初めてキースさんちにお邪魔する話




捧げもの。ソファでいちゃつく空折。



来なければ、よかったかもしれない。
広いリビングの大きなソファのすみっこに座って、大きくてふわふわした犬(ジョンっていうらしい)の頭を撫でながら、僕は心の中だけで小さくため息を吐いた。



ことのはじまりはほんの1時間ほど前。
いつもみたいに集まって、みんなでトレーニングをして、今日は何も起こらなかったから帰り支度をして、いつも途中まで送ってくれるキースさんと一緒に帰っているときのことだった。

「キースさんの家に、ですか…?」

それは唐突な提案だった。

「また明日」の挨拶をするところ、いつもの分かれ道でキースさんはふと立ち止まった。
釣られて僕も立ち止まる、キースさんを見上げるとちょっとだけ難しそうな顔。
もしかして何か僕変なことでも言ったんだろうか、恐る恐るキースさんを呼んでみると、キースさんはぱっと笑顔を見せて、こう言った。
私の家まで来ないかい?と。

「ああ!今日は割と早く終わったし、よければうちに来ないかい?」
「で、でも…」

正直僕は迷った。
キースさんの家に行くということはすなわちキースさんと二人っきりになるということで。
そのことを考えるだけで体がじわあと熱くなって、胸がどきどきしてくる。どうしよう、耐えられるのかな。
別に二人っきりになるのは初めてじゃない、初めてじゃないけれど。今までトレーニングルームとか更衣室とかで二人っきりになることなんて何度もあったけど。
それでもなんだか特別だと思った。キースさんのいつも暮らしているところで、二人っきり。特別に、恥ずかしい。

黙っている僕に気づいたのか、キースさんは僕の頭を撫でて申し訳なさそうに言った。

「困らせてしまったかな、すまないね」
「ち、違いますっ、あの、その…」

嫌だと思われたんだろうか、キースさんはへにゃと眉毛を下げた。
僕は慌てて首を横に振る。嫌なわけがない、誘ってもらえたのは本当に嬉しい。キースさんが僕なんかを家に誘ってくれたことが、すごく。
だからキースさんにそんな風に誤解されて悲しませるのは嫌だ。

「本当に…お邪魔しても、いいんですか?」

恥ずかしいのなんて、どうにかなる、きっと、たぶん。
キースさんのしょんぼりした顔を見て僕は自分にそう言い聞かせ、覚悟を決めて答えた。

「、!もちろんだとも!」

キースさんはぱっと明るい顔になって、嬉しそうに僕の手をぎゅっと握る。ここ往来なのに。
でもそんなことキースさんは気にするわけもなく、そうと決まったら早く行こう!と僕の手を強く引きながら前へとずんずん進んでいったのだった。



そうして今に至る。
だけど、やっぱり来なければよかったかもしれない、と僕は思い始めていた。
落ち着かない。そわそわする。緊張する。恥ずかしい。
ちら、と視線を上げて、キッチンに立つキースさんを見やる。キースさんはコーヒーを淹れているみたいだ。
カウンター越しに見えるキースさんはなんだか新鮮で、見ているだけでも恥ずかしくなってくる。ほわほわした淡い湯気に包まれてるキースさんはいつも以上にかっこいい。
じわっと頬が熱くなってくるのに気づいて、僕はジョンをぎゅうっと抱きしめた。どうしよう本当に、恥ずかしい。
もふもふもふとジョンに頭を擦り付けると、ジョンは楽しそうにしっぽをぱたぱたを振った。
僕はあんまり動物には好かれない方だけれど、ジョンは僕のこと好きになってくれたみたいだ。僕の頬をぺろぺろと舐めてきて、くすぐったい。

「ジョンばっかりイワンくんにくっついて、ずるいなあ」
「き、キースさん!」

頭上からキースさんの声が聞こえてきて、僕ははっと顔を上げる。キッチンにいたはずのキースさんはすぐ傍まで来ていて、僕をにこにこと見下ろしていた。
キースさんは持っていたコーヒーをテーブルに置くと、僕のすぐ隣に座る。ふかふかのソファが大きく沈んだ。
キースさんの腕が僕の肩に触れるくらいぴったりとくっつかれて、ちょっと収まってたはずの心臓がまたどきどきと音を立てだした。恋人どうしってこんなにくっついて座るものなのか。

「イワンくんは犬が好きなのかい?」
「え、あ、は、はい」

多分顔を上げたらすぐそこにキースさんの顔がある。
そう考えるとなかなか顔を上げられなくてジョンに抱きついたままでいると、キースさんが手を伸ばしてジョンの背中を撫でながら言った。
キースさんの太くてがっしりした腕が僕の眼前を横切って、また心臓がどくんと鳴る。これじゃ僕ただの変態じゃないか。

キースさんはジョンを見ているはず。
僕は髪の毛の間からちらっと目線だけ上げてキースさんを見た。
ちょっと垂れた優しい瞳、瞬きすると青い色がちかちか光って見えて綺麗だ。そしてすっと整った鼻筋、厚い唇。
仮にもお付き合いしてるわけだから至近距離になったことなんて何度かあるけれど、こうやってまじまじと見るのは初めてかもしれない。かっこいい。すごくかっこいい。
穴が開くくらい見つめていると、その視線に気づいたのかキースさんはふとこちらを見た。髪越しにばちっと目が合う。

「イワンくん?」

思いっきりキースさんから顔を背けた後で僕は後悔した。
髪越しだったんだから、気づかなかった振りしてそっと目を逸らせばよかった。こんなに思いっきり顔を背けたら見てたってことバレバレじゃないか。
頬がじわじわと熱くなってくる。どうしよう。

「イワンくん」

キースさんの手がジョンを離れて僕の肩に触れる。
ただ触られてるだけなのに、熱い。キースさんの手のところから熱が全身に広がって燃え尽きてしまいそうだ。
鏡を見なくても分かる。僕の顔は今きっと真っ赤だ。ますます顔を上げられなくなってしまう。
なのにキースさんは、そんな僕のことを急かしてくる。

「ね、イワンくん、こっちを向いてくれないかな?」
「え、あ、う、うう…」
「ジョンにばっかり君の顔を見せて、妬いてしまうよ」
「キースさ、ん…」

キースさんの手はとうとう僕の頬に触れてしまって、優しく、でも拒むことはできない力でゆっくりと僕の顔をキースさんの方に向かせた。
恥ずかしいくらい真っ赤になった顔がキースさんの前に晒される。
痛いくらいに見つめてくるキースさんの視線に耐えられなくて、僕はまだふらふらと視線を泳がせながら俯いていた。

「そんなに緊張しなくても…それとも何か期待しているのかい?」
「ち、ちが、違います…!、っ」

キースさんのからかうような言葉に僕は思い切り顔を上げる、と、そのままちょっと引き寄せられてキスされた。
一瞬だけの柔らかいキス。唇はすぐに離れて、こつん、とキースさんは僕のおでこに自分のおでこをぶつけて、それからふにゃ、と幸せそうに笑った。
そんな近距離で優しく微笑まれたらもうどうしたらいいのか分からなくなってしまう。とりあえず僕も真っ赤な顔のままキースさんの真似をしてへにゃと眉を下げた。

「やっとこっちを向いてくれたね」
「ううう…キースさん…」
「もう一回してもいいかい?」
「えっ、ん…」

聞いたくせに答えは聞かず、キースさんはもう一度僕の唇を塞いだ。
いつの間にか頬に触れている手とは反対の手が僕の腰に回っていて、そっと抱き寄せられる。そのままキースさんの膝の上へ。
それだけでも僕は心臓が破裂しそうなくらいどきどきしていたのに、キースさんの舌がぺろりと僕の唇を舐めたから、肩が思いっきりびくんと跳ねてしまった。
いつものキスと違う。もっと、なんだかえっちな、感じ。
キースさんの舌はそのままゆっくりと僕の唇の隙間を縫うように舐めて、口を開くようにと促してくる。
僕は恥ずかしくてだんだん何も考えられなくなって、促されるまま薄く唇を開いた。と、ぬるりとした感覚が口の中に進入してきたのが分かった。熱い、キースさんの舌。

「ん、んん…、う」

脳みそがぼんやりする。
キースさんの舌が僕の舌に触れるたびに、じわっと体が軽く痺れるような感じがして、変なのか気持ちがいいのか分からない。
でもやめてほしいとは思わなかったから、多分気持ちがいいんだと思う。
キースさんは何度も僕の舌を吸ったり絡めたりして、やっと唇を離してくれたときにはすっかり息が上がってしまっていた。

「ふは、あ…きーすさん…」
「イワン、くん」

ぼやけた視界に映るキースさんの顔は、多分僕と同じくらい真っ赤だった。そして、すごく切羽詰ったような、苦しい顔をしていた。一言で言ったら、今まで見たことないようなすごくえろい、顔。
え、と思う前にぎゅっと抱きしめられて、キースさんの腕の中に閉じ込められる。

「すまない、そしてすまない、イワンくん…」
「い、いえ、別に、あの…」
「我慢できなくなってしまいそうだ」
「えっ、ええっ、き、キースさん」

ぎゅっと抱き寄せられたキースさんの胸からは、どくどくと大きく鼓動の音が響くように聞こえる。
あのキースさんが、僕と同じようにこんなにどきどきしてるなんて。
あんなに大らかで、何があってもにこにこして動じないようなあのキースさんが。
さっきのキスと抱きしめられてるのに加えて、キースさんの緊張が伝わってくるかのようなこの音。
僕は恥ずかしさとか緊張とか色々な気持ちがごっちゃになって体が動かなくなってしまって、ただ抱きしめられたままずっとその心臓の音を聞いていた。
どれくらいそうしていたのか分からない、30秒かはたまた10分くらいか。キースさんは僕をソファの上に下ろすと、いきなり立ち上がって言った。

「ご、ご飯でも食べに行こうか!」
「は、は、はい!」

キースさんの顔はやっぱりまだ真っ赤だった。だけどくしゃ、といつものように微笑んでいる。
僕の顔も多分まだ真っ赤で、心臓もどきどきが治まらなかったけれど、つられて僕も笑った。

「ジョンにご飯をあげてくるからちょっと待っててくれ、おいでジョン!」

キースさんが呼んで歩き出すと、ジョンはしっぽを振りながらその後を追った。
そういえばジョンのこと忘れてた、ずっと隣にいたんだっけ。なんだか恥ずかしい。

キースさんの背中を見ながら、僕は机の上に置きっぱなしだったコーヒーに手を伸ばす。
すっかりぬるくなってしまったコーヒーにミルクだけ加えて、ゆっくりかき混ぜながら考える。
さっきのキースさんの顔。思い出すだけで胸がどきんとする。色っぽくて視線が熱くて。
そして、キースさんは我慢できなくなる、って言っていた。その意味が分からないような子どもじゃないけれど、でも全部知っていると言えるほど大人でもない。
どうなってしまうんだろう。次、キースさんの家に来たときは、…。

「イワンくん、行こうか」

ジョンを撫でながらキースさんが呼ぶ。
僕ははい、とひとつ返事をして、持っていたコーヒーを一気に飲み干し立ち上がる。
次、次にキースさんの家に来るのはいつになるんだろう。
シュガーを入れてなかったコーヒーはいつもよりも苦かったはずなのだけれど、期待と不安で胸がいっぱいで味なんてほとんど分からなかった。






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