embrace



醜い本音を紡いだ場所にキスをするよ



最古の記憶は、怒りにぎらぎらと光っていた兄の瞳。紅い瞳と髪がまるで燃えているみたいだと思った。
それから、肺まで凍りつくような寒さ。呼吸するたびに喉の奥あたりが痛くて、痛くて。
真っ暗な井戸の底から見上げていた狭い空も、遠い星も、昏い月も。
見渡す限り真っ白でなにも見えない世界を一人で歩く寂しさも。
まるで、つい先日のことのように覚えている。



酷い吐き気を覚えながら、シルヴァンは静かに目を覚ました。
確かに目を開けたはずなのに視界は真っ暗。ああまだ悪夢は終わってないんだろうか、と一瞬錯覚して、小さなくしゃみをしたところでようやく現実だと認識出来た。
のろのろと体を起こす。寒い。さすがにファーガスと比べると可愛いものだが、今日はなんだかやたら冷える。
それだけじゃない。体の内側から酷く嫌な感じに冷えている。眠れそうにない。
シルヴァンは小さくため息を吐いて、外套を羽織るとそっと自分の部屋から抜け出した。

静寂に包まれた寮を独り静かに歩く。
階段を降りて、外に出た瞬間冷たい風がごうと吹き付けて、冷えた体を更に凍てつかせた。
何か温かいものでも飲みたいな、と思ったけれど、こんな時間に食堂が開いているわけもなく。
完全に逆恨みでしかないのだが、なんとなく恨みがましい気持ちで食堂を見上げながら、シルヴァンは寮沿いの道をゆっくりと歩き始めた。
しんと冷え切った寒空。見上げれば幾つもの星がちかちかと瞬いていて、それは一般的に美しいとされる光景だったのだろうけれど、先程の夢をなんとなく思い出して憂鬱な気分になった。
どんなに綺麗なものだって、閉じ込められて延々と同じものを見続けさせられれば嫌になるものだ。ましてそこに嫌な思い出が付加されているのならなおさら。
シルヴァンにとってはこの光景がそれで、だからこういう星の降るような夜はあんまり好きじゃなかった。
寒くて、なんだか酷く一人ぼっちな感じがして、とにかく誰かに会いたい。
勝手に呼び起こされる幼少期の感情が今の自分に重なって、それを振り払うように足を進めた。

当てもなく彷徨っていたつもりだったのだけれど、結局ここに足が向かうあたり我ながら分かりやすいな、と思う。
足を止めたのは1階の寮の一番端。ちょうど自分の部屋の真下。つい最近結ばれたばかりの愛しい恋人の部屋。
こんな夜更けに起こしてしまうのは忍びない、けれどどうしても今はそのぬくもりに触れたい。
野良猫みたいに周りの気配に敏感なあの人のことだ、起こさないように静かにお邪魔したところできっと目を覚ましてしまうことだろう。ならばもう最初から謝るつもりで。
外套に突っ込んでいた合鍵を取り出して、鍵を開けようとした――ところで鍵がかかっていないことに気がついた。まだ起きている?
薄く開いた扉から漏れてくる光になんだか酷く安心するような感じがして、惹かれるように逃げ込むようにその光の中に足を踏み入れた。

「せーんせ、まだ起きてたんですか?」
「…シルヴァン?」

その部屋の主、ベレスは突然の来訪者に一瞬驚いたような表情を見せたものの、シルヴァンの姿を視認するとすぐにその表情を緩めた。
どうやら大司教としての公務――教会と王国の合同会議に向けて資料に目を通していたらしい。
知っていたことではあるけれど、もうこの人は自由な傭兵なんかじゃなくて、ましてや自分だけで独り占めできる女性でもなくて、この世界を率いる重要人物の一人なんだな、と思い知らされる。
それが今更少しだけ寂しい。

「駄目ですよ、夜ふかしは美容に悪いってアネットあたりに怒られますよ」

そんなささやかな独占欲はそっと隠して、なんでも無い振りをして、うっすらと隈が出来ている目尻をそっと撫でる。
何か自分が変わってあげられることがあればいいのだけれど、残念ながらまだシルヴァンは辺境伯の嫡子という立場で、何の権限も持っていない。
昔は家を継ぐことをただの義務のように感じていたが、今となっては早くその地位に就いてベレスを支えられる立場になりたいとさえ思う。

「手、冷たいな」

ゆるゆるとくすぐるように撫でていたその手を不意に掴まれてぎくりとした。

「…何かあったのか?」

心配そうな目で覗き込まれる。労ったつもりが逆に労られている。迂闊に触れるのは失敗だったな、と今更思った。
けれどそんな些細なことだけで心の機微を察してもらえるというのが、なんだかくすぐったくて、嬉しくて。それだけで泣きそうな気持ちにもなってしまった。

「や、ただちょっと腹減って目が覚めて、それで、」
「シルヴァン」

何かあって、甘えに来たのは本当のくせに、それを向こうから見破られるのはなんだか気恥ずかしくて。
だからまずは適当に話を逸らしてからそれとなくそういう話を…なんて、そんな目論見はベレスの一言によってあっさりと打ち砕かれる。

「君、今嘘を吐いてるだろう」
「、そ、んなことは」

ついうっかり否定の言葉が先に出る。
もはや反射に近い、今まで培ってきた処世術。本心を極力見せないための。
けれどそんなもの、この人には一切通用しないらしい。

「私の前でまで隠さなくていい」

咎めるような口調のあとに、今度はそうやってふわりと笑いかけられて。
本当にこの人は相手の心を解くのが上手い人だな、と思う。
むしろ自分がちょろいだけなのだろうか。この人に対してだけ、異様に。
ベレスは先程まで熱心に目を通していたはずの書類を机に放り投げる。
それそんなに雑に扱っていいものなのか、なんていう真っ当な疑問は、自分の冷たい手が彼女の柔らかくて温かい手に包まれた瞬間、思考の外に飛んでいった。

「おいで、シルヴァン」

そのままベレスはベッドに腰掛けて、シルヴァンの手を引く。
そんな風に誘われて頑なでいられるほどシルヴァンの理性は強固でもないし、大人でもない。
引かれるままに体を寄せて、そのままベレスの首筋に顔を埋めながら抱き込んで二人してベッドに転がった。
腕を回してぴたりと体を密着させれば、じわじわとベレスの体温が伝わる。あたたかい。
凍てついていた体とともに心まで溶かされていくような錯覚を覚える。

「…笑わないでくださいよ」
「笑うわけがないだろう」

ベレスの手がシルヴァンの赤い髪をくしゃくしゃと撫でる。
なんだか母親に甘やかされる幼子のようだ、なんだかくすぐったくて恥ずかしい。
けれど元々甘えに来たようなものだ、少しくらいの恥は今更だろう。
シルヴァンは観念したように小さくため息を吐くと、隠しておきたかった本音をゆっくりと吐露し始めた。

「昔の夢を見たんですよ。こういう寒い夜の日にはたまにあるんです。吐きそうになって目が覚めて、眠れなくなる」
「怖い夢だったんだな」
「…まあ、否定はしませんね」

怖い夢か、と聞かれるとどうなのだろう。
別に幽霊だの命の危険を感じたりだの、そういう類のものではないから恐怖を感じるわけではない。
ただ、寂しくて悲しくて、泣きそうになりながら目覚める夢を分類わけするのならば決して楽しいそれではないから、怖い夢に該当するのだと思う。
…怖い夢を見たから眠れない、だなんて、文字にするとそれこそ母親に甘える幼子だ、とも思ったが。

「だからなんていうかこう…誰かのぬくもりが欲しくなったっていうか」
「寂しくて?」
「んー…、そんなとこです。だからこんな夜更けなのにお邪魔しに来てしまったっていうか…すみません」
「そんなこと気にしなくていいよ。…それに」

あたたかい手が両の頬に触れてきて、包まれる。
至近距離で視線が交差して、キスをしたいな、と思った瞬間にはベレスの唇が降ってきてそっと重なっていた。
ちゅ、と触れるだけの淡いキス。唇を離したあとでベレスはふわりと微笑んだ。

「そういうのちゃんと話してくれるほうが嬉しいよ。君はすぐに隠したがるから」

ああ、本当にこの人はもう。
シルヴァンは愛しさに胸がきゅうと詰まるような感覚に襲われて、たまらずベレスの体をぎゅうと抱きしめる。
ああでもそれだけじゃ全然足りなくなって、もっと触れたい、もっと愛したい、愛されたいという欲が湧いてくる。
今夜は別にそういうつもりじゃなかったはずなのに。ただ、ほんとに傍にいてもらえるだけで十分だったはずなのに。
そんな表情で、そんな風に心の奥までどろどろに溶かして愛するような言葉を囁かれて、大人しくしていられるわけがない。

「…せんせ、」

今度はこちらからベレスの顔を引き寄せて、離れたばかりの唇をもう一度触れ合わせる。
さっきみたいな慈しむような優しいキスじゃなくて、自分の欲望をダイレクトに伝えるような、深いキス。
唇を食んで、舌で唇のあわいをこじ開けて、舌と舌を絡めあわせて。
抱きしめている彼女の体が、息苦しさかそれとも別の感覚か、ぴくんぴくんと震えてその振動にすら煽られた。
散々口内をかき回して唾液を絡ませながらゆっくりと唇を離した時には、既にベレスの瞳は欲情の色を映していた。シルヴァンのそれと同じように。
ベレスはシルヴァンの首にそっと腕を回すと、揶揄するように小さく笑う。

「おかしいな、夜ふかしは駄目なんじゃなかったのか?」
「いちゃいちゃするのは美容にいいらしいですよ?」
「ふふ、ほんとかな」

求めて、同じように求められることの幸福。今まで知らなかった充足感。
どちらともなく指を絡めて、見つめ合う瞳だけで了承を得て、スタートのシグナルのようにもう一度ベレスの唇に深く口付けた。





経験だけなら多分人並み以上にあるけれど、でも自分は何も知らなかったんだな、とシルヴァンは思う。
結局こんなものは人間に組み込まれた本能のシステムでしか無くて、快楽が生じるのは種をより効率的にばら撒けるようにというだけのもので。
だから相手なんてどうでもよくて、誰をどう抱いたところで感じる快楽に差なんてそう無いものだと、ずっとそういう風に思っていた。

「ん、んん…ぁ、しる…ぁ…」

けれどそうじゃなかったんだな、と知ったのはつい最近のことで。
初めてベレスを抱いた日は、未経験のことに翻弄されてまるで童貞みたいになってしまったのを未だに覚えている。
体のどこに触れても触れられても気持ちがよくて逆にどうすればいいのか分からなくなったり、興奮に歯止めが効かなくなってかなり体に無茶をさせてしまったり。思い出すと少し恥ずかしい。
さすがに今はそんな情けないことになったりはしないけれど、けれど未だに初めて知ることばかりだ。
例えば、今こうやって緩やかに繋がりながら。

「せんせ、目とろっとろですよ」

細い腰を掴んで、じわりじわりと中を擦り上げる。
一番奥までたどり着いたらそのままゆっくりと押し上げて、そおっと腰を引く。その繰り返し。
浅く繰り返されるさざ波のような快楽に、ベレスの体はすっかりとろけきってしまっているようだった。
シルヴァン、と名前を呼ぶ声も上手く舌が回っていないせいでどこかいとけなくて、愛らしい。
手遊びに胸の膨らみをやわやわと揉んで、尖った先端をぴんと弾いてやれば、そのいとけない声のまま甘く喉を鳴らす姿に下腹部がじりじりと焼けるような思いがした。

「きもちよさそーですね」
「っん、は…ぁ…、くすぐっ、た、い…」

彼女のお腹の下あたり、この辺に自分のものがあるのかな、なんて思いながらゆるゆると撫でる。
中と外から同じ箇所を擦られる感触にベレスはひくひくと身悶えて、シルヴァンの性器を切なく締め付けた。
こんな風に穏やかに繋がっているだけで満たされるなんて、ベレスを抱くようになって初めて知ったことだ。
シルヴァンにとって、今までのセックスなんてものはただ衝動に任せてがつがつと快楽だけを貪るだけの行為で。
囁く言葉も触れ合わせる唇も柔らかな肌をなぞる愛撫も、全て射精に至るためのただの手段に過ぎなかった。
けれど今は、そういうただの手段でしかなかったもの全てが、愛おしくて、気持ちいい。

「は…、な、んで、今日は、こんなに…」
「んー…たまにはこう、ゆっくりじっくりするのもいいかなーって」
「ぅ、ん、んっ…!」

言ってまた少しだけ腰を揺する。もどかしそうに喘ぐ声がシルヴァンの鼓膜を震わせて、脳の快楽を感じるあたりが直に刺激されているような錯覚を覚える。
どこに触れても柔らかくて温かくて、触れる度に敏感な反応を返してくれるこの体が愛おしい。
普段毅然として振る舞う彼女が、こんな風に涙で顔をぐしゃぐしゃにして快楽に潤んだ瞳で見上げてくるのが愛おしい。
理性じゃなくて多分本能で、焦れったそうに中をひくつかせて自分を求めてくる様が愛おしい。
体で感じる快楽なんかよりももっと、心で感じるこの愛おしさのほうが気持ちいい。満たされる。堪らない。

「っも、や…、ぅ、はやく…」
「イきたい?」

問いかければ、ベレスは陶然とシルヴァンを見上げながら子どもみたいにこくこくと首を振る。
そんな顔で懇願されるとなおも焦らして虐めたくなったりもするけれど、さすがに今日はそんな気分じゃない。
求められるまま、言葉の代わりにキスで応えて奥を何回かぐ、ぐ、と突き上げる。
既にいっぱいいっぱいだったのだろう。満杯になったコップから水が溢れるみたいに、それだけの刺激であっという間にベレスは絶頂へと押し上げられた。

「ひっ、ぁ、しる、ぁ、あ、あ…っ!」

がくん、と腰が大きく跳ねて、それから小刻みに痙攣する。
やがてくったりと弛緩した体をそっと抱きしめながら、改めて愛しさを噛み締めた。
自分の欲望に応えるように同じ欲望をぶつけてくれることがただただ嬉しくて、愛おしくて、幸せだと思った。

「せんせ、俺まだイってないんで」

けれどまあ、それはそれとして。
やはり生理的な欲求も満たさねば終われないのが男の辛いところだと思いつつ、ベレスの耳にそっと囁いた。

「もうちょっとだけ付き合ってください」
「……、ん」

未だ朦朧としながらも頷いて手を伸ばしてくる姿もまた、もう言い尽くせないくらい。
明けることのない夜を願いながら、再びベレスの体を突き上げた。





どんな夢を見たの?
睦言の合間。シルヴァンの腕の中。くたりと力を抜いたベレスが思い出したかのように問いかけてきて、シルヴァンはぱちくりと瞬きをした。
そういえばそんな理由で来たんだった、シルヴァンは今更のように思い出す。
十分すぎるくらい温めてもらって、心も体も満たされたあとだから正直忘れかけていた。
聞いてもなにも面白くない話だとは思うのだが、それでもベレスはシルヴァンが話すことを好むから、寝物語の代わりにでもというような気持ちで口を開いた。

「昔の夢…ってのはさっき言いましたっけ」
「うん」
「ほんとに、ただの昔の夢なんですよ。以前話したことありますよね、井戸に突き落とされたことがあるって」
「…うん、覚えてる」
「その時の景色を夢に見るんです。真っ暗で、寒くて、見上げる空は狭くて、なのに遠くに見える星と月だけがやたら綺麗で…。だからこういう寒くて綺麗な星空の日は苦手なんですよね、割と」
「…寂しいから?」
「たぶん、そうなんでしょうね」

そこまで語ると、ベレスは口に手を当てて何か考えているような表情になった。
何か変なことでも言ってしまったかな、と一瞬不安になったけれど、別に怒っているわけでもなさそうで、それなら何を、

「えっ? ちょ、ちょっとあんた風邪引きますって!」

とシルヴァンもまたベレスの顔を見ながら逡巡していると、ベレスは急に起き上がって部屋の扉を開けた。
かろうじてインナーこそ着ているものの、今外がどれくらい寒いと思っているんだ。シルヴァンは慌てて外套を持ってその姿を追いかける。
しかしそのまま外に歩いていくかと思われたベレスは開け放した扉の前で立ち止まり、追いかけてきたシルヴァンの腕にすっぽりと収まった。
自らの体をシルヴァンの体にぎゅうぎゅうと寄せて、抱きしめるシルヴァンの腕を抱き返しながら、ベレスは優しい声でシルヴァンに問いかけた。

「まだ怖い?」

言われて、はっとして、空を見上げる。
先ほどと変わらぬ星の降るような夜。しんと凍てつくような空気も先程と変わらない。
けれど絶対的に違うものがある。
二人分の体温、二人分の呼吸の音。
ああ、そうか。もうひとりで凍えることはないんだな、って。もうこうやって見上げる空は一人じゃないんだな、って思って。

「…もう大丈夫です」

そう囁いて、自分のものではないもうひとつのぬくもりを抱きしめた。











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