離れでの夜は静かだった。辺りに二人以外の気配はなく、風で揺れる木々の音と虫の音色、露天風呂の水音。
行為が終わりぐったりとしたなまえを半兵衛が露天風呂まで運んで体を流してから一緒に湯船に浸かっていた。半兵衛はなまえを抱き込むようにしており、時折こめかみに口付ければくすりとなまえが笑った。直に触れ合っている肌と肌の感触は照れるけれど、言い難い幸福感を生み出してくれて穏やかな気持ちにさせてくれた。
旅行から戻ると二人はすぐに籍を入れることにした。それはなまえの強い希望であり最初は渋っていた半兵衛もそれは彼女を縛ってはいけないという建前でしかなく、すぐに折れた。なまえの一生半兵衛だけを想い続けるという言葉に偽りがなく、ひと時であっても夫婦でいられる喜び。一生自分のものでいてほしいという願望を知らないはずのなまえは自分から半兵衛という鎖に絡まっていく。絡めとられているのはなまえだけじゃなくて半兵衛もだ。お互いに絡まり合って離れないようになっていく。それは次第に雁字搦めになってなまえを苦しめるかもしれないとわかっていても開放してあげることは出来そうになかった。
籍を入れるだけで式など行わないがせめて指輪だけでも、と買いに行った揃いの結婚指輪がキラリと光る。向こうに持っていけるかはわからないが半兵衛は指輪はもちろん、内緒で作ったなまえの写真が入ったロケットペンダントを寝るときも外さずに身に付けるようになった。そのペンダントのチェーンにはなまえ宅の鍵もぶら下がっている。もしまた来ることがあれば自宅に自分がいなくても入れるように持っていてほしいとの彼女の願いだ。半兵衛は少しでもなまえを感じられるように、その三つだけは絶対に持ち帰りたかった。
夜は二人で眠るようになったことを除くと概ね普段どおりの生活を重ねていった。そして。
「……半兵衛さん?」
昨日の夜までは手を伸ばせばそこにいた。朝日が入り込む部屋で手を伸ばせば空をきり、そこには何もない。寝起きの頭がはっきりと覚醒し、部屋を飛び出す。
「半兵衛さん? 半兵衛さん!!!」
家中を半兵衛の名を呼びながら探し回る。トイレかもしれない、お風呂かもしれない、あたりを散歩しているのかもしれない。最悪の事態を想定する自分を追い出すように希望にすがる。けれども返事はない。
最後に着いた玄関でなまえは膝をつく。両手で顔を覆い、とめどなく溢れる涙はぽたりぽたりと床を濡らす。
玄関にはキチンと揃えられた半兵衛の靴がきちんと置いてあり、なまえは認めるしかなかった。彼は帰ってしまったのだ。
「あああああーーー……」
覚悟していたはずの別れに、なまえの心は引き裂かれるかのようだった。もうなまえの涙を拭いてくれる半兵衛はいない。もう会えないのだと。全部わかっていたはずなのになまえはただ泣くことしかできなかった。
朝日の気配を感じとり浮上した意識。隣で眠る彼女を抱きしめようと寝返りをうつも腕は何も捕まえることはなかった。その事実に半兵衛が飛び起きればそこは久々に見る畳の和室。戦国の世での己の自室である。畳の香りが鼻腔をくすぐり、ああ帰ってきてしまったのだと思った。
ふと机の上を見れば最後にみた光景と同じものが広がっている。埃も被っておらず、劣化も見えないことからおそらく自分がなまえの元へいた間、こちらの時間は進んでいないのだろう。居なくなっていたのならば手がかりとするためにこの机の山は崩されているだろうし、たとえそのままされていたとしても一年以上も経てば劣化もあるだろう。
「……ーーっ」
薬指の感触、胸のペンダント。それらはしっかりと存在しておりなまえといたことは決して幻想ではなかったのだと教えてくれた。
別れが近いことはわかっていた。覚悟していた。でも胸がこんなにも痛い。
歯を食いしばり泣くなと叱咤すればするほど涙は止まらない。
愛する人との別れはこんなにも辛いのかと、まるで心をバラバラにされたかのようでもありぎゅうぎゅうと締め付けられるようでもあった。
同じ痛みをなまえも感じているのかな、一人で泣いているのかな。
もう半兵衛の指は彼女の涙をすくい上げることはできない。それでも愛し愛されたことに後悔はしていなかった。