る時間を大切にしたいと思った。
清磨の処分のことも少し頭を働かせれば分かったはずだ。ともえが気を揉まないようにこれまで配慮してくれたのだろうとようやく理解する。最後までともえは清磨に守ってもらったのだ。
清磨の気持ちに報いたい。どんなことがあっても清磨の味方で居ようとともえは心に決めた。

閉館時間は午後四時半だ。ともえ達は途中で休憩を取りながら水族館の中を歩き回り、最後に最上階へやって来た。
実は大水槽の天井は開けており、最上階から大水槽の水面を見ることが出来る設計になっている。最上階は休憩スペースが設けられ、屋根の下には等間隔でベンチが置かれている。今日が平日であることと、閉館まで三十分を切っているため、最上階にはともえ達しか居なかった。客が誤って落ちてしまわないよう、水槽の前には水路が設けられており、ぎりぎりまで近づける場所には“立ち入り禁止”のシールが貼られていた。
ともえと清磨は水槽の縁に立つ。風が吹く度、大水槽の水面が揺れる。水族館の奥に見える海と大水槽はひとつに繋がっているようだった。どこまでも広く、自由に広がっている。水面に反射する太陽の光が波によって形を変える。
時間を忘れてずっと見つめていたいと思った。ともえが隣に居る清磨を見たとき、ちょうど清磨もともえの方へ顔を向けていた。相手の瞳に自分の姿が映る。伝えたいことは二人とも同じだと確信した。それでもはっきりと口にする。

「一緒に見てくれてありがとう。清磨」
「この旅は初めて見るものばかりで、その全てが美しかった。ありがとうひい様」

飾らず、真っ直ぐに差し出された心を大切に抱える。清磨は嬉しさを湛えて微笑んだ。


タンッとエスカレーターを駆け上る足音がともえと清磨の耳に届いてくる。足音は二人分だ。音に導かれてともえと清磨がエスカレーターの方へ視線を向けると、私服姿の清峰と静香が息を切らして立っていた。静香はともえの姿を目に映すと、堪らず走り出した。

「ともえ!」

静香は両腕でともえを力いっぱい抱きしめた。もう離さないと言わんばかりの力で、静香はともえの服を掴む。肩を揺らしながらともえを抱きしめていた静香が顔を上げた。目を真っ赤にして、顔をぐしゃぐしゃにしている。ともえを心配させまいと必死に笑おうとするせいで、大粒の涙が静香の瞳から落ちた。
静香はともえの顔に手を添える。

「どこも怪我していない?具合悪いところもない?」
「うん。平気」
「ご飯はちゃんと食べてたの?髪の毛を短くしたのは自分で切ったの?」
「たくさん食べてるよ。髪は、家を出た日に美容院で切ってもらった」
「そう……。短いのもすっごく似合うよ。可愛い」
「お母さんはちょっと痩せた……?」

ともえは恐る恐る静香に手を伸ばす。静香の手はいつも柔らかくてハンドクリームのいい匂いがしていた。だが、ともえが触れた今の静香の手はカサカサとしている。真っ赤になった静香の目の下には隈が見えた。ともえの言葉に、静香は首を横に振った。

「ともえに二度と会えなかったらどうしようって、そればかり考えて……。ともえが無事で良かった」
「……清磨がずっと一緒に居てくれたから」
「ともえがひとりぼっちにならないようにしてくれてたのね。本当は私達が……お母さんとお父さんが、あなたの気持ちに気付くべきだった」

静香がともえの髪を撫で、ともえの目を覗き込む。
十七年前の話をした日、清峰のもとに警備局の草薙からともえと清磨を発見したと連絡が入った。清磨が倒れたこと、ともえと清磨を保護した審神者のこと、そしてともえが帰りたくないと言っていること。
帰りたくない――ともえがそう言ったと聞いた時、静香は目の前が真っ暗になった気分だった。ともえはいつから家出を考えていたのだろうか。帰りたくないと思う場所で、どんな気持ちで過ごしていたのだろうかと想像すると胸が締め付けられる。ともえは一体いつからそう思っていたのだろう。簡単に「一緒に帰ろう」とは口に出来なかった。

「場所を教えてくれてありがとう。迎えに来るのが遅くなってごめんね。ともえ、帰りたくなったら帰っておいで。お母さんは待っているから」

静香は再び強くともえを抱きしめた。静香の肩を清峰がそっと叩く。

「ともえと二人で話をさせてくれないか」

清峰の言葉にともえは何も返さない。後ろ髪を引かれる思いだったが、静香はともえと清峰から離れる。二人で、と言った清峰の意思を汲み、静香は二人の声が聞こえないよう距離を取った。



「奥方」

ともえと清峰の背中を見つめていた静香に清磨が声をかける。静香が顔を向けると、清磨は姿勢を正して頭を下げた。

「ご心配をおかけしました」
「ともえの気持ちに一番寄り添っていたのは……他でもないあなただった」

頭を上げて、と静香が言う。清磨がゆっくり顔を上げると、目元をティッシュで拭いながら静香は言葉の先を続けた。

「どうするのが正解だったのかは私達にも分からない。でも清磨が居なかったら、ともえはずっとひとりで悲しい想いをしていたかもしれない。娘を……ともえを守ってくれてありがとう」

胸に手を当て、静香は清磨に謝意を表す。
静香に非難されるだろうと思っていた清磨は、想像していなかった言葉に驚いた。守ってもらったのは自分も同じだと清磨は答える。
もう大丈夫――そう言ったともえの顔を清磨は思い出す。これからのともえに何が待っているのかは分からない。だけどきっと、もう大丈夫と言ったともえなら、乗り越えられる。
だから清磨は、極彩色の景色にはもう囚われない。ともえの幸せな結末は、ともえ自身が掴み取っていくのだ。叶うならその道行きを見ていたいと思う。しかしそれは、行き過ぎた願いかもしれない。清磨は胸の内に仕舞い、静香と共にともえと清峰を待った。



二人きりになると、ともえは押し黙った。静香と接している時と異なり、ともえは険しい表情を崩さない。
清峰もどう切り出して良いのか分からなかったが、自分から話をしなくてはと心が急ぐ。挨拶以外のまともな会話はどうやってやるものだったかと、実の娘を目の前にして清峰は頭をフル回転させた。

「二人でどこに行っていたんだ」
「Y県と、F県と……最後にここ」
「随分大移動したな。どうしてその三つの場所を選んだんだ?」
「……」

ともえは顔を下に向けて沈黙した。ぎゅっとTシャツの裾を握るともえが幼い日のともえと重なったことで、清峰は一つの確信を得る。娘の横顔を見遣りながら、清峰は口を開いた。

「ここは前に三人で遊びに来た場所だな」

ともえが八歳の誕生日のことだ。年始から立て続けに入った長期任務が落ち着き、清峰は数年ぶりにまとまった一週間以上の休暇を手に入れた。身体の休息にも時間を当てたが、その中で二日間だけ家族三人だけの時間を作ることが出来た。
ともえが行きたい場所ややりたいことをしよう。思いっきり甘やかして楽しませようと静香と決めた。ともえが希望したキャンプと、当時リニューアルしたばかりのこの水族館に来たのだ。後にも先にも、清峰がともえとの約束を守れたのはこの時だけだった。

数秒の沈黙の後、ともえが「そうだよ」と小さく答えた。ともえの声と手は震えていた。もう一度ともえが「そうだよ」と言う。ともえは清峰に見られないように右手で顔の左側を隠した。
ともえが選んだ三つの行き先。
Y県は清峰がともえを遊びに連れて行くという約束を反故にしてしまった場所だ。F県はリビングに飾ってある写真を見ていつか行ってみたいとともえが口にした場所だ。そしてN県は、唯一家族で来ることが出来た場所だ。
親子で過ごしたかった当時の心を、ともえは清磨との旅で清算しようとしていたのだ。清峰が置き去りにしてきてしまった幼いともえの心を、ともえは真正面から受け止めようとしていたのだ。
同じ家に住み、ほぼ毎日顔を合わせていたというのにこんな簡単な事実にも気づけなかったのかと清峰は後悔する。自分はともえのことを何も知らなかった。ともえが家を出て行くまで“知っている自分”を装っていただけだった。
自分が審神者業のためにともえと関われない時、刀剣男士の方を気にかけてしまっている時、清峰は一度もともえの気持ちを聞いたことはなかった。
――審神者の仕事は大切なんだ。
ともえにかけてきた言葉を清峰は思い出す。
あれはともえに優しい言葉をかけていたつもりで、本当は清峰が自分自身に言い聞かせていた。
――審神者の仕事は大切なんだ。だから一緒に居られないのは仕方ない。だからともえとの約束を破るのは仕方ない。
清峰にそう言われたともえがぎゅっと服の裾を握る様を、清峰自身も見ていた。
あの小さな手の中に、ともえ一人きりでは抱えきれない程の気持ちが籠められていたのか見て見ぬふりをした。

「すまなかった。俺は父親として、ともえに何もしてこなかった」

清峰の言葉にともえは答えなかった。

「いまさら何をと思うだろう。ともえの思っていることや考えていることを教えてくれないか。俺はともえと話がしたい」

これまでの時間は取り戻せない。だから清峰は今ここから始めるしかないのだ。
沈黙を貫いていたともえが、清峰の方を見ないままぽつりと尋ねた。

「お父さんはさ、どうして審神者の仕事を選んだの?」
「適性があったからだ」
「歴史を守るって大変?」
「何度も死にそうになって、辞めたいと思ったことだって何度もある。それでも戦ってこられたのは家族が居るからだ」

ともえが清峰の顔を見る。清峰はともえから目を逸らさず、真っ直ぐと向き合っていた。
たとえ親子でも、言葉にしなければ伝わらない。友人が言ったことを思い出す。言わなければならないのだ。これまでもこれからも、清峰が生きて帰ってくると誓う理由は変わらない。

「ともえと静香が、俺にとっての歴史を守る理由だ」

ともえは息を飲む。父親が戦う理由を初めて知った。
ずっと蔑ろにされていると思っていた。家族よりも刀剣男士の方が大切だと言われることが怖くて仕方なかった。中学校でのトラブルを清峰に知られたくなかったのは、興味が無いと一蹴されるのを心から恐れていたからだ。
清峰は多くの人にとっての唯一無二の存在――同時に、ともえと静香は彼にとっての唯一無二だ。何者も代わることは出来ない。清峰が戦い、生きて帰ってくるただ一つの楔なのだ。
ともえは顔を横に背けて鼻を啜る。落ち着いてからともえが顔を見せると、目も鼻も真っ赤になっていた。

「ともえ。秋の大会は見に行って良いか」
「……レギュラー外されてるかもよ」
「部活をしているともえを見に行きたいんだ」
「お母さんと一緒なら良いよ」
「分かった。ありがとう」

父娘の会話はそこで終わった。とても簡素でぎこちない会話だったが、清峰とともえにとっては新鮮なものだった。
ともえはくるりと踵を返して、二人を待っていた静香と清磨のもとへ走っていく。
手を繋いで一緒に歩いた時間は少なかった。だが、ともえと話をする時間はこれから作ることが出来る。家のことや、学校のこと、この先は将来の進路の話も出てくるだろう。
上手く話せるだろうかと柄にもなく心細くなるが、格好をつけるのは止めにしようと清峰は決意した。ありのままで、一人の人間としてともえと向き合いたい。ともえは何を見て、考え、そして決断するのだろうか。ともえの口から聞くことが楽しみだと心から思う。
三人が自分を待っているのを見て、清峰は早足で向かった。

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