生憎の曇り空に、笑い声が弾ける。膨らんでさえない桜の蕾を見下ろしながら、詩音はまだ教室から動けずにいた。
涙が出た訳でもなく、かなしみに押し潰されそうになっている訳でもない。ただ、ここを出て行くのだという事実が、ぽかりと穴をあけている。すうすうと空気の出入りするそれは、暫く塞がることはないのだろう。


自分が数十分前まで座っていた机を、指先がなぞる。ふと教卓に目を遣ると、見慣れた白衣姿が未だそこに在るように思えた。今はきっと、校舎のどこかで生徒に捕まっているだろうそのひと。わたしたちの、せんせい。


叶う見込みなど、ゼロに等しかった。
彼は教師で、わたしは生徒で、大人と、こどもで。
それでも、真剣に恋をした。


「せんせい、」


唇から零れた、零した言葉は、春の生温い空気にとけていく。そこから先を、口にすることはきっとない。たった一度の機会は鮮やかに奪われて、そして臆病なわたしは二度目を諦めた。
開け放した窓から、一際大きな笑い声が飛びこんできた。きっと近藤くんだ。お妙ちゃんは、結局彼の第二ボタンを貰ってあげたのだろうか。視線を教卓にとめたまま、そんなことを考える。


「何してんでィ」


聞き慣れた声に振り向くと、沖田がいつものように、怠そうに机に座っていた。廊下側の一番うしろ、そこは神楽ちゃんの席だよと、言いかけてやめる。そんなことはもう関係ないのだ。わたしたちは、卒業、したのだ。


「んー、教室見てた。今日で最後だし」
「うそつきー」
「・・・いやいやいや、何を根拠に」
「教卓の方ばっか見てたろィ、お前」
「・・・ばれた?」


全く、いつから見ていたんだろう。勉強はからっきしなくせに、ひとの感情のこととなると、沖田はやけに聡い。隠しごとができない。ばれてしまったのならいいかと開き直って、また教卓に視線を戻す。見つめたからといって何かが起こるわけではないけれど。何か、起こったら良いのに。たとえば、銀八先生が出てくるとか。いや、それは気持ちが悪いか。


「詩音、」
「ん?なあに」
「おれ、お前のことすきだった」


振り返ると、沖田は見たことがない程、やわらかい笑みをうかべていた。なんで、だとか、いつから、だとか、意味をなさない疑問があたまのなかをぐるんぐるんと駆け回る。
ごめんなさいと、言うべきだろうか。それが礼儀なのだろうとはわかっているけれど、まるで喋り方を忘れてしまったかのように、言葉が出ない。明日あたり、沖田に好意を寄せている女の子たちに刺されるかもしれない、なんて思った。


「でも、それも今日で終わりでさァ」


銀八なら、多分屋上。
ふいと目を逸らした沖田の視線は、窓の外に注がれている。何を見ているのだろうかと気になったけれど、多分何も見ていない。
ごめんなさい、は違うと思った。今の沖田は、そんな言葉を欲しがってなどない。もっとあたたかくて、もっと切ない。


「総悟、今まで、ありがとう」


振り返らずに、あれほど出難かった教室を飛び出した。最後、沖田の瞳にひかったものはきっと春の陽射しに違いない。脳裏に焼き付いたその画を振り払うように、屋上への階段を駆け上がる。












「・・・盗み聞きたァいい度胸ですねィ、チャイナ」
「わざとじゃないネ、事故アル。・・・目から鼻水垂らしてんじゃねーヨ、サド」
「うるせー、大概空気読みなせェ」
「お前の空気なんか知ったこっちゃないネ」


あれで、いいアルか。
ぼそりと呟かれた言葉に、ずくりと何かが疼く。
まだ、癒えるには程遠いらしい。



「良いも何も、俺が勝手にすきになって勝手に失恋しただけでさァ。あいつを邪魔するつもりははなから無いんでィ」
「だけど、お前は、」
「あーうるせェ。さっさと行きやすぜ、近藤さんとかまだ居んだろィ」
「・・・さっき姉御に第二ボタンあげてたアル」
「んで、ボコられたんで?」
「自分の目で確かめろヨ」
「言われなくてもそーしまさァ」


ちらりと振り返ったけれど、人のいない廊下はいつもと同じように寒々しいだけだった。
もう着ることのない制服のポケットに手を突っ込んで、先を行くオレンジ色を追う。












無駄に重い扉を開けると、見慣れた白衣がちらりとこちらを振り返った。煙がゆらりゆらりと揺れている。そういえば、煙草を吸っているところを間近で見るのははじめてだ。


「どーしたの栗屋、センチメンタル?」
「先生に、会いにきました」


早く、言わないといけない。
先生が逃げ道を準備する前に、早く。
どくどくどくどく。
おかしいくらいに、心臓の音が耳に障る。


「すきです」


沈黙が、流れる。
鼓動が徐々にゆっくりになっていくのがわかった。ゆらりゆらり揺れる煙が、春の空にとけていく。
逃げることはもう許さない。大人にさらりとかわすことなど認めない。我ながら、脅迫じみた告白だと思う。
それでも、知りたい。傷つけられても、明確なこたえが欲しい。


「・・・今日卒業を迎えた栗屋に、せんせーからプレゼントー」
「え、」


するすると、ネクタイが解かれる。よく意味のわからないまま、すこしよれたそれを握らされた。
距離が、ちかい。


「学ランじゃねーから、ボタンはあげらんねーけど」
「は、え、あの、」
「卒業おめでとさん」
「えっ、はい、あの、先生、」
「次は制服脱いで来いよ」


ふっと、ゆるく微笑んだ。それだけですべてが満たされた気になってしまう。
違う、私が望んだものは、もっとはっきりした言葉だったのに。


「ずるい、」
「そーだよ、大人ってのはみんなずるいの」


生温い風が、ゆるくてのひらを撫ぜる。
そのくらいでは、絡まった小指の熱は冷めてくれやしないのにと思いながら、詩音はすん、と鼻を啜った。
今日、多分わたしたちはすこしだけ、大人になる。


「だから早く大人になれよ、詩音ちゃん」


しょっぱいピンクにくちづけを


そして青い春にさようなら





「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -