※色々とフィクションです。ご了承ください。
すっかり日が落ちてやっと一息つけた。半兵衛がやってきた今日一日がやっと終わる。
その半兵衛といえば一日三食の食生活に驚き、さらにお風呂でシャンプーやリンス、捻るだけで出てくるお湯に驚きその他もろもろに驚き。そしてあっという間に自室で寝てしまった。慣れない環境で疲れたこともあるし何より電気のない生活をしていた半兵衛の夜は早いのだろう。
その寝る前の半兵衛を捕まえてどうにか戸籍の話をすませた。
なまえは今にも眠りそうな疲労感の中、自室でスマートフォンからとある名前を探した。
案の定戸籍についても一から説明が必要でこのスマホを使いつつなんとか理解してもらい、彼は記憶喪失の体で過ごすこととなった。現代社会の仕組みに随分と興味を持ったようで半兵衛は戸籍や国の制度について興味深く聞いていた。
なまえの気持ちは一日で半兵衛が本物である方へと傾いていた。なんでもかんでも興味を持ち、あらゆることに驚きを覚え、知識を乞う。戸籍を取得しようなどと大掛かりなことを言われたにもかかわらず利点を判断して必要だと即決するその姿に嘘ではないのだなと思ったのだ。まあここまでやって嘘ですと言われたならば感服するしかない。なまえはそう思うことにした。
そうすれば第一歩の下地作りとして、例の父の親友に一言相談せねばなるまい。もしあんな奇天烈な登場をしなければなまえは真っ先に警察へ通報していたことだろう。ならばその警察への相談という実績は作っておくべきだ、という打算である。普通ならばそうして警察に保護してもらうんだろうが、家で面倒みることとなったからには半兵衛に一芝居うってもらうことにしよう。
なんにせよ、グズグズしていると電話もかけにくい時間となってしまうので一思いに通話ボタンを押した。
何度か呼び出しの音が鳴ってプツリと止まる。スピーカーから低い男性の声が響いた。
『久しぶりだな、なまえ。急に電話してきてなにかあったか?』
「お久しぶりです。相談がありまして……」
『珍しいな。どうした?』
なまえの父の親友であるこの人は楠木といい、警察官をしている。ここから程なく離れた交番に勤務しており、天涯孤独となった親友の娘をなにかと気にかけてくれる人だった。その楠木は晩婚で最近娘が生まれ、育児と仕事の忙しさかめっきりと連絡が途絶えていたのだ。なまえもなまえであまり負担にはなりたくなかったので簡単なお祝いを贈り、あまり連絡はしないようにしていた。今は大変な時期である。ぜひ奥様と子供さんに全力でいてほしいとなまえは思っていたのでこちらからも連絡を控えていたところだった。
挨拶もそこそこに今日一日あったことを掻い摘んで説明する。といっても本当のことなんて話さない。記憶喪失の少年(容姿からして実年齢を持ち出すのは無理がある)を拾ったことと、かなり憔悴しており警察に連れて行けなかった、しばらく保護したいのだがどうすればいい?というほぼ捏造の様な内容。
電話口の向こうの様子はわからないがなにやら固まっている様だ。タイムスリップうんぬんは省いてるとはいえ充分に突拍子も無い。
『……大変だったな。必要そうな書類は俺が用意しておくが、なまえ、家に置くってお前に危険はないのか?』
「平気ですよ。それに寝室には鍵も付いているので心配される様なことにはならないと思います。それに面倒みるって決めたので」
『父親に似てこうと決めたら頑なだな。もし何かあればいつでも電話してこい。そんで明日手続きの書類持って行くから会わせてくれ』
「はい、ありがとうございます」
明日朝10時頃にと約束をし、電話を切った。
お世話になった人にたくさん嘘をついてしまったことになまえはストレスを感じたものの、必要なことだと水と一緒に飲み込んだ。思った以上に喉が渇いていたらしく、ペットボトルが空となってしまった。
タイムスリップしてきた竹中半兵衛です、なんて。誰が信じるやら。
信じる方に傾いている自分が言えることではないが、大多数の人は信じない。一番これが丸いやり方、のはずだとなまえは思う。
疲労感のままにベッドに倒れこんでベッドサイドへと手を伸ばし、リモコンで電気を消した。彼女は思考の海に呑まれる間もなく深い眠りへと誘われた。
早朝。いつもまだ眠っている時刻にけたたましいノックの音でなまえは飛び起きた。もちろんその正体は半兵衛で鍵で開かない扉をひたすらノックしている。
「……なに、まだ6時なんだけど……」
「俺も相当お寝坊さんだけど、なまえ寝坊助過ぎじゃない?」
「宵の深い現代人に6時は早い……」
鍵を開けて扉を開けば昨日買った青いパーカーとジーンズというシンプルな格好に身を包んだ半兵衛が悪びれた顔もせずにいた。陽の光に合わせて起きだす様な生活をしていた戦国の民にとってこの時間は遅いくらいらしい。急速に現代人の生活に合わせて貰わねばなまえの睡眠時間は削られそうだ。
「ねー、俺、お腹空いちゃった」
「……居間でまってて」
そういうことであればなまえも起きざるを得ない。キッチンに立たせるわけにもいかないし。なまえは気をぬくと下がる瞼を叱咤し、ジャージから着替えた。
居間、リビングへと向かえば昨日教えたばかりのテレビをつけてそれを半兵衛が眺めていた。朝の情報番組なんて久しぶりにみたなとなまえは一つ欠伸を落とした。
「あっ、そうだ。おはよう」
「……おはよう」
なまえが降りてきたことに気づいた半兵衛は振り返り、今思い出したと朝の挨拶を述べる。何年振りにかけられたそれになまえは喉を詰まらせたがすぐに挨拶を返した。
朝におはよう、夜におやすみなさい。なまえが1人となってから使うことがなかった言葉が気恥ずかしくて誤魔化す様にエプロンを取る。そんななまえを半兵衛は気にした様子もなく視線をテレビへと移した。
昨日と似たよな朝食(ハムエッグからだし巻き卵とウィンナーに変えただけ)を食べるとなまえは二度寝する気分にはなれず、自室で身だしなみを整えていた。
半兵衛はといえば文具を手にとって現代の文字のお勉強。天才と自称するだけありすらすらと詰め込んでいく。
半兵衛の関心はテレビはもちろんだけれどなまえが質問など説明しきれない時に調べ物に使っている小さな電子機器だ。スマートフォン。なんでも調べたいことがすぐにでてくるらしいそれ。早く文字を読める様にして使わせてもらうつもりだ。
半兵衛はぐうたらしていることも多いが根は軍師。知識欲も豊富であるし、わからないことは調べずにはいられない。体が弱い自覚もあるのであまり根を詰めてやることはないが今はそんな悠長にしている暇はない。
どうにかして早く戻らねば。その思いが支配していた。ぬるま湯のような温かな世界。便利なものであふれており、街を行く者たちはみな特別に痩せているものも少なく清潔そうに見える。捻れば水やお湯が簡単に手に入り厠も非常に綺麗である。帰ったらまともに生活できなくなる……、と思ってしまう、それくらいにこの世界は便利で綺麗だった。幸運にもそれを甘受させてくれる人の元へとやってくることができたのも拍車をかけていると思う。
自分たちの生きていた時代から繋がっているかと思えばと文明の発展とはかくにも偉大なものである。
早く戻らねばと思うのはそれだけではない。あの時代に置いてきたものが多すぎる。それらを投げ捨ててこちらで暮らすなんてことは出来ない。まだまだ自分の力が必要なはずだと半兵衛は思う。今頃俺がいなくてどうなっているんだろう、意外に時間が進んでなかったりして、などと空想を描いても答えは戻ってみないと分かりそうになかった。
そうこうしているうちに部屋にこもっていたなまえが居間へと姿を現した。
女とは化けるものだと半兵衛は思う。
昨日のやる気のなさそうなカジュアルな雰囲気とは違うカッチリとしたスーツ姿に目もとのアイラインは視線をキリリとさせて涼しげに見える。ふわりと崩されたローポニーが柔らかく、冷たい印象を与えない。別人の様相にしげしげと観察をしてしまう。
「さっきも説明したけど、楠木さんと話をしたら私仕事いくんだけど……。半兵衛さんはどうする?」
「どうするって?」
「正直家に残していくの心配。ついてきて」
「選択肢ないんじゃん。まあいいけどさ」
「もう少ししたらくると思うから不服かもしれないけど打ち合わせのとおりに」
「わかってるってば。俺にお任せってね」
そうこうしているうちに訪ねてきたなまえの父親の親友であったという警察官の楠木と面会をする。地域の安全を守っているとあって多少武術の心得があるのか、半兵衛がこちらで見た中でもガタイがよさそうに見える。
なまえのことが心配なのだろう、しきりに半兵衛の様子を気にしている。記憶喪失とはいえ大の男が一人暮らしの女性の家に上がり込んでいるのだ。当然の反応といえる。
「……しばらくは記憶が戻るかもしれないってことで様子見で」
「はい、そのつもりです」
「まあ、そうだな。その様子じゃ離れようとしないだろうからな」
ひしっと半兵衛はなまえを背後から抱き込んで離れない。たしかになまえは半兵衛に憔悴し、怯えた演技をしてくれと頼んだ。でもここまでやれとはいってない。
自分の容姿に自覚があるであろう半兵衛はそれを最大限生かした庇護欲を煽る怯えた表情でなまえがいないと死んでしまいますと言わんばかりに離れようとしなかった。記憶喪失ということをすっかり信じては貰えたがなまえは完全におちょくられていると確信していた。知らぬ顔の半兵衛とはよくいったものである。きっと半兵衛は内心舌を出していることだろう。
腰に回された意外としっかりとした腕に意識を回さないようにしてどうにか必要事項をまとめ、長居はできないとすぐに家を後にしていった楠木を見送ればどっと疲れがなまえを襲った。
「……ひゅー、耳まで真っ赤だよ? 可愛いところもあるね」
「うるっ、さい!」
やっと離れたかと思えば半兵衛はなまえの顔を覗き込んでしたり顔でいう。思った通りの確信犯に腹が立ったので半兵衛のパーカーのフードをかぶせて思いっきり下に引っ張ってやる。可愛い仕返しだ。
パタパタと足音を響かせなまえがリビングへ戻るのを確認すると、半兵衛は被せられたフードはそのままにその場に座り込む。
「なにあの表情……」
半兵衛の口から無意識的に言葉がでていた。手の甲で口を抑える。
覗き込んだなまえの表情が離れなかった。強く睨みつけてくる涙で潤んだ瞳に紅潮した頬、きゅと閉じられた唇。ジッと恥ずかしさを耐えるようなそれは自分の中の何かを煽るようななにかがそこにはあった。
覗き込んでしまったことを後悔しつつなんとか軽口で誤魔化したものの、こうしてフードをかぶせるという可愛い反逆が無ければ半兵衛自身の頬も同じ様に赤くなってしまっていたことがなまえにバレていたことだろう。
半兵衛は大きく息を吐くと、なまえのいるリビングへと足を向けた。