paradise lost 1





 どこで間違えたんだろう?


 どこからおかしくなってしまったんだろう?
 なぜ止められなかったのだろう。
 なぜこうなることを許してしまったんだろう。
 ティーチじゃない。
 油断していたおれ自身だ。







 ひどい眩暈に襲われ、ストライカーの小さな船底に膝をついた。
 モビーディックを発って何日たったのだろう。昼も夜も、ずっと船を走らせ続けた。立っていられなくなるのも無理はなかった。食事をする間も寝る間も惜しんで先を急げば、いつかは必ず体力の限界がくる。

 深い霧の中にガレオン船の残骸が浮かんでいた。胸元に衝撃が走り、銃弾が炎の体を突き抜けた。蹴散らしたはずの賞金稼ぎが波間から決死の面持ちで彼を見ている。最後の一人だった。
 この詰めの甘さだ、と自分に愛想が尽きる。エースは歯ぎしりをして炎の弾を打ち返した。カエルが潰れたような声を最後に、男は海に沈んでいった。

 いつもならこんな感情のない戦い方はしない。しかし今は何かが麻痺していた。

 自分の身に起きたことが信じられなかった。この海のように、一寸先も見えない深い霧の中を進んでいるようだった。疑問と自戒ばかりが嵐のように心の中を吹き荒れ、エースは目をやられた獣のようにただがむしゃらに海を渡った。
 ティーチを仕留めることだけを信じた。そのことだけを考えた。そうしていないと、白ひげ海賊団での日々がありありとよみがえり、気が狂いそうだった。

 あそこにいたときは、自分が手に入れたものが信じられなかった。今までずっと望んでいたものの中に自分がいて、あまりに幸福で、自分の幸運が信じられなかった。

 しかし今は、自分が失ってしまったものの大きさに呆然としていた。
 続けていかなければならないのは分かっている。ここで屈してはいけないのも分かっている。サッチのために、白ひげの名誉のために、自分がけりをつけないといけないのも分かっている。
 悲しんでいる時ではないのだ。ティーチを仕留め、またあの船に帰る。モビーディックに、仲間のもとへ、父親のもとへ帰る。

 絶望などすべきじゃないと、エースは自分に言い聞かせた。






 ティーチが造反し、エースが白ひげの元を発ったという情報を告げられたとき、シャンクスは驚かなかった。そして心のどこかでこれを予想していた自分に気づき、止められなかった自分を責めた。
 エースが2番隊の隊長に抜擢され、その部下に黒ひげがいると知りながら、彼には何も警告をしなかった。黒ひげの危険は、シャンクス自身が身をもって誰よりも知っていたはずだったのに。

 エースがこのあたりの海にいるという情報が入った。凄腕の賞金稼ぎや海軍が次々と撃沈されているから、彼の足取りをたどるのは簡単だった。

 空気が冷え込み、霧が深くなっている。船を進めていくと、水面に小さな木片が浮かび始めた。折れたマストやフロアの残骸が流れてきて、やがて濃い霧の向こうに赤い影がちらつき始めた。巨艦が燃え上がっている。
 シャンクスは船を止めた。

「ここで待っててくれ」

 一人で行くというと、最近入ったばかりのクルーが目を丸くした。その隣で、ベックマンが苦笑している。マントを翻し、シャンクスは軽々と船の残骸の上に飛び降りた。

 燻った匂いを嗅ぎながら、派手にやったものだとシャンクスは思った。これがエースでなかったら、巨艦を相手に一人でここまで暴れたとは信じがたかったところだ。
 彼も相当気が立っているだろう。
 大きな船だったので積んでいた火薬の量も相当だったらしく、まだあちこちで爆発音がとどろいている。
 しばらく浮き木を渡っていくと、見慣れた小舟が目に入った。

 エースの姿が見あたらず一瞬どきりとしたが、床に倒れている人影を見つけ、シャンクスは走り出した。
 舳先に飛び乗ると、床の上の青年が弾かれたように飛び起きた。

「エース」

 シャンクスはほっとして思わず名前を呼んだ。エースは信じられないように彼を見つめ、その一瞬だけ泣き出しそうな顔をしたが、すぐに険しい表情で彼を睨みつけた。

「……なんでここにいる」

 シャンクスは当惑して口をつぐんだ。エースが油断なく身構え、鋭く彼を睨みつけている。はじめて会った頃の、警戒心で一杯の彼をシャンクスは思い出した。

「おまえが白ひげの船を発ったと聞いた」
「あんたには関係ねえ」

 エースがぴしゃりと言った。猫が毛を逆立てたといった様子だった。シャンクスは動じなかった。

「それはおまえが決めることじゃない」

 エースが眉間にしわを寄せ、口を引き結んだ。

「……あんたの船が見当たらねえな」
「置いてきた」
「手短に頼むぜ。急いでるんだよ。あんただって聞いてるだろう」
「少し落ち着け、エース。頭を冷やせ」
「おれに指図するな」
「指図じゃない」

 エースがため息をついて首を振り、目を閉じて両腕に額をうずめた。

「……帰れよ、船長。あんたの船に」

 くぐもった声にシャンクスは眉をひそめ、彼の前に膝をついた。手を伸ばすと、エースの腕から微かに炎が上がった。

「……触るな」

 目を上げると、彼が睨みつけていた。泣き顔に似ていた。構わずに手を伸ばすと、炎が燃え上がった。シャンクスの手が炎の中をさまよった。
 炎が容赦なく彼の手を焼き、エースの顔が泣きそうに歪んだ。

「クソ、なんで覇気を使わねえんだよ。あんたならどうにでもなるだろ……」
「いいから炎を止めろ。キスもできねえ」

 エースがぎゅっと目を閉じ、シャンクスが彼を引き寄せた。唇を割って舌を差し入れる。すぐにエースが嗚咽を漏らして首を振った。
 シャンクスが頭を抱き寄せてやると、エースが謝るような言葉をつぶやいて両手で顔を覆った。引き寄せられるまま、シャンクスの肩に額を押し付ける。

 シャンクスが彼の頭にキスをし、なだめるように背中をゆすってやった。涙を無理に堪えているらしく、苦しそうに喉がひきつっている。シャンクスが彼を抱く腕に力を入れた。

「……止められなかったんだ、シャンクス。何もできなかった」
「おまえのせいじゃない」

 エースが大きく息をついた。抱きよせた胸で心臓が早鐘を打っている。彼の髪を撫で、首筋にキスをしてやると、強張っていた体からゆっくりと力が抜けた。

「エース……」

 シャンクスが言葉を続けようとすると、エースがうなだれたまま首を振って遮った。慰めはもう十分だというのだろう。まだ若いのに強い男だと褒めてやりたくなったが、黙ったまま彼の頭を抱き寄せてキスをした。

「……落ち着いたか」

 彼の肩に頭を乗せたまま、エースがかすかに頷いた。

「逃がさねえぞ。船に上がっていけ」

 困ったようにエースが噴き出した。

「……あんたもいい加減おせっかいだよなあ」


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