花の蕾が綻びだした、ある春の日。気温は低いままだが、日に日に風は温んでいく。この北の地にも、遅い春がようやくやってこようとしていた。
綾音は一人分の質素なおひるを済ませ、散歩に出ることにした。帰りにおばあさんの店に寄ることも考えて、買い物用の袋も忘れない。がたがたと鳴る引き戸をやっとの思いで閉め、眩いほどの日差しに目をほそめる。この地で何度も冬を越してきたけれど、この光の眩さだけは、まだ慣れない。


(・・・さむい、なあ)


ぶるりと身体を震わせる。年頃(ともそろそろ言えない年齢になってきたが)の女の子として、数年着物を新調していないというのは如何なものだろう。
戦争が終わって、江戸は随分と発展したらしい。残念ながらその恩恵は、この北の地までは届いていないが。うんと見上げなければ天辺が見えない建物や、空を飛ぶ車などというものがあるらしい。そして、天人という、人間でないものが街を闊歩していると聞く。全て、古びた一台のラジオが聞かせてくれたことではあるけれど、とてもほんとうのこととは思えない。想像さえできないというのに。
ラジオは子供の空想みたいな江戸の様子は伝えてくれるけれど、仲間の安否に触れることはなかった。


(元気に、してるかな、)


考え出すととまらなくなって、散歩をする気も失せてしまった。買い物だけはして帰ろうと、おばあさんの店へ足を向ける。
ただ、3人の無事が知れればそれで良い。大したことは望んでいないような気もするけれど、それはひどくむつかしいことのような気もする。手紙のひとつでも寄越してくれればいいのに、と思い、直ぐにその考えを取り消した。彼らと手紙なんて、似合わない取り合わせにも程がある。


「おばあちゃーん」
「はい、はい、今出ますよ」


ぱたんぱたんという足音に続いて、ひょこりとおばあさんが顔を出した。心なしか、いつもよりも顔色が良いように思う。春のおかげだろうか。
いつもと同じようにぴったりの釣り銭を受けとり、さあ帰ろうとすこし気合を入れたところで、「綾音さん、」とやわらかく呼びとめられた。店先に椅子を出し、ちょこんと腰掛けたおばあさんが、やさしい瞳でわらう。


「江戸に、出る気はないかえ」
「・・・え、」


江戸。
こどものつくりあげた空想のような、遙か遠いところ。


「私がなあ、息子夫婦のところに引越すことになったから、急じゃけんど、今月でここを閉めることにしたんよお」


お詫びち言うにゃあ軽すぎるけんど、もし綾音さんが江戸に行くなら、移動の手配は息子夫婦がするけえ、どうじゃろうか。
やわらかく紡がれる言葉たちは、まるで現実味がなく綾音に染みた。この国の中心に自分の居る風景が、どうしたって想像すらできない。


ただ。
会えるかもしれないという微かなひかりが、じわりとこころを痺れさせる。
会えなくてもいい。元気でいるという、その一報が聞けたなら。


「・・・よろしく、お願いします」


綾音の言葉に、おばあさんはその笑みをいっそう深くした。
どこかとおくで、鶯がへたくそに鳴いている。


はじまりを告げようか、


きみに続く旅の、




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