ひみつ(誰にもあげない)
だってそれは彼の信頼に対する酷い裏切りだと思ったから、本当は持っちゃいけないものだと思った。
こんな邪な思いで彼の傍に立つことなんて許されないと思った。
でもそれは無理で、気づいた時にはもう今更。自分の意志でどうこうして上書きするなんて不可能な状態になっていて。
だから、せめて誰にも内緒にしておこうと思った。自分だけの思い、外に出さなければ誰にも分からない恋。
彼の信頼を裏切らないために、絶対に。
梅雨の季節は体育館が酷く狭く感じる。というよりも実際に狭い。
秀徳はバスケの強豪ということで知られているけれど、何も強いのはバスケ部だけではなくて。
文武両道を掲げている学校柄、どの部活動もそれなりに成果を残しているのだ。
だからバスケ部だけが梅雨の時期に体育館を占領する、というようなことはできず(それでもバスケ部は他の部より優秀な成績を残しているから優先はさせてもらえるが)、女子バスケ部とコートの譲り合いをしつつ練習をする、というようなことがちらほらあった。
「ね、ね、緑間くんってまた告白されたんだって」
「ほんともてるよねー緑間くんって」
練習の最中(と言っても休憩中だけれど)話しかけてきたのは女子バスケ部の子二人だった。
確か自分たちと同じように推薦で入ってきた、1年にしてエース並の実力を持った子たちだったと思う。男勝りで力強いプレイをするなあなんて練習中のプレイを見て思った覚えがある。
髪型も男の子みたいに短くて、恋だのそういうのとは遠そうに見えるのだけれど、女子というものは別にそうでもないらしい。
先ほどまで叫んで走って死ぬ気のプレイをしていたくせに、今はそんな恋の話題を振ってくるものだから面白いなあなんて思ったりした。
「あーまた?この前も無かったっけそういうの」
「こないだと同じバド部の子だって!すごいよねー」
言いながら、ちょっと離れたところでスポーツドリンクを飲んでいる緑間に視線を向ける。高尾も釣られて一瞬だけそっちを見て、すぐ視線を戻した。
緑間はなんだかんだでもてる。基本的におは朝だのリアカーなので傍から見たら変人だけど、基本的に優しいし頭もいい。
それより何より、バスケをしている姿を見ていたら惚れるのはしょうがないんじゃないかなあとも思ったりする。あの綺麗なフォームから放たれるシュートを見たら、バスケをよく知らない子だってかっこいいと思うだろう。
だからというか当然というか、他の体育館部活女子からの告白は殊更多いとのことだった。
「でも緑間くんて全然彼女作る気配ないよねーもてるのに」
不思議そうに女の子は言うけど、高尾から言わせてもらえばまあそれは当然のことじゃないかと思う。
そりゃそうだ、緑間はバスケがしたくてこの学校に入ったのだから。男女交際なんて断るのは当たり前、と言ったらその女の子に可愛そうだけれど当たり前だと思う。
頭の固い緑間のことだ、交際しつつのバスケなんて不義理にも程があるとか思ってるんだろう。緑間的に言えば人事を尽くしていない、とでも言おうか。
「ま、真ちゃんはバスケが恋人だからねー仕方ないのだよ」
だから、緑間の恋の話についてはそんな風に返して締めるのが日常となっていた。
「それで高尾はどうなのよー」
「へ?オレ?」
いつもはだいたいそれで終わり。
緑間の好きな人は聞いたことないのかとかそういう話はしたことないのかとか、ちょこちょこ話してそれで終わり、なんだけれど。
まさか矛先が自分に向けられるとは思ってなかったからちょっとびっくりして声が裏返ってしまった。
「そうそう高尾の好きな人とか聞いたことないから気になるー」
何も真ちゃんが近くにいる時に聞かなくてもいいのになー、なんて、何も知らない彼女たちを軽く恨んでみたりもする。
まあ別に、聞こえない距離ではないだろうけど、興味がなければ耳を通り抜けていく話ではあるだろう。自分が緑間を意識し過ぎなだけだ。
とはいえ、何と言ったものか。本当のことなどもちろん言えないし、中途半端にぼかすと逆に突っ込んで聞かれるだろうし(女子というものはそういうものだ)。
「うーん…まあオレだって健全な高校生だし?いることはいるけど、内緒」
「えーほんとに!高尾意外とモテるんだから告っちゃえばいいのにー」
「ほんとほんと!バレー部の女の子で高尾好きって子いたし!」
告白、か。
できるのなら楽なんだろうな、と思ったりする。
実際思いを伝えることなんてできない、誰かに相談することすらできない、ということが酷くストレスの溜まるものだと高尾は最近知ることになった。
女子が元気にしてるのは、そういう恋の話をたくさんして、分かち合ってるからなのかなあなんて思ったりする。
でもだめだ、自分は、絶対に。これは裏切りに対する罰だから。苦しむのくらい甘んじて受けなければいけない。隠し通すのがせめてもの義理だから。
「いや相手がねー、告白しちゃダメな相手っていうか」
「え!?もしかして彼氏もちの子とか!?」
「んー、まー怒られるようなって意味ではそんなとこかも」
そう言うと、女の子たちは何が面白かったのかきゃーと色めきたった。本当に何が面白いんだか、こっちは何にも面白くないのに。
「ほらそろそろ休憩終わりだってよー、そっちも戻らないと先輩にどやされるんじゃないのー?」
「あ、ヤバッ、戻るわ!」
「じゃねー高尾ー、緑間くんのことでなんかあったら教えてねー」
言いながら女の子たちは騒がしく練習に戻っていった。
全く、自分たちと同じくらいとは言わないがそれなりの練習をしておいてなんであんなに元気なのか。あの体力はどこからくるんだろうなんて思いつつ、高尾も汗を拭ってコートに入った。
緑間と恋の話なんてしたことがなかった。
緑間はなんとなくそういう話を嫌いそうだし、そもそも聞いたところで答えてくれそうもない。
だからと言ってまさか自分の恋の話なんて聞かせるわけにもいかないし、というかもし聞かせようとしたところで煩いと一蹴されるのが関の山だ。
そう、思っていたから。
「高尾、お前好きな人がいるのか」
だから緑間からその言葉が出た時、高尾が酷く驚いたのは仕方のないことだった。
「ぅえっ!?、あ、」
すっかり人気の無くなった体育館。雨はまだしとしとと降り続いていて、二人分のボールの音だけが響く体育館を静かに包む。
その、いつもと同じ自主練の最中。あまりに唐突に投げられた言葉に、高尾は打っていたシュートを思い切り外してしまった。
体育館の隅に転がっていったボールを慌てて追いかけながら高尾は練習中のことを思い出す。休憩中、女子との会話。
そうか、あれが聞こえていたのか。
「あー、そっか、なんだ、真ちゃん聞いてたのね…」
ゆっくりとドリブルをつきながら戻ってきて、はあと大きな溜め息を吐く。
正直、聞かれたくなかった、というか緑間なら聞いていてもそんな話題スルーするものだと過信していた。
なんとなく居心地が悪くて、緑間に背を向けて反対側のゴールに向かってレイアップシュート、が、ちょっとステップのタイミングがおかしくなって外してしまった。
こんなの外すなんてありえないのに、やっぱりどうしようもなく動揺しているらしい。
それが緑間にも伝わってしまったのか、少しだけ不機嫌そうに緑間は呟く。
「なんだ、オレに聞かれると何か不都合なことでもあるのか?」
「んー別に…そうでもない、けど」
そうでもないわけがない、けど。今はそう答えるしかなかった。
言えるわけがない、誰にも言うことなんて出来ないけれど、緑間だけには言うことなんてできない。
「じゃあ何故そんなに動揺するのだよ」
「…あーなんつーの?真ちゃんがそんな話振ってくるとは思わなかったからびっくりしちゃって」
もしかして責められているのだろうか。
緑間は恋人も作らずにバスケに打ち込んでいるというのに、自分は好きな人なんて作って。
それを考えると、さあ、と血の気が引く気がした。ただでさえ緑間を心の中で裏切っているというのに、これ以上それを重ねるようなことはしたくなかった。
「いや、でも、安心して!恋愛にうつつを抜かしてバスケを適当にとかは絶対にねーから!」
言って、いつもの定位置、スリーポイントライン間際の緑間に向かってパスをする。
緑間に生半可なパスなんてできるわけがない、いつも最高のパスを出さなければ。だから、邪念なんて振り切って。
「…ふん、それは当たり前なのだよ」
ボールを受け取った緑間はそのまま踏み切ってジャンプする。そしてゴールに向かってそのボールを放った。
当たり前のようにゴールに吸い込まれていくボール。その綺麗な放物線を眺めながら、思う。
そうだ、緑間は自分を認めてくれているのだ、チームメイトとして。
その信頼を裏切ることなんて誰ができようか(いいや、誰も)。
だからそんな感情は押し込めておくのだ、心の奥に、奥に。
「あっ、高尾ー!監督から伝言」
まだ雨は続いていた。
早くこんな季節終わればいいのになあ、なんて思いつつ教室の窓から空を見上げていると、廊下の方から女子の声がした。
振り向いてみれば、先日緑間の話をしたばかりの女の子だった。
緑間とのやりとりを思い出してなんとなく憂鬱な気分になりつつ、しかし伝言と聞いては無視もできないのでのろのろと廊下の窓へと向かう。
「はいはーい、んでマー坊はなんて?」
「その呼び方怒られるよー面白いけどさ。今日は一年全員筋トレメニューだけだって」
「うげ、マジかよー…」
こういうこともあるから雨は嫌いなのだ。
筋トレがいくら基本といっても部活時間中延々とというのは相当きついし、何よりやっぱりボールに触りたい。
はあ、と溜め息をついた高尾を慰めようとしたのかは知らないが、その子は耳貸して、と楽しそうな顔で呟く。
また緑間が告白されでもしたかな、なんて思いつつも耳を近づけると、飛び込んできたのは思いもよらない言葉で。
「聞いた?緑間くん好きな人いるんだって!」
「、は!?」
思わず大きな声を出してしまって慌てて手で口を抑えた。
しかし女の子はその反応も予想済みだったのか、更に楽しそうに続ける。
「びっくりだよねーこないだ告白した子がさ、聞いたらしいの」
「え、好きな人いるのか、って?」
「そうそう!そしたら緑間くん、ああ、って言ったって!」
「そ、うなんだ…へー…」
今の自分は動揺を上手く隠せているだろうか。語尾は震えてなんかいないだろうか。
女の子はまだ隣でどのクラスのどの子が怪しいかもとかまだ喋っていたけど、そんなもの耳に入ってこなかった。
緑間に、好きな人がいる。
ただそれだけの事実が、頭をガツンと鈍器で殴られたみたいにショックだった。
「あ、伝言他の子にも伝えといてね!じゃーまた部活で!」
授業開始のチャイムが鳴って、慌てて女の子は帰っていく。
朦朧としたまま手を振って(ちゃんと振れていただろうか?)、ふらふらと自分の席に戻った。
いたんだ、ちゃんと。バスケが恋人だと思ってどこか安心してた自分が馬鹿みたいだと思った。
ただ話さないだけで、緑間にはちゃんと想い人がいて、それはきっと高尾の知らない誰かで。
思えば緑間が恋愛とバスケを区別できないわけがないのだ。好きな人くらいいたって緑間はきっと人事を尽くす。
自分がどれだけ浅はかだったか。思い知って高尾は泣きそうになった(こんなところで泣くわけないけれど)。
今の気持ちじゃ緑間にまともなパスなんて出せそうにない。
今日のメニューは筋トレだけでよかったな、なんて普段ではありえない感謝を心のなかでしてみたりした。
しかしいつもと同じ自主練の時間はどうしてもやってくるわけで。
サボればよかったんだろうけれど、なんとなくそれを理由にサボるのは狡い気がして、またいつものようにコートに二人、残っていた。
「なー真ちゃん、真ちゃんも好きな人いるんだな」
でもやっぱりもやもやして、集中なんてできなくて。
どうせなら先日のお返しだ、と若干投げやりな気持ちになりながら、でもできるだけ表面上は平静を保ちつつ言葉を溢した。
「はあ…誰から聞いたのだよ」
「誰でもいーじゃん、そんなこと」
既に何人かに聞かれたのか、うんざりという様子で緑間は答える。
でも本当にそんなことはどうでもよかった。重要なのはそんなことじゃない。
今の自分の頭の中を占めているのは、緑間に好きな人がいる、というただそれだけだった。
あんなに一緒にいてバスケしかしてなかったのに。バスケのことしか考えてないと思ってたのに。
「てか真ちゃんに好きな人いるとは思わなかったわーバスケ命みたいな顔してるくせに」
「別にいてもおかしくはないだろう?」
その言い方が、なんとなくカチンときた。
というよりも多分最初からなんとなくイライラしてたんだと思う。
昼間のショックが苛立ちに時間を経て変化してしまったんだろうか。
裏切られたような、そんな気持ち。
「じゃあなんでオレのこと責めたんだよ」
「?別に責めた覚えなどないが」
「こないだわざわざオレの好きな人がどうこうとか聞いてきただろ!」
怒鳴るような言い方になってしまって、少しだけ後悔する。
ああ、今の自分は酷く情けない。だってこれじゃただの。
「あれは別に責めてなどいないのだよ」
「…じゃあなんで、」
なんであんなこと聞いてきたのか。いいや、本当はそんなのどうでもよかった。
だって、これじゃただの八つ当たりだ。
自分の想い人に好きな人がいた、ただそれだけ。ただそれだけのことが悔しくて喚いているだけに過ぎなかった。
子どもみたいな癇癪。最初から手に入らないものだと分かっていたはずなのに、それを望むことすら許されないと分かっていたはずなのに。いざそうなると往生際悪く縋りつく。
みっともなさすぎて涙が出そうだった。
「…あれは、単にお前の、その、好きな人とやらが気になったから聞いたのだよ」
それは、初めて見る顔だった。
照れたような、躊躇うような、いつもはっきり物事を決める緑間らしくない顔。
やめてほしい、そんな顔、しないでほしい(期待してしまうから)。
「なん、で」
口が勝手に動いて言葉を紡ぐ。
どくんどくん、心臓が高鳴る。
期待なんてするな、してはいけない、駄目だと思っているのに体は勝手にその先の答えを求める。
「…自分の好きな人が好きな人について話をしていて、それが気になるのはそんなに変なことか?」
雨の音以外何も聞こえない静かな体育館に、緑間のその言葉だけが小さく響いた。
「は、はは…なにそれ」
ぺたん、と力が抜けたように座り込む。いや、実際に力が抜けてしまった。
手から離れたボールがころころとどこかへ転がっていってしまったけど今はもうどうでもいい。追いかける気力なんてなくて、ただ俯いた。
「高尾?」
「オレ、オレが必死に隠してきたの、馬鹿みたいじゃん…」
そうだ、自分は必死に隠してきたのだ。
想うことなんて許されないと思って、気持ちに蓋をして誰にも見せないようにして。
当然本人になんか伝える気なんかなくて、だってそれは、
「オレのこと、仲間として認めてもらえてるのが嬉しくて、その信頼を裏切らないようにって思ってたのに」
相棒としての信頼を裏切りたくなかったから。
一緒にバスケをする仲間として信頼して、きっと緑間もそう思ってくれているのに、邪な思いを抱いているなんて知られたくなかった。
緑間は純粋な気持ちで自分を見てくれているのに、自分は違う気持ちで緑間を見ているなんて知られたら、その信頼ごと裏切ってしまうような気がしたから。
「…だから、誰にも秘密だったのに」
誰にも内緒で、誰にもあげない。
この恋は自分だけのものだと思っていたのに。
「真ちゃん、ずるい」
「何がなのだよ」
「ばか」
なのにそれを、緑間の方からあっさりと裏切ってくるなんて。
しかもそれを、悔しいとかじゃなくて、嬉しいと感じる自分がいるなんて。
でも、ずるいと思う。自分はこんなに隠してたのに、緑間はこんなにあっさりと伝えてくるなんて。
まるで自分は道化じゃないか。本当にばかみたいだ。
「おい高尾?」
緑間が顔を覗きこんでくる。思い切り顔を逸らせば、今度は手を掴まれて心臓が跳ねた。
熱い、触れられた部分から火が上がるんじゃないかってくらい熱い。
緑間は視線を合わせようと何度も顔を覗き込む、そのたびに逸らす、を繰り返していたら、今度は反対の手で頬を捕らえられた。もう逃げようもなくて、緑間の手にするがまま、顔を上げさせられる。
ああ頬もきっと真っ赤だ。だって触れるところ全てが熱い、手も頬も熱くて熱くてたまらない。
「…真っ赤だぞ、高尾」
「…っ誰のせいだと、思ってんだよ」
声が裏返る。ああもう本当に格好がつかない。
もうこんなの好きだって全力で主張してるのと同じじゃないか。
それでも足りないみたいで、緑間は言葉を求めてくる。
「高尾、ちゃんと聞かせてくれ」
「…じゃあ真ちゃんもちゃんと言って」
「…分かった」
緑間も、あの緑間も緊張するのか、すう、と軽く息を吸って吐く動作。
それをじっと、手を掴まれて頬を捕らえられた近距離から、高尾はじっと眺めていた。
「高尾、オレはお前が好きなのだよ」
そして真摯に、ただひたむきに自分だけに向けられた言葉。
観念する、観念するしかなかった。
「オレも…真ちゃんが好き、です」
言うことなんて一生無いと思っていた言葉。一生胸に秘めておくものだと思っていた想い。
言ってしまった、もう後戻りはできない。でも、多分それでいいのだ、きっと。
だって目の前には同じように顔を赤くして、難しい顔をした緑間がいる(喜ぶ顔なんて想像できなかったから、それが緑間にとって嬉しい時の顔なのだ、きっと)。
もうそれだけでよかった。
隠し続けてきた想いも、勝手に感じてきた後ろめたさも、それだけで報われると思った、全部。