無言のままに帰宅するとそのまま黙々と食材を冷蔵庫へと納めたなまえは自分には紅茶、半兵衛には緑茶を淹れて向き合った。どこから話そうか、となまえが思案している間、半兵衛は急かすことなく彼女が話し出すのをジッと待っていた。
「さっきの人は、昔付き合っていた人なの」
とりあえずは彼と自分との関係から話すことにしたのか時折言葉を詰まらせながらもゆっくりと話し始める。
「大学の時に三ヶ月くらいかな、付き合っていた人で、別れてから大学内で見かけることはあったけれど、それ以来話すのははじめて」
短い間だったけれど、なまえは確かに彼が好きだった。あの時までは。
「ちょうどね、彼と付き合っている時に両親が事故で亡くなったの」
じりじりと蝕むあの時の痛み。その蝕む痛みは両親のことだけではなくて、脳裏に刻まれてしまったトラウマとも言える光景が嫌が応にも蘇ってくる。
「……だから、しばらく大学には行けないし会う時間が取れないって話しをしてあったんだけれど、ある日どうしても大学に行かなくちゃ行けない日があって」
そこでなまえは言葉を途切れさせる。込み上げてくるその時のショックや不快感、悲しみが喉に詰まっていて言葉になりそうにない。
半兵衛は独白でもしているかのようななまえの言葉を辛抱強く待った。その先はなんとなく想像できてしまっているが、酷かもしれないけれど彼女の口からちゃんと聞きたかったのだ。
「そうしたらね、彼が知らない女の子と一緒にいて、聞いちゃった。『三ヶ月も付き合っているのにヤラセもしない女をなんで俺が慰めないといけないのか』って」
言葉にした途端、ぼたりぼたりと大粒の涙が転がり落ちる。半兵衛はなまえの隣へ移動すると軽く抱き寄せて背中を撫でた。嗚咽を漏らしながら震える背中は小さくて、思わず抱きしめてしまいそうになった。
その当時、メールでたくさん励ましてくれて、支えてくれていると思っていたからこそ本心を聞いた時のショックは計り知れなかった。両親をいっぺんに亡くしたショックですでに食事はまともにとれず、空っぽだったはずの胃からナニカが逆流する感覚がしてすぐ様トイレに吐き出していた。なにも出てこないにも関わらず吐き気が止まらなくて、泣きながら吐き続けた。
彼はキス以上の行為を許さなかったなまえが気に入らなかったらしい。許さなかったというか耐性がなく、耐えられなかった。ちゃんと好きだった。初めてを迎える人は彼がいいと思っていたけれど、簡単に許さないなまえを彼はお高く止まっていると思っていて気に入らなかったらしい。付き合っている時は気づいていなかったけれど一緒にいた女の子は体の関係が親密なお友達だったようで、別れてからそれを聞いた。
そうだったのかと、半兵衛は思っていた。初めて会った時に感じた全てを諦めた様な態度はここからきていたのかと納得した。
両親が亡くなってすでに精神的に負担がかかっていたのにも関わらず、信頼していた恋人からの裏切りに生きる意味を失ってしまったのだろう。命に関わる事故に襲われた際、避ければ逃げられるようなことでも避けずに受け入れてしまいそうな危うさの理由。
人はひとりでは生きていけないとはよく言ったもので、なまえはまさにそれなんだろう。
気にかけてくれる楠木という父親の親友が身近にはいるが、彼には一番に大切にせねばなるまい家族がいる。寄りかかりきれるほど気を許せる相手もいない。あんな経験をすれば恋愛だって難しい。不安定な心を抱えたまま平気なフリだけ上手くなってここまできてしまったのだろう。
なまえの生きる理由になれたらいいのに。
ふと過ぎった自分の気持ちに半兵衛はハッとした。ここまで入れ込んでしまっていたなんて自覚が全くなかったからだ。
はじめは気に入らなかった彼女の諦念も理由を紐解いてしまえばそうは思わなかった。この弱い部分も含めて彼女が愛しくなっている自分がいる。半兵衛は自覚せざるを得なかった。
そう自覚してしまえばあの男を少しのしておけばよかったかもしれないと半兵衛は思った。あれくらい自分でも一捻りだ。
「……どうして、今になってなまえに?」
剣呑な雰囲気をださないよう、半兵衛は細心の注意を払って問いかける。あの男となまえの関係は理解したものの、何故今になって接触してきたのか。
「わからない、ヨリを戻したいって一方的に……」
「共通の友達とかは? なにかしらないかな?」
「……あ! うん、聞いてみる」
すっかり涙は落ち着いた様子のなまえはスマートフォンにポチポチと文字を打ち込んでいる。涙は止まった様子だが、瞼は少し腫れていて重たそうだ。なまえが友人へと連絡を取っている間、半兵衛は冷凍庫から保冷剤を取り出してタオルへとくるみ、差し出す。メールを送り終えた様子のなまえは今更泣いてしまったのが恥ずかしかったのか、照れたように笑いながらそれを受け取って目に当てていた。
しばらくなまえは目を冷やし、半兵衛が買ってきた本に目を通しているとピロリとメールの着信を知らせる音がなった。なまえは先程連絡した友人からの返信であると確認して、半兵衛へと目を向ける。小さく頷けば目を合わせた半兵衛も理解したようで、二人でスマートフォンの画面に視線を落とした。
『久しぶり、私は元気にしてるよ。なまえちゃん大丈夫? アイツに会ったって……。 私もわからなかったからそういうのに詳しそうな子に連絡したの。そうしたらね、お金に困ってるみたい。もしかしたらたまたま見かけたなまえちゃんのこと思い出したのかも。なんとかヨリを戻してなまえちゃんからお金の無心をするつもりなんじゃないか、だって。また接触してくるかもしれないからくれぐれも気を付けて。一応なまえちゃんについてアイツに何も漏らさないでって回しておくけど、また何かわかったら連絡するよ』
なまえは絶句した。また彼が接触してくるかもしれない。
今の今まで忘れていただろうなまえを見つけて思い出し、両親を事故で亡くしてる彼女に生命保険や遺産があるのではないかと瞬時に勘繰ったようだ。なまえは半兵衛と楠木以外に懐事情を漏らしたことはない。
「大丈夫、俺がいるよ」
温度をなくした手を包み込まれる。暖かい。
「家でも仕事先にも俺がいるんだから、なまえに指一つ触れさせないよ。信じられない?」
半兵衛の堂々とした言葉と表情がなまえの冷え切っていた心を暖かく満たした。
「半兵衛さん……」
「あんなやつなまえに触れさせるもんか」
初めてみる半兵衛の険しい表情に、なまえは自分のために怒ってくれているんだと思った。自分を守ると言い切った姿が眩しくて嬉しくて、今までぽっかりと空いてしまっていた心の隙間まで埋めてくれているようだった。
すっかり彼への恐怖感をぬぐいさってくれた半兵衛の手のひらをぎゅうと握り込む。指の側面にあるペンだこに手のひらの皮の厚さが半兵衛が軍師であり武将であると物語っているようで、頼もしさを感じる。
体温を分け合ってすっかり同じになったそれはとても心地よかった。