一泊分の二人の荷物を乗せて、なまえと半兵衛は車を走らせていた。快晴の空は絶好のお出かけ日和で窓から入る風が心地よい。
なまえは助手席から外の景色を眺めていた。今日の運転手は半兵衛だ。免許を取ってから仕事の往復を除いて半兵衛が運転をしていることが多い。初心者マークではあるもののその手つきは慣れており、緩やかな運転はなまえにとってゆりかごのようで気を抜けば眠ってしまいそうだった。
途中サービスエリアによってちょっとした買い食いと休憩したあと、またしばらくドライブを続ければ目的地である温泉地へと辿り着いた。
「わぁ……!」
旅館へとチェックインをして案内された先は離れの一等客室で、贅沢な空間に辺りを見回せば奥に露天風呂が見える。それをみた瞬間、なまえの瞳がキラリと輝いたのを半兵衛は見逃さなかった。期待通りのリアクションすぎて少し噴き出してしまったのは内緒である。
「すっごいお部屋だね、半兵衛さん!」
「喜んでもらえた?」
「こんな素敵なお部屋初めて! ありがとう、半兵衛さん」
今日はなまえへの日頃のお礼を兼ねて全て半兵衛の主導で動いていた。なまえは大まかな希望を言っただけでむしろこの温泉地にくることすら到着してからわかったくらい、何も教えてもらっていなかった。
無邪気に喜ぶなまえは露天風呂を見に行っている。きゃいきゃいと喜ぶ様は年齢よりも幼く見えてとても愛らしい。半兵衛はそれを眺めながら顔を綻ばせた。
「その露天風呂も源泉掛け流しだよー」
「そうなの? え、すごーい! わ、柔らかいお湯だぁ。お肌によさそう!」
「美肌の湯って言われてるらしいよ」
今にも温泉に入りたそうにしているなまえをとめて、まずは温泉街を散策することにした。まだ時間は早いので戻ってから温泉へと入っても夕飯まで時間は確保できる。
近頃再開発されているのか温泉街は色々なお店が開いていた。ちなみに平日に来ているので休日に比べたら閑散としているのだろうけれど、それなりに人はいる。混雑はしていないので気になるお店をゆっくり見て回り、お部屋で飲めるようにとその土地の地酒を買ったりちょっとしたお土産も見繕う。かといって渡す相手は楠木と前メールで情報を探してくれた友人くらいだけれど。それでも相手を思ってする買い物は楽しかった。
高台にある足湯に二人並んで足を沈めればたくさん歩いた分の疲労を吸い取っていってくれているようで、二人揃ってふぅと息を吐き出した。あまりのタイミングのよさに二人は顔を見合わせて笑った。
「思ったより歩いたね〜」
「想像より沢山お店があったからつい、ね」
「この時間だと買い食いできないのが残念」
「食べられなくなちゃうからね、お夕飯」
「明日帰る前にいこうよ、ね?」
「うん、私も食べたい」
ちゃぷんちゃぷんとお湯を揺らしながら他愛のないはなしをしていれば、風が心地よく髪を揺らしていく。
高台に設置されているだけあり見下ろした温泉街は絶景で、夜に来たならば綺麗な夜景を拝めることだろう。生憎今は陽が傾き始めたころなので、見ることは叶わないだろう。残念ではあるが、夜には夜のお楽しみが沢山ある。
そろそろ帰らねば温泉を堪能する時間が減ってしまうので、旅館へと向かうことにした。
買った物を半兵衛がまとめて持つと空いている手でなまえ手をとり指を絡めてつなげていく。ぎゅうと繋がれたそれはいわゆる恋人繋ぎというやつで。半兵衛は顔を真っ赤にしたなまえと目が合うと優しく笑う。なまえはうるさいくらいの心臓の音と照れで火照った頬を持て余しながらも、どうしようもなく幸せだった。手のひらから伝わる熱がどうしようもなく愛しくて、この人が好きです、ととうとうなまえは認めていた。昔抱いていた恋よりも大きくて強い。それはもう恋では収まらない感情だった。
旅館に戻ればなまえは大浴場の温泉を堪能しに行き、半兵衛はゆったりと部屋の露天風呂につかった。半兵衛が一緒に入る?と誘ったが、顔を真っ赤にしたなまえにバスタオルを投げつけられて逃げられてしまった。半分以上は本気だったのだ、非常に残念である。
色浴衣を身につけ、髪をバンスクリップでアップにしたなまえはいつもと雰囲気が違って艶めいていた。出会った頃に比べてなまえは魅力的になったと半兵衛は思う。硬かった表情は柔らかになり、表に出すようになった感情はまっすぐで可愛らしい。すっかり半兵衛を信頼しているのか些細なことでも頼ってくれるようになり、甘え下手な彼女の進歩が嬉しかった。
豪華な夕飯に舌鼓を打ち、堪能すれば買ってきた地酒を開けてバルコニーで月見酒。風が吹けば少し涼しくてお酒で火照った体には心地よかった。
「美味しかったぁ……」
「さいっこうだったね」
「うん」
お猪口を傾けながらポツリポツリと食事の感想を言い合う。
ふと会話の流れが止まった。なまえはお猪口にあるお酒を揺らしている。
そろそろ話さないといけない。リミットが近くなってきているのは明らかで、投薬が終わってしまった今自分がいつ戻ってしまうのかわからない。黙っていなくなるのだけは嫌だった。
聞いたら君は悲しんでくれるかな。
悲しませたくはないけれど、相反した思い。自分が愛しく思っている分、なまえも自分を愛しく思っていて欲しかった。
「なまえ」
「……半兵衛さん?」
思ったより硬くなってしまった声に、なまえは訝しげにアルコールで少しとろんとした瞳を半兵衛へと向ける。
なまえは思った。これはいい話じゃないと。
「なまえ、ありがとう。俺なまえに会えて本当によかった」
「な、に? 半兵衛さん、やだなぁ……」
「右も左もわからない俺を置いてくれて、希望も可能な限り叶えてくれた。なまえじゃなかったらこんなに早くここに順応出来なかったと思う」
「そんなの、いいよ。やめて、なんか怖い……」
ふるふると首を横に振ったなまえは今にも泣き出しそうな顔をしていて、半兵衛は困ったように笑うとそのまま腕に閉じ込める。なまえは抵抗することなく腕の中に収まり、イヤイヤと首を振り続けた。
「お願い、ちゃんと俺の話し聞いて? ね?」
「やだっ、イヤ……! いいお話じゃないでしょう?」
「なまえ……」
「いやだよぉ、聞きたくない……」
とうとうぐずり始めてしまったなまえの頭を半兵衛は撫でる。半兵衛の態度からなまえも別れの気配を感じ取ったのだろう。アルコールが入っているのもあり、感情が表に出やすくなっているのか子供のように聞きたくないと駄々をこねる様は置いていかれそうな子供だった。離れたくないとすがってくれるくらいなまえにとって自分の存在が大きいんだと、半兵衛は嬉しかった。
「なまえ、俺、もうすぐ帰らないといけないみたい」
「やだ、やだよぉ、いかないで」
「俺も行きたくない、連れて行きたいよ……」
「っ私も、連れて行って」
それは多分、出来ない。
「……ごめんね、ごめん」
ひっくひっくとしゃくりあげるように泣くなまえの両頬を、半兵衛は両手で包み込む。そのまま唇を近づけて重ねた。初めて触れたそこはなまえの涙の味がしてしょっぱかった。また続けて何度も啄ばむような口付けを繰り返して、だんだんと深くなっていく。その間なまえは一度も抵抗することなく、すがりつくように半兵衛の首に腕を回していた。
自分を求めてくれる小さな唇が離れがたくて何度も何度も繰り返していればすっかりなまえの息が上がっており、名残惜しくも一度それを離した。
「好きだよ、なまえ。ううん、愛してる」
飾り気のないその言葉は半兵衛の気持ちのすべてだった。それ以外の言葉が見つからないくらいなまえが愛しくて、誰にも渡したくない。いなくなってしまうのにズルイと自分でも思うけれど、伝えることはやめられなかった。
「半兵衛、さ……」
「ごめんね、いなくなるのに伝えて」
「私も、好きなの、あいしてるの……。いなくならないで……」
「ごめんね」
「……半兵衛さんも、悲しい? 辛い?」
「うん、離したくない……」
「どうしようも、ない?」
「うん」
張り裂けそうな胸の痛みで泣きじゃくってしまったなまえはやっと少し冷静さを取り戻し、半兵衛の顔を見る。困ったような、悲しいような、寂しいような、複雑な笑みを浮かべた半兵衛がいた。自分を愛していると言ってくれた半兵衛も辛いはずだ。その表情と問いの答えになまえはやっと冷静さを取り戻した。
辛いのは私だけではない、置いていくしかできない半兵衛さんもおんなじなんだ。
そう理解したなまえはもう半兵衛に行かないでということはできなかった。半兵衛が帰りたくないと思ってもきっとどうしようもないんだろう。どんなに願っても半兵衛はここで同じ時を生きることができない。
なら自分は何をすべきか。みっともなくすがって心配させたまま帰してしまっていいのかと、安心させて心残りなく帰ってもらう方がいいんじゃないかと。
なまえは必死に涙を拭う。それでも心は痛くて、寂しくて、まるで半身を奪われるかのような喪失感に抵抗しても止まりそうになかった。
「なまえ、なまえが欲しいな。全部俺にちょうだい」
「半兵衛さん……」
「ダメ?」
「だめじゃ、ない」
半兵衛の唇が再び近づいて、重なる。
時間が止まればいいのにと強く願いながら、針は進んでいく。