embrace




雨が好きな人間というのは特に珍しいものではないと思う。嫌いだという人間はそれ以上に然り。
果たして自分はそのどちらに当てはまるのだろうかとぼんやり考えながら、氷室は雲に覆われた空を見上げた。ぽつぽつと次から次に落ちてくる小さな雨粒。頬を滑っては落ちていく。
雨の日の思い出はつらいものばかりだ。狂おしいほどの嫉妬を覚えた幼い日、再会した日に抱いたどろどろとした感情。だから全て振り切った(はずの)今でも軋むように胸が痛む。
だから雨の日は昔から嫌いだった。どうしても記憶が過去に引き戻されてしまうから。あの時の濁った感情が胸の中で疼いて、苦しい。
でも雨は好きだった。過去の傷から溢れ出てくる涙を全部流して誤魔化してくれるから。誰にも分からぬように。



「室ちんまた傘忘れてったの〜?」

寮に帰ると当然のようにその入り口に紫原は立っていた。
待っていてほしいなんて言った覚えはないし思ってもいなかったはずなのに、そこにその姿があることにほっとしてしまう自分が浅ましくて吐き気がした。
紫原は帰ってきたばかりの氷室の姿を見て小さなため息をひとつ。そんなに強い雨ではなかったはずなのにしっとりと濡れた髪や服。
呆れたように問う彼に苦笑いをひとつだけ返して、氷室はその大きな体の横を通りぬける。通り抜けようとする。
とにかく部屋に戻りたかった。先程からの感傷にもう少しだけ浸っていたかった。しとしとと窓を濡らす雨の音を聞きながら。

「だーめ」

しかしそんなのは無駄だとは分かっていて。
案の定紫原に手を掴まれて、それを阻まれる。
素直に通してくれるわけがない。だって彼は全て知ってしまっているのだ、きっと、また。例え顔を見られなくとも涙の痕跡など残っていなくてもどんな上手な作り笑いでごまかしても。
なのに、いやだからこそ彼は氷室を一人になどさせてくれない。そんなの痛いくらいに分かっている。
今度は氷室がため息を吐く番であった。しかし今更紫原がそんなものに動じないことだって知ってしまっている。
だってもう何回かあったことの繰り返し。

「、アツシ」
「とりあえずシャワー浴びてきなよ、オレタオルとか準備しとくし〜」

このやりとりも些細な違いこそあれど、もはやお決まりの流れとなってしまった。
紫原は氷室が頷くまでこの手を離してなどくれない。
もう分かっているのだ。だから抵抗などしない、いや、この時点で氷室に抵抗の意が残っていたのかすら疑わしいのだけれど。
だからただ小さく頷いて、紫原の手に引かれるままになってしまうのだ。いつものように。



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「さすがにもー風邪引くってば、寒いんだからさー」
「うん、ごめん」

アツシは意外にも面倒見のいい人間ということを氷室は最近改めて思う(もしかしたら自分にだけ特別だと思うのは傲慢だろうか)。
風呂から出てきた氷室はそのまま紫原の部屋へとすぐに連行されて、半乾きだった髪をタオルでがしがしと乾かされる。
シャワーを浴びたとはいえ、やはり体はまだ冷えたままだ(心も同様に)。簡単に温まるのであれば苦労はしない。
氷室が小さく身震いをすると、それに気づいた紫原がそのままぎゅうと氷室を腕の中に抱きしめた。

「ほら、あっためてあげるし」

ああ浅ましい。自分の薄汚さや狡さに氷室は吐き気すら覚えた。
先ほどまであんなに一人になりたがっていたのに、冷たい温度で感傷に浸りたかったというのに。
紫原の大きな腕に包みこまれてその温度に触れた瞬間にそれが心地よくてたまらないと思ってしまうのだから、本当に浅ましくていやらしくてどうしようもない。
素直にそのぬくもりに包まれて癒やされてしまうのはきっと簡単なのかもしれないけれどそれもできなくて、仕方がないからその腕の中で俯いたまま。
きっと紫原はそんな氷室の葛藤すらも全部見透かしてしまっていて。だから優しくその頭を撫でるのだ。
それが、その優しさが今の氷室にはどうしても痛かった。優しいその温度が、酷く苦しくて仕方なかったのだ。

だから、でも、逃れる術が他に思いつかなくて。氷室はそっと紫原の股間へと手を伸ばし、唇を首筋に触れさせる。
それならばもっと熱い温度で何もかも考えなくて済むようにしてほしかったのだ。

「アツシ」
「んー…今はだめ」

けれど紫原はそれをあっさりと受け流してしまう。
こういう時の氷室を体で慰めてしまうのは酷く簡単であった。けれどそうしたあとで氷室が酷い後悔の念を抱くことを紫原は知ってしまっている。
だから、氷室のその要求には答えるわけにはいかなかったのだ、今は。

「室ちんがこういう風にセックスしたがる時って逃げたいときだけでしょ」

愛される、理解されるというのはとても幸せなことだというのは氷室も理解している。
けれど、それは同時に残酷なことでもあると思うのだ。楽な方へと堕ちるのを許してなんてくれない。

紫原は氷室の両の頬を優しく包んでそっと上を向かせる。氷室は思わず目を伏せるけれど、彼の視線がじっとこちらを捉えていて、逃れることなんて出来ないことを今更のように悟る。
仕方なくその瞳を上へ向ければやはりその視線は絡まって、ようやくといったように紫原は口を開いた。

「室ちんさー、もうオレ室ちんの汚いとことか歪んでるとこととかも全部知ってるんだからさぁ」
「…それは、」
「別に誤魔化さなくてもいいっていつも言ってんじゃん」

その口調はいつものように適当で、しかし酷く優しくて。氷室は自分の心の内が酷くかき乱されるのを強く感じた。

過去の感傷に浸るのは心地よかった。自分は恵まれていない可哀想なのだとひたすら脳内で繰り返して、そしてそのままゆっくりと暗闇に沈む感覚。
もやもやと漂うような痛みが伴うそれは決して嫌いではなかった。才能のこと過去のこと醜い嫉妬心、汚い自分の感情全てが入り混じって胸を締め付けてくるその感覚。
被害者ぶっているとか可哀想な自分に酔っているとか、そう言ってしまえば確かにそうなのだろうと氷室も自覚はしている。けれど誰にも言わなければ迷惑なんてかけていないのだ。
ただ静かに自分の殻の中で眠るだけ。痛みがじんわりと治まるまで。
けれど紫原はそれを許してくれないのだ。無理やり氷室をその暗闇の中から引きずりだしてしまう。

「そんなの…説明とか、できるわけないだろ…」

しかしそこから引きずりだされたところで、それをどう言葉にすればいいのかなど分かるわけもなく。
なにせ今までずっと自分の中で押し殺してきたものなのだ。甘やかな痛みとして。

「でも思ってることはあるんでしょ」
「ある、けど」
「説明とかはしなくていいから、隠さないでよ」

そうやって紫原は氷室の抱えた孤独の輪郭を撫でるのだ。
氷室が今までずっと自分の中に隠し続け抱えて生きてきたものを、今更ちゃんとそうやって言葉にできるだなんて紫原だって思っていない。そんなことは期待していないのだ。
ただ、望まないことは氷室がそれを自分の中に隠そうとすること、一人で浸ろうとすること。
彼がそれを心地良いと感じていたとしても、氷室が過去ばかりを見ているのはきっと彼のためになどならない。そもそもそんなことがずっと続くのを許せるほど紫原も大人ではなかったのだ。

今、自分がここにいるというのに。

「ね、室ちん」

あやすように(甘えるように)紫原が大きな腕と言葉とで氷室の心を揺らす。
氷室のことくらい、全てとは言わないが抱えている歪みや葛藤などとうに知っている。
けれど紫原はそれが氷室の口からちゃんと吐き出されるのを聞きたかったのだ。だから紫原は自分から言葉を与えるのではなくて、氷室が口を開くのを促すのだ。

「…いろいろ、思い出すんだよ」

小さく呟かれた氷室の言葉。それを聞き逃すわけもなく、しかし無駄に急かすようなこともしたくなくてゆっくりと背中を撫でながら紫原は相槌を打つ。

「昔のこと?」
「憎かったこととか嫉妬とか、」
「うん」

氷室が拙い言葉をゆっくりと零す。まるで幼い子どものような、普段の彼の姿からは想像もできないような弱々しい声で。その度に紫原は醜い本音を紡いだ場所にキスをする。
それがなんだか泣きたくなるほど優しくて、氷室はまた少しずつ言葉を紡ぐ。

「それで、後悔とか」
「うん」
「結局今でもこうやってなってる自分が嫌で」
「…ん」
「全部もやもやして、気持ち悪い」

台詞に成らない言葉。氷室の心の殻を少しだけ破って、その破片を吐き出しただけのような。
しかしそれだけでも十分であった。紫原にとっても、そして氷室にとっても。
現に氷室が先ほどまで感じていたあの吐き気がするほどの葛藤はいつのまにか薄らいでいて。
今はただ、紫原の腕のぬくもりを純粋に愛しいと感じた。感じることができた。ようやく氷室は紫原の体を抱きしめ返すことができる。それをゆっくりと抱きしめる。

「よしよし」

ようやく紫原も氷室の、そして自分の欲望に応えることができる。
未だしっとりとした髪を優しく撫でて、それから氷室の唇を舌でなぞって奪うように口付けた。
先ほど彼が強請ってきた熱。それを存分に与えてやる番だ。

「あったかいな、アツシは」
「ん〜これからもっとあっためてあげるし」

大人しく体を寄せてきた氷室の体を、今度は優しさよりもいやらしさをこめた手でゆっくりと撫でる。じわじわと熱を帯びる彼の体が愛しい。
彼の瞳から完全に孤独や歪みが消える日なんてきっと無いのだろうと紫原は思う。
しかしそれでも構わないのだ。そのような面倒くさい部分や歪んでいるところだってちゃんと愛しているのだから。それを自分だけにぶつけてくれるのであればなおさら。
それに、今彼の瞳に映っているのはただ自分への欲望、熱(全てではないけれど)。
瞳が彼の心を映すのであれば、きっと今氷室の中にあるのはそれが大半なのだからそれでもいいと思った。

そして氷室も、このぬくもりを今確かに愛しいと感じられるのであればそれでいいと。
ただ、そんな風にぼんやりと考えて熱いその手のひらに全てを任せた。



氷室さん幸せにしたいなーと思って書いたけども
結局祝ってないことには変わりなかったでした。
室ちん誕生日おめっとございます。




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