3/6 去年の今頃は酷く混乱していたことを思い出す。 凍えるような寒さも和らいできた3月の始まり。 受験も終わって一息ついて、中学生活の残り少ない時間を惜しみつつ楽しむ時期、なのだけれど。 そのときの俺はそれどころではなかった。 もうすぐ、ここから離れなければならない。ここから出て行くときが来てしまう。 それだけが俺の頭の中を支配していた。 去年の今頃、卒業式を間近に控えた俺はどうしようもなく悩んで苦しんでもがいていたのを覚えている。 「あんときの俺はまだまだ子供やったんやなあ」 ちょっとセンチメンタルに去年のことなんか思い出したりしてみて、俺は小さく呟いた。 そんな気分になったのは、やはり久しぶりにオサムちゃんの部屋を訪れたせいだろうか。 もうだいぶ暖かくなったというのに、まだ炬燵やら何やらが置いてあって、相変わらずだなあと思う。 「んー?あんときって?」 大して寒くもないのにもそもそとオサムちゃんは炬燵に足を突っ込む。もう癖なんだろうか。 仕方なく俺もその向かい側に座り足を入れ(さすがに電気は入っていなかった)、小さな箱をテーブルの上に置く。 箱の中身は今日の為に予約していたケーキ。オサムちゃんの為に買って来た、美味しいらしいと有名なケーキ屋のもの。 少し小さめのホールケーキだけれど、俺もオサムちゃんもそこまで甘いものが好きじゃないからちょうどいい。 ろうそくは買わなかった。オサムちゃん曰く、なんとなく悲しくなるから、だそうだ。気持ちは分かる気もする。 ケーキの箱を開けるとふわりと甘い匂いがした。甘ったるいケーキの匂いはオサムちゃんの部屋にあまりに似つかわしくなくて、苦笑した。 「中学3年ときの、この日の俺」 「はは、まだ1年しかたっとらんやろが」 大げさやなあとオサムちゃんが笑う。 確かに俺よりも10年以上長く生きているオサムちゃんにとっては1年なんてほんのちょっぴりの時間なのかもしれない。 たった1年で何が劇的に変わるものか、と。 それでも俺はそう思う。 あのときの俺はこんな風にオサムちゃんと一緒に穏やかに喋っている時が続いているだなんて思っていなかったのだ。 コンビニで買って来た紙皿と、お茶と、それからオサムちゃんのお酒。 小さな炬燵の上に並べてケーキを切るためのナイフを取りに行く。 すっかり見知ったオサムちゃんの台所。 安物の切りづらいナイフを持ってそっと戻ってくる。 「ま、そうなんやけどな…」 ケーキのデコレーションが崩れないようにそおっとナイフを入れる。 小さいケーキを綺麗に4等分して、1つずつ紙皿に乗せた。 残りの2つは再び箱の中へ。明日の朝にでも一緒に食べようかな。 恐ろしかった。今まで当たり前に会っていたこと、話していたこと。それが当たり前じゃなくなってしまうのが恐ろしかった。 もう学校で話すことなどなくなるのだ。いや、会いに行けば会えるのだけど、でも今までのように学校の中で偶然すれ違ったり、部活で喋ったりすることなど無い。 急に会いたくなって職員室に行くなんてことも出来ないのだ。 遠くなる。今までの自分たちの生活からは想像も出来ないくらいに。 そして、もっと怖かったのはその遠くなった距離で心まで遠ざかることだった。 果たして、電話だのメールだの、まめに続けることが出来るのだろうか?わざわざ休みの日にお互い時間を作って会うことを厭わないでいられるのだろうか?今までそんなことしたことがなかったのに? それに学生同士ならまだ良いのかもしれないけれど、俺たちは違う。生徒と教師という異質な関係。 自信が無かった。オサムちゃんにも、自分にも。 きっとお互いの場所でお互いの日々に追われるうちに薄れてしまうのでは無いだろうか。 忙しくて連絡もしなくなってしまう。それが普通になってしまう。 そう思っていた。だから怖かった。 「今でもすごく不思議や」 「何が?」 「こうやって、今年もオサムちゃんの誕生日祝えることが」 切り分けたケーキをひたつ、オサムちゃんに手渡す。 ふわふわの生クリームがとろりと紙皿へと落ちた。 オサムちゃんがなかなか美味そうやなあとかにこにこと零して、つられて俺も笑顔になる。 ずっと一緒にいたいとは思っていた。 しかし心のどこかでそれは無理なのではないかと、そう思っていたのだ。 もしかしたらこれがオサムちゃんの誕生日を祝える最後の日なのではないかと。 「オサムちゃん、絶対電話とかメールとか面倒くさがると思っとったもん」 オサムちゃんは実はこういうことに関して結構まめな性格だったらしい。卒業してからはじめて知ったこと。 さすがに毎日、というほど頻繁ではなかったけれど、何かの折には必ず連絡をくれた。 正直意外だった。あのオサムちゃんが。あの適当の代名詞のようなオサムちゃんが、こんなにちゃんとメールやら電話やら小まめにしてくれるなんて、思っていなかった。 直接会うことも中学のときに比べたらかなり少なくなってしまったけれど、それでも時間を見つけて会ってくれた。 どうしようもなく会いたくなって寂しくなった時は、夜中に車で俺の家まで来てくれたこともあった。何かの映画みたいに。 嬉しかった。本当に嬉しかった。 オサムちゃんが俺の為にそこまでしてくれるなんて、思っていなかった。 俺が連絡をしないと続かないだろうなあとか、むしろ、どれくらい連絡をしてもうっとうしがられないかなあとかそんなことを俺は思っていたのに。 「あんなぁ、白石」 「ん?なに?」 ケーキを持っている手とは反対の手で、オサムちゃんが俺の頭を撫でる。 俺はちょうどフォークを手渡そうとしていたところで、行き場を失った手がふらふらと宙を泳ぐ。 「大人が寂しくないと思ったら大間違いやで。俺かて寂しくなって白石に会いたくなることもあるんやから。俺も白石の声聞きたい思って電話しとるし、会いたい思っとるから時間つくってでも会うんやで」 どくりと心臓が揺れたのが分かった。 オサムちゃんが寂しい、だなんて、そんなことを思うだなんて考えたことがなかった。 いつもいつも俺ばかりが寂しくて、必死で、辛いんじゃないかと思っていたのに。 そうじゃなかったんだ。ああ。 胸の奥が熱くなっていく。この気持ちをどういう風に表せばいいんだろう。 「…オサムちゃん」 「せやから、別に白石の為だけやないで。俺の為や。俺かて白石の声聞きたいし、触りたいんやから」 オサムちゃんの目は穏やかだった。 お世辞とか冗談とか、そういうものを言っている目ではなくて、ただ自然に自分の思っていることをそのまま口に出している、そんな感じだった。 自惚れなんかではない。きっと。今までオサムちゃんをずっと見てきたから分かる。 宙ぶらりんになっていた手からフォークをそっと奪われる。 食べよか、と微笑むオサムちゃんに急かされてはっと我に返った。 「オサムちゃん」 その前に言わなきゃいけないことがあるんだ。 「誕生日おめでとう」 去年は全く余裕がなくて、ちゃんと言えなかった気がする言葉。 でも今年は違う、もう大丈夫だから。 もうあんな不安に駆られることなんてない。 だからちゃんと言える。心からお祝いできる。 「うん」 「…来年も、また」 「白石」 言いかけた言葉は、オサムちゃんの指によって遮られた。 「俺のセリフや。白石、次の誕生日もまた俺のこと祝ってな」 ああだからオサムちゃんが好き。 今にして思うと、どうしてあの時の自分はオサムちゃんのことを疑っていたんだろうなあと思う。 こんなに俺のことを想ってくれて、そしてさりげなく優しくて嬉しい言葉をくれるのにな。 「…うん、当たり前やろ、そんなの」 しっかりとオサムちゃんの目を見つめ返して言うと、目を細めて嬉しそうに微笑んだ。 来年も、俺が高校の卒業式を終えても、俺がオサムちゃんと一緒にお酒を飲めるようになっても、ずっと一緒にいられればいい。 そう思いながら、すっかりぬるくなってしまったケーキをひとくち、口へ運んだ。 |