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待てはおあずけ

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 学校からの帰り、承太郎くんに連れられてやって来たのは彼の家だ。何度かお邪魔した事はあったけれど、未だに背筋が伸びてしまう。承太郎くんに続いて玄関を潜ると、此方に気が付いたらしいホリィさんがぱたぱたと駆け寄って来てくれた。

「おかえり承太郎!それに、来てくれたのねメイちゃん!」
「ホリィさんこんにちは!お邪魔します」

 ぱあっと表情を輝かせて喜んでくれるホリィさんに、私もつられて笑みが漏れる。そんなホリィさんに照れくさくなったのか、承太郎くんがしっしっと手で追い払うようにするものだから、思わず小さく苦笑してしまった。しかし、ホリィさんは承太郎くんの反応にはすっかり慣れているのか、「もう、承太郎ったら照れちゃって…」なんて言って朗らかに笑っている。

「…先に行くぜ」
「えっ」

 いい加減に痺れを切らしたらしい承太郎くんが、のしのしとそのまま廊下を進んで行ってしまうので、私はぱちぱちと目を瞬いた。ホリィさんは「買い物に行ってくるから、ごゆっくりね」と語尾にハートが付きそうなくらい楽しげに言い、エプロンを外して私の背中をぽんと優しく押す。私は眉を下げながらへらりと笑い、頷いてから承太郎くんの背中を追ったのだった。
 玄関の方でドアが閉まる音を聞きながら廊下を曲がると、大きな壁にぶつかった。んぶ、と小さな悲鳴を漏らして見上げれば、そこには壁ではなく承太郎くんの背中がある。「遅いぜ」なんて不満を漏らす承太郎くんだったけれど、わざわざ廊下で待っていてくれたのだと思うと何だか可愛く思えてしまって、噴き出しそうになった。

「飲み物持って来るから入って待ってろ」
「あ、う、うん…ありがとう…」

 私を部屋に押し込んだ承太郎くんは、そのまま出て行ってしまう。部屋に一人、すっかり手持ち無沙汰になった私は、部屋の端で座ってそわそわとしていた。…初めて部屋に入った訳じゃあないのに、やっぱりまだ緊張するなあ。
 部屋の中をぐるりと見回しながら、すん、と何気なく鼻を鳴らすと、自分の家とも、廊下を進んでいた時とも違う香りがした。何の香りだろう、なんて思いながら小動物のように鼻をすんすんと鳴らしていたところで、ハッと気がつく。

「………これ、…承太郎くんのにおい、なのかも…」

 承太郎くんの近くに行くと、ふわりと鼻孔を擽る香り。その香りが、この部屋いっぱいに広がっているのだ。承太郎くんの部屋なのだから当たり前なのだけれど、ふとそれに気が付いてしまった今、何だか妙に意識してしまう。それと同時、すんすん鼻を鳴らしていた自分が何だか変態臭く思えてしまって、思わず顔を覆った。
 意識しないように他の事を考えて気を紛らわせればいいものを、頭の中に思い出されるのは余計な事ばかり。まるで承太郎くんに抱き締められている時みたいだ、なんてうっかり思ってしまってからは、もう駄目だった。ばしん、と自分の膝を叩いて立ち上がると、私はそのまま部屋を出る。

 確かこっちだった筈、と幾分頼りない記憶を手繰り寄せながら廊下を進んで行くと、キッチンへと辿り着いた。私の気配に気が付いたのか、中に居た承太郎くんが此方を振り返る。

「…いい子で待っていられなかったのか?」
「う……」

 く、とからかうように目を細められて、思わず顔が熱くなる。「……い、いい子だから手伝いにきたの」と苦し紛れに返せば、承太郎くんは「そうか」と口元を少し緩めた。追求して来ない辺り、何か気が付いているんじゃあないかと思ってしまって、鼓動が速くなる。
 承太郎くんが冷蔵庫から出したお茶を受け取って、赤い顔を誤魔化すように、ふいと背中を向けた。落ち着け落ち着け、と自分に言い聞かせながらお茶をグラスに注いで、お盆の上に置く。この調子じゃあ部屋になんて戻れない。はあ、と息をついた時だった。

 自分の上に影が掛かったような気がしてふと顔を上げたのと同時、背後から伸びて来た手が、私の身体を挟むようにしてテーブルに着けられた。慌てて振り向くと、私に覆い被さるような形で、直ぐ近くに承太郎くんが迫っている。背後にはテーブル、両横には承太郎くんの腕、そして前には承太郎くん。すっかり囲われてしまい、逃げられないと分かった私は、反射的に視線を落とした。
 こんな状況を作り出した張本人である承太郎くんは、何故か黙ったままだ。辺りは無音。私の心臓の音が聞こえてしまうんじゃあないかと心配になる。胸の前で緩く握りこんだ手に、ぐっと力を込めると、承太郎くんがすっと静かに息を吸ったのが聞こえた。

「…メイ」
「……な、に…?」
「…わかるな?」

 直ぐ近くで空気を震わせる承太郎くんの声に、ぴく、と肩が揺れる。少しだけ視線を上げると、意識しているつもりは無いのに、承太郎くんの口元に目が行ってしまって、慌てて再び視線を下げた。
 わかるな、なんて、ずるい。ここで「わからないよ」ととぼけてしまえば、承太郎くんはきっと、今までそうして来てくれたように、また『待って』くれるのだろう。とぼけるのは、簡単だ。――だけど。

「……じょ、承太郎くん、…わたし…」

 緊張で、死んでしまいそう。胸の奥で心臓がどくどくと激しく脈打っていて、細く吐き出している息が震えているのが分かる。胸の前で握り締めていた手をそっと解き、おずおずと承太郎くんの方へ伸ばした。承太郎くんのシャツを指先できゅっと掴めば、承太郎くんがぴくりと反応したのが分かる。
 爆発してしまいそうなくらいのこのドキドキはきっと、緊張だとか、恥ずかしさだけじゃあない。『期待』も込められているのだと、思う。

「………わ、わかる、よ」

 ぽつり、呟くように言葉を紡げば、一拍置いて承太郎くんの手が私の顔に伸びて来た。指先がするりと頬の輪郭をなぞるように滑る。顔に掛かっていた髪が承太郎くんの指で耳に掛けられ、顎に落ちて来た指に、くいと上を向かされた。
 柔らかに細められたエメラルドグリーンと一瞬だけ目が合って、何だか堪らなくなった私は、目をぎゅうっと閉じた。それからすぐに、唇に柔らかいものが触れる。リップもろくに塗っていなかった所為で少しかさついていたけれど、じんわりと温かさが伝わって来るのが分かった。

 指先で頬を撫でられてびくりと震えたのと同時、唇が離れて行く。はふ、と息を吐き出したところで、漸く自分が息を止めていたのだと理解した。どんな顔をしたら良いのか分からなくて、ゆるゆると俯く。…承太郎くんと、…き、き、キス、しちゃった…。改めて理解して、ボッと顔が熱くなる。

「……承太郎くん…」
「…何だ」
「………は、恥ずかしくて、…死んじゃいそう……」

 承太郎くんの胸にぽすんと頭を預け、ぼそぼそと呟いた。それでも承太郎くんには声が届いたようで、小さな笑い声が降って来る。笑い事じゃあない、と言おうとしたのだけれど、承太郎くんが宥めるように抱き締めて背中をぽんぽんと叩いてくれたので、文句は喉の奥に引っ込んでしまった。
 恥ずかしくて死にそうだけど、…幸せ、だなあ。承太郎くんの胸に顔をすり寄せて、見えない事を良い事に、私はへらりとだらしなく口元を緩めたのだった。