今日は一週間ぶりの休日である。
この一週間、半兵衛の生活に合わせて早起きをするようになっていたためになまえは早い時間に目が覚めた。早寝早起き、実に健康的だ。のそりと起き上がり、朝食を作るために行動を始める。
なまえが着替えて一階へ降りると珍しくテレビの音が聞こえなかった。朝はなまえよりも半兵衛の方が早起きであり、いつも降りる頃には字の教材を机に広げながらテレビを見ているのだが珍しいことにまだ起きてきていないようだ。その時のなまえは寝坊する日もあるよね、とあまり深く考えずに台所に立った。
おかしい。
なまえはすっかり出来上がった料理を前に思案する。半兵衛が降りてくる気配が全くないのだ。
エプロンを外し、階段を登る。半兵衛の部屋の前につくと二回ノックをした。
「半兵衛さん? 起きてる?」
さらに二度ノックをし、声をかけるも返事はない。
「半兵衛さん、開けるからね」
ここまで声をかけて反応がないのは明らかにおかしかった。半兵衛と生活を共にしてわかったことの一つで彼は人の気配に聡く、なまえが深夜にお手洗いに起きだすときもそれに気づいて目を覚ます。その半兵衛がここまで起きてこず返事をしないことは異常だと感じた。
なまえは躊躇なく扉を開ける。
「半兵衛さん?!」
なまえの目に飛び込んできたのは顔を真っ赤にして大粒の汗をかき、辛そうに呼吸を繰り返している半兵衛だった。
慌てて駆け寄りなまえが半兵衛の額に手を当てれば明らかに発熱していた。虚ろな瞳がわずかに開いてなまえを見上げる。
「……君の手、冷たいね」
「大丈夫……じゃないよね、ちょっと待ってて」
なまえは慌てて半兵衛の部屋から飛び出すと必要そうなものをかき集めてすぐに半兵衛の部屋へと戻った。
「とりあえずすごい汗かいてるから水分補給と……これ、濡らしたタオルなんだけど、体拭いて着替えられそう?」
「……うーん、動きたくない、かな」
「だよね。でも気持ち悪いでしょ、手伝うから少し頑張って」
なんとか手を貸して半兵衛を座らせるとまず水分を摂取させ、彼の着ているスウェットの上を脱がせた。脱がせたスウェットはじっとりとしており、汗を随分と吸い込んでいるようだ。
「……っ」
なまえは半兵衛の体を見て小さく息を飲んだ。半兵衛は意識が朦朧としているのかなまえの様子には気付かずに目を閉じて浅い呼吸を繰り返している。なまえは我にかえるとササっと濡れタオルで体を拭いて新しいスウェットを着せた。下は布団をかけたまま裾を引っ張って脱がし、流石に拭くことができないのでそのままであるが新しいズボンをなんとか履いてもらう。
再び布団へ半兵衛を横たえると最後の仕上げとばかりに額に冷えピタを貼り付けた。急にきた冷たい感触にピクリと肩を跳ねさせたが、すぐに表情が和らいだ。
「うわぁ、なにこれ、冷たくて気持ちいね」
「それはよかった。薬飲んでもらわないといけないし、お粥なら食べられそう?」
「えー、なにも食べたくない……」
「子供じゃないんだから駄々こねない。食べないと治るもんも治らないんだから、一口でいいから食べてね」
「……はーい」
「じゃあできるまでおやすみなさい、半兵衛さん」
ぱたりと半兵衛の部屋の扉を閉じると、なまえは息を吐いた。
ぐ、と目を瞑ると半兵衛の上半身が思い起こされる。色っぽい意味であの時息を飲んだわけじゃなかった。細身ながらもしっかりとついた筋肉、細身ながらも均一がとれていて無駄な肉は何一つ付いていなかった、それに。あまり大きいものはなかったが無数の傷跡がついており、それを見て思わず息を飲んでしまったのだ。
軍師である半兵衛は前線に出てるのだろか? いくつその目の前で命が散っていったのだろうか。命と隣り合わせの戦場にいたら人の気配に聡くなるのも当然だとなまえは思う。
その戦場よりも……、半兵衛にとってこの異質な場所は心から休めるところではなかったのだろうことは想像に難しくなかった。全く知らないところに放り出されてあそこまで取り乱さないのは凄まじい精神力だ。むしろあそこまで理性的だったからこそなまえは半兵衛をここに置くことを決められたように思う。しかし持て余したであろうフラストレーションは確実に半兵衛の心と体を蝕み、今回の体調不良へと繋がったのだろう。
お粥が出来るとなまえは小さな土鍋と新しいお水、薬に、お粥が食べられなかった時のことを考えて冷えたゼリー。お盆に乗せたそれを慎重に二階へと運んだ。
軽くノックをして開けるよと声をかけて扉を開くと、薄っすらと目を開けた半兵衛がこちらを見ていた。
お盆をローテーブルに下ろしてから残していった水を見ると減っていない。先ほどのように布団の上へ座らせるとまずは半兵衛に水を飲ませる。
「食べられそう?」
「ん〜」
本当に辛そうな様子で食べれるとも食べられないともわからない反応を返す半兵衛になまえはどうしたものかと思う。しかしどうにか食べてもらいたい。
よし、これは看病だ、と。自分に言い聞かせるようになまえは木のレンゲを持ち上げてお粥をすくい上げる。息を吹きかけ、ちょうどいい温度に冷ますと半兵衛の口の前へとそれを差し出した。
「ん、食べて」
「……ん、むぐ」
「熱くない? 食べられそう?」
「うん、食べられそう……」
普段ならからかうような軽口が飛んでくるはずなのにそんな余裕は無さそうで、素直すぎる半兵衛の反応がちょっと味気なく感じた。
レンゲですくい上げ、冷まし、口へと運ぶ。その動作を繰り返して半分ほど減ったところで半兵衛がギブアップを伝えてきた。予想より食べているので上出来だ。
市販の錠剤の薬とお水を渡せばあっさりと飲み下し、布団へ横たわらせた。
まだ薬は効いていないはずなのにすでに寝息が聞こえてくる。食べることだけでよっぽど体力を使ったらしい。冷えピタ越しに触れた額はまだ熱く、必要はないかもしれないが念のために顔と額、首回りの汗を拭いてから新しい冷えピタを貼り付けた。
食べ終えた土鍋など片付けるためになまえが立ち上がろうとすれば、腰のあたりが引っ張られて思わずつんのめる。何事かと思えばトレーナーの裾を半兵衛が握りしめていた。離すまいと相当な力で握りしめているのか、シワになっている。
「……いで」
「半兵衛さん?」
「いか、ないで」
風邪をひいたとき、人は心細くなる。それをなまえは嫌という程知っていた。それは半兵衛でも例外ではないようで、無意識ではあるのだろうけれど信頼しているとは言い難いなまえを側へと置きたがる。弱みを見せることより心細さの解消を無意識的に優先させたのかもしれない。
なまえは半兵衛がけして服を離さないのを見て、大人しく隣へ座る。土鍋も早く片してしまいたいけれど今は病人が優先だ。
「はやく、治しなさいよ」
ぽつりと呟いた言葉は相手に届く前に溶けていった。
半兵衛の意識が浮上する。首回りに手を当て、まだ熱はありそうだけれど朝よりもずいぶん下がったなとぼんやりと思った。
陽の光は傾いており、もうすぐ夕方くらいだろうか? 随分と寝ていたようで熱とは別の意味で体が怠かった。
「ん、んん……」
衣擦れの音と小さな声に視線を向けると、ローテーブルに腕を枕にしたなまえが眠っていた。すっかり寝入ってしまっているようで、健やかな寝息が聞こえてくる。
ああ看病してくれていたのかと半兵衛が思い当たれば、なにもかかっていないなまえの肩へと毛布をかけた。
「……ありがとね」
小さな声でお礼を言って小さな頭を撫でる。さらりとした髪が指に絡まりするりと落ちた。
半兵衛はそのまま立ち上がるとお手洗いへと向かっていった。
「っ、なにあれ」
不安定な姿勢で寝ていたこともあり、肩に毛布をかけられたわずかな刺激で薄っすらとまどろみから引き上げられた直後。スッと髪を梳かれたかと思えば鼓膜を振動させた柔らかな声がなまえの意識を一気に覚醒させた。
聞いたことないくらいの優しい声で告げられたお礼になまえは頬を赤らめる。撫でられた感触をつい思い返してしまいさらに熱さを増す頬を両手で覆う。どんな顔で半兵衛はその言葉を言ったのだろうか。見たかったような、見たくないような。
なまえは半兵衛が戻る前にそっと部屋から抜け出した。
半兵衛がお手洗いを済ませて部屋に戻ると先ほどまでいたはずのなまえの姿はなくて、ほんのりと寂しさを感じた。そのかわり下からなにやら物音が聞こえるので彼女も起き出してなにかしらをしているのだろう。今日は自分の看病で一日を使わせただろうから、と半兵衛は思う。
大人しく布団へと戻ろうとすれば近くに新しいスウェットと濡れたタオルが置いてある。思えば今着ているものは汗で濡れていた。気付いてしまえば気持ち悪くなってくるもので、半兵衛は有難く体を拭いて着替えさせてもらった。
ここへきてからというもののゆっくり休めたことなどなかった。大好きな昼寝もできなかった。過剰に警戒しているつもりはなかったけれど、結果に倒れるくらいに気を張っていた。でもやっと休めるようになりそう、と半兵衛は思う。
朦朧とした意識の中でみていたなまえは懸命に自分の看病をしていてくれた。必要なことを考えて動き、自分で食べられそうになかった半兵衛に手ずからご飯を食べさせてくれた。全部半兵衛のことを考えての行動。懸命な彼女を思い返すと心の内側に火が灯るように暖かくなった。
見ず知らずの、図々しい訳の分からない男を世話する警戒心が薄すぎる女。半兵衛も自分が図々しい自覚はあったが、それ以上に素直すぎる女に自分が言えたことではないがなにか悪いことで騙されないか不安を覚えた。でも今日のような日には彼女の素直さが半兵衛を孤独からすくい上げた。人の言葉の裏を考えない様にそうでも生きていける世の中であると体現しているようでもあった。
これからはもう少し力を抜いていけそうだと、半兵衛は思うと同時にやってきた睡魔に身をまかせる。扉の外から聞こえる音にも意識は引きずられることなくまどろみへと落ちていった。