呼吸性アルカローシス
息を吸って、吐く。小さな子どもでもできる簡単なこと。
「はあっ、はっ、は、っ」
もう、考えなくてもいい。考えなくてもいいことなのだ。氷室は必死で自分に言い聞かせる。
嫉妬も後悔も、自分自身に対する嫌悪も。そんな淀んだ感情だって受け入れてもらえたじゃないか。
なのにいつだって、ふとした瞬間にそれは襲ってくる。例えばそれは、一人で歩く帰り道だとか、ベッドに入る前だとか。
ふ、と心に浮かんだ小さな不安は大きな波紋を広げていく。
鎮めようと思えば思うほど、それは手の先足の先にじわじわと拡がって氷室の体をあっという間に埋め尽くす。小さく体が震えだして、目の前が歪み始めて。息が、できなくなる。
「は…、は、はっ」
まるで陸に打ち上げられた魚のようだ。上手く呼吸が出来ずに喘ぐ哀れな姿。
圧迫感に痛む胸をぎゅっと抑えて氷室は体を丸くする。
ゆっくりと息を吸って、吐けばいい。それだけなのに思考はぼやけて体もいうことをきかない。脳が勝手に呼吸をさせる。
苦しくて自然と涙が溢れる。耳鳴りがする。手足が震えて、なんだか言いようのない恐怖に飲み込まれていく。
ああ、これは溜まった黒い感情を体が吐き出そうとしているのかもしれない。
壁にもたれてなんとか意識を保ちながらぼんやりと氷室は思う。
きっと、防衛反応なのだ。自分を守るための、なんとかしようとする。
真っ黒になって動けなくなる前に。淀んだ感情が足に絡まって動けなくなってしまう前に。
「室ちん?」
「っ、は、はあ、あつ、っ」
荒い呼吸の向こうで小さくカチャ、という音。ドアの開く音。
涙でぼやけた視界に大きなからだが映る。そして伸びてくる見慣れた優しい手。
その手はふわりと軽く氷室の体を包んでしまって、手のひらはしっかりと背中に添えられた。
「よしよし、だいじょーぶー」
「ふ、はあ、は、…はっ」
赤子をあやすみたいに何度も紫原は繰り返す。そしてゆっくりと背中を撫でる。
まるで心までぜんぶ包み込まれるようだと思った。その大きくて優しい手のひらで。
緩やかに繰り返される言葉と手は、無意味な焦燥感を溶かしていくようだ。
「…、っは、は…」
氷室の呼吸がじわじわと元に戻り始める。紫原の撫でる速度に合わせるように。
大きな涙がぼろりとひとつだけ落ちて、視界が少しだけクリアになる。それからそっと見上げれば紫原の優しい瞳と目が合った。
紫原はやんわりと笑って、氷室の唇を塞ぐ。まだ微かに震える手を握りながら。
「ん…っふ、…ん、は」
氷室の呼吸を支配してしまうようなキス。でも荒々しくはない優しい口づけ。
紫原の微かな息継ぎに合わせるように、氷室は吐息を合わせる。唇が離れるたびに小さく唾液の音が響く。
しばらくすると紫原の手の中で震えていた氷室の手は徐々に力を取り戻し、そっと紫原の手を握り返した。それに気づくと紫原は名残惜しそうに何度か口の端に触れてからそっと顔を離した。
「へいき?」
「ん…ありがと、アツシ」
紫原はなにも聞かない。ただ落ち着きを取り戻した氷室を軽く抱きしめるのみだ。
そして氷室もなにも伝えない。紫原の胸に抱かれて小さく心臓の音を聞くだけだ。
「室ちん、すきー」
理由なんてもはやどうでもよかったのだ。紫原にも、氷室にも。
ただ、自分がいれば相手は落ち着いてくれる。相手がいれば自分の真っ黒な気持ちは消えてしまう。それだけでよかった。
「オレ、も」
だから、ただ愛の言葉を返すだけで、それだけでよかった。
それだけで正しい呼吸ができるのだ。
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室ちん精神的に不安定っぽいよね。
無題
願わくは、美しい思い出としてずっと胸の中で輝いていることを。
「オレはね、欲しいなって思ったものは手に入れないと気が済まないほうなの」
恋にはいつか終わりがくるものだ。
例えばそれは叶わず壊れてしまうものであったり、愛として実って情というかたちになるものであったり。そして、いつか離れていくものであったり。
いずれにせよ、恋、という淡い感情はいつか必ず終わってしまうものなのだと俺は思っている。
「わがままって思うかもだけどさ、でも欲しいものは欲しいし」
臆病な俺は、それが、ひどくひどく怖かった。
この、嫉妬にも似た憧れがいつか消えてしまうのが。
バスケが嫌いだと言いながらも時々見せるあの楽しそうな笑顔を忘れてしまうのが。
大きな背中を見つめて抱いた、痛みにもあの胸の高鳴りが薄れてしまうのが。
この恋が終わってしまうと、全て無くなってしまうのではないかと思うと、怖くてたまらなくなったのだ。
まるでそれは彼を愛した自分ごと全て失ってしまうようで。空っぽになってしまった自分。なにも残らず大きな穴が開いてしまったらただの肉塊。
「あとさぁ、手に入りそうになってるのにそれを諦めるとか、なおさら無理だし」
だから一生この胸の中に閉じ込めて。痛みを伴いながらもずっと綺麗な思い出として残しておきたいと。
そうすればきっと、俺はなにも無くさずに済む。俺のままでいられる。
時々思い出してああほんとに好きだったんだと、いつまでも胸を痛めていたいのだ。ずっと。だから。
「ね、室ちんが何をそんなに怖がってるのかよくわかんないだけど、オレはがまんできないの」
だから、だめだ。だめだと分かっているのに。
このままだと絶対後悔してしまう。そんなことは分かりきっていることだ。
「だからさぁ、室ちん、諦めてオレのものになって」
終わらせておきたかったのに。自分の中で閉じ込めておくべきだと分かっていたのに。それでも。
伸ばしてくれたその手を掴む以外のことなんて、できそうになかった。
blind bind
だって彼の存在は余りにも淡くて今にも消えてしまいそうで少し目を離してしまえば何の足あとも残さず行ってしまいそうで。多分彼は自分の醜い部分が許せなくて汚い自分を無くしてしまいたくてそれで自分の存在が残されることを常に厭って生きているようにしか見えなかった。それどころかまるで死に場所を探しているように見えて仕方がなかったのだいつもいつもただ自分の亡骸の置き場を探す為に生きているような。そんなことされたら残された俺はどうすればいいのか。彼がどんな人間であろうがどう考えていようが俺は彼の手を離すつもりなんて無いのに勝手にいつかこの手を離される手を思っているような彼に苛立ってそして悲しくなってどうしたらいいかわからなくなって、だから。
「…アツシがこういうプレイが好きだとは思わなかったな」
「プレイじゃねーし」
と、言っても室ちんを拘束するそれはそういう用途の簡易な手錠らしいけど(説明書とかあんまり読まないからよくわかんない)。
室ちんは両手の自由を奪われてセックスが終わった後の格好のままベッドの上に転がされているのに、動揺の様子ひとつ見せやしない。もしかしたらいつもみたいに誤魔化して隠してるだけかとも思ったけど、それなら俺が分からないはずない。俺が一番見てるのだから。
「ねー室ちん」
「なに?」
「もしずーっとこのままこれ外してあげないとか言ったらどーする?」
室ちんは一瞬きょとんとした顔をする。
それから小さく息を吐いて、
「それは困るな」
薄く笑いながら答えた。全然困ってるように見えないし。
本気にしてない室ちんにちょっとだけ腹がたって、手錠の鎖を引っ張ってみる。ちゃらんと安物っぽい音がして、手首の枷ごと室ちんの腕が引かれる。室ちんは驚くほど抵抗しなくて、軽々と両手が持ち上がった。
手錠が皮膚に食い込む感覚がちょっと嫌だったのか、室ちんが少しうんざりとした感じで口を開く。
「これじゃトイレにも行けないだろ」
「連れてってあげるよ?」
「ご飯も食べられない」
「食べさせてあげるし」
言って手錠をベッドの頭の方に押し付ける。室ちんの腕ごと。
お世話が大変ですよ、なんてそんなペットの世話みたいなことでお茶を濁そうとするのが気に食わない。外してあげないって、そういうことじゃないのに。
身動きのできない室ちんにそのままのしかかって、室ちんの手首を押さえる手とは逆の方で顎を捉える。ほらなんにも身動きできない。
体は簡単に捕らえられる。でも俺が捕まえたいのはもっと別のもの。
「これから一生、室ちんのことここに閉じ込めてあげる」
一生なんてきっと無理なこと大げさなことだけれどそれくらい言わなければきっと室ちんには分からないのだ。
どんなに彼が自分を憎もうが嫌おうが俺の前から消えることなんて許してやらない。
その覚悟くらい決めているのに。こんな面倒な人を好きになったときから既に。
室ちんはやっぱりきょとんとした顔をして、それからくしゃりとその顔を歪めて泣きそうになって、それから。
「それは…、ほんと、困ったな…」
それから、さっきとは違う、本当に嬉しそうな顔をしてそんなことを言うから(ああ、やっぱり困ってなんかいない)。
夢のあと
数年後アメリカ同棲設定
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すうすうと、体に似合わぬ小さな寝息が聞こえた。
「アツシ」
ニュースの音を少しだけ小さくして、アツシの頭を撫でる。まだ生乾きの髪から同じシャンプーの匂いが香った。
日本のでは無理でもアメリカのなら、と思ったけれどやはりこちらのでも無理だったらしい。広いソファにゆったりと座って、空いたスペースで洗濯物をたたみながら苦笑する。
アツシが寝ているのは床の上。俺の腰にしっかりと腕を回して膝に頭だけ預けて、ラグの上に体を転がしている。
以前からアツシはこうやって座る俺の腰にぎゅうと抱きついてくつろぐのが好きなようで。
こうやって俺がソファでテレビを見てたりだとかベッドに腰掛けてたりとかしていると、まるで猫が膝に乗るみたいに頭を乗せてごろごろと甘えてくるのだ。割と、無理した姿勢で。
本当はアツシも一緒にソファの上でくつろげればいいのだけれど、この巨体だ。日本の小さなソファでは入りきるわけもない。
それで、こちらで暮らし始める際にベッドやらソファやら、とりあえず大きなものを揃えてみたはいいけれど。
撫でる手をちょっと止めて、見慣れた巨体を見下ろしてみる。
普段一緒に座る分には問題ないけれど、やっぱり二人でこうやってくつろぐにはスペースが足りなかったようだ。
一度はソファに座ったままこちらに倒れこんできたこともあったけれど、やっぱり窮屈だったのか床に座り込んで頭を預けてくる。
この光景だってそれはもう可愛らしくて出来ればずっとこのままにしておいてもいいくらいなのだけれど、やっぱり体には悪いだろう。現役のスポーツ選手が寝方が悪くて筋を傷めたなんてなったら笑い事じゃない。
名残惜しいけれど、ぽんぽんと頭を叩いてやる。
「こんなところで寝たら体傷めるぞ」
「んー…、うー、ねむい…」
腰にぎゅうと抱きついていやいやをするけれど(正直可愛らしくてたまらない)、甘やかすわけにもいかないからぐいと無理やり顔をあげさせる。眩しそうな顔。
「先にベッド行ってていいよ、オレもこれ終わったら行くから」
「えー…やだし…」
「すぐ行くってば」
「やーだー」
眠いせいかいつもよりも子どもみたいに駄々をこねる。ほだされそうになるのをこらえてアツシの腕を掴んでそのまま立ち上がると、アツシもしぶしぶ顔を上げた。目をこすりながら不満そうに立ち上がる。
いい子だと褒めて撫でようと思ったら、アツシはひょいと俺の体を抱えてしまってベッドルームへのそのそ歩き出した。ああまだ洗濯物残ってるしニュースも途中なのに。
けれどそれを咎める気にはなれなかった、だって。
「室ちんいないと安眠できねーし」
眠いときのアツシは本当に、やたら可愛くて素直だから。
そんなことを呟かれながらベッドに連行されたら、抵抗する気なんて出てくるわけがないだろう。
口元が緩んでしまうのをこらえながら、しょうがないなあ、と困ったように言ってみる。アツシは眠そうに、んーとだけ応えて、俺を抱いたまま二人用の大きなベッドに倒れこんだ。そのまま俺の胸に顔を埋める。そしてすぐまた小さな寝息。今日は相当眠かったらしい。
「ほんと、もう…」
小さく揺れるまつげを眺めながら呟いて、髪を撫でる。
夢から覚めたらアツシは自分の言ったこととか覚えているのかな。こんなこと言ってたよって言ったら恥ずかしがるだろうか。
思い描く全てが愛しくて、胸から溢れてしまうようだ。寝ているアツシに漏れ伝わってしまうくらい。
愛しい寝顔を抱きしめて、俺も目を閉じる。テレビも洗濯物も、全部後回し。
「おやすみ、アツシ」
アニマル・インスティンクト
いくら奥を求めたって、その先にはなんにもないのになあと。
「ぁ、あっ、あつし、っ…」
夢中になってくると、酔ってしまいそうなほど激しく揺さぶられるのはもう慣れた。うるさいくらい鳴る肉のぶつかる音にも。
鼓膜も三半規管もおかしくなってしまいそうで、でもこの感覚が酷く好きで。応えるように腕を回して肩に噛み付く。
「室ちん、ふ、はぁ、」
切羽詰まった声がじんと脳を痺れさせるように響く。
視線を交えれば泣きそうな顔。襲いくる快感の波にまだ慣れることができていないのか、薄く涙を浮かべたその瞳は幼くも見える。こんなに図体は大きいのに。
その大きな幼子をあやすように思わず柔らかな髪に手が伸びる。
「あつし、かわい…、イきそう?」
「は、はぁっ、んー…」
上手く答えられないのか、アツシは唸りながら痛いくらい俺の体を抱きしめる。いや、抱きしめるというよりも抱きつくと言ったほうが近いかもしれない。小さい子が甘えるような、その。
けれど力は比べ物にならないほど強くて、ただでさえおぼつかない呼吸が更に乱れていく。酸素が薄れて、気が遠くなりそうだ。でもその感覚が気持ちよくてたまらない。
快楽の海に静かに沈んでいくような感覚が。
けれど、"いつもの衝撃"はじわりと下腹部を襲って、その緩やかな海から意識を無理に引き戻した。
「う…っく…、ぅあ、ひっ」
ずんと響くような鈍い痛み。歯がカチカチと鳴って、思わず唇を噛んだ。
これだけは、未だに慣れない。
もうこれ以上ないというほど押し拡げられたそこを更にこじ開けて、弾ける寸前の膨らみきった性器が奥へ奥へと押し込まれていく感覚。
いつもそうだ。達しそうになると俺の更に奥の方へと入ってきたがる。根本まで収め切らないと気が済まないのか、俺の太ももやら腰やらを抱えて角度を変えながらゆっくりと全て押し込んでいく。
もうこうなってくると嗚咽しか出ない。瞳を閉じれば瞼の裏に星が飛ぶ。
「はー…、はぁ、むろちん…」
「うぁ、ひ、っぁ、あ…」
全て入りきったんだろうか(俺の中は既にいっぱいっぱいすぎてもはや分からない)、アツシは満足そうに俺の名前を囁いて、またきつく抱きついてくる。
俺は名前を呼び返す余裕なんてなかったから、それに応えて腕を回した。
腹の奥で熱い塊が蠢く。アツシが一瞬息を詰めて、俺も強く瞳を閉じる。
瞬間、奥の方へと流れこんでくる熱い奔流を感じて、その感覚に俺も流されるように絶頂に達して、そのまま再び意識をぼんやりと飛ばした。
本能なんだろうと思う。たぶん、動物としての。
体だけはやたら大きいくせにどこかまだ幼くて、だからまだ動物としての本能が顕著に現れているんだろうか。
とろりと溢れていくぬるく温かいままの体液を感じながら、ぬるく冷めてきた脳でなんとなく自棄になりながらいつもぼんやりと思うのだ。
どうせ、どれだけ奥に出したところで何にも成れるわけないのに。
しかしそれが無駄だとわかっていたところでどうしようもできるわけがないから(アツシに言ったところで変えようもない、ましてや言うつもりもない)、だから俺はまたどうしようもなく冷えたような気持ちになってしまうのだ。一人で。