しとしと、よわい雨が朝から降り続いている。通い慣れてしまった道を早足で向かいながら、詩音は盛大に舌打ちをかましてやりたい気分だった。今日は全くもってついてない。朝から寝坊して朝礼に遅刻しそうになり、直属の上司の新たな悪事が発覚し、鬼上司の説教を受け、昼食を食べ損ね、おまけにこうして雨のなか上司を迎えに行かなければならない。それもこれも全て、今から迎えに行く沖田総悟のせいなのだ。昨日の夜眠い目を擦りながらあのひとの書類をやってあげたというのに、恩を仇で返すとはまさにこのこと。大事なことだからもう一度言う。全くもって今日はついてない。
慎重に水溜まりを避けながら歩く。目的地まではあと少し。もう一本の傘が邪魔で仕方ない。小さく舌打ちをすると、通りすがりの男にぎょっとした目を向けられた。舌打ちしたい気分の日だってあるのよ、ほっときなさい一般市民。そう怒鳴りたいのをぐっとこらえて(ここで怒鳴ったらそれは言い逃れのできない八つ当たりだ)、大きく一歩踏み出した。ああもう、着いたら文句のひとつでも言ってやろう。そうでなくては気が済まない。
やっと到着し、階段をカンカンと上る。何回も外れて壊れかけの引き戸を前に、これまた壊れかけのインターホンを思いきり鳴らした。
「はいはーい」
間伸びした返事とともに、ガタリと引き戸が開く。家の主は珍しくもない来客ににやりと笑い、まあ入れよ、と促した。
「いえ、ここで結構です。沖田隊長を連れてきて頂けませんか」
「つれねーなァ。ちょっと濡れてんぞ?タオル貸してやっから入れ入れ。それに、沖田くんまだ暫く動かねェよ」
「・・・それなら、少しお邪魔します」
「おー」
応接間(とは言っても、いちご牛乳やらジャンプやら食べかけの菓子が散乱している)のソファのできるだけ端の方に腰掛け、礼を言ってタオルを受け取る。問題児は昼ドラに夢中だ。結局、それからドラマが終わるまでの15分程の間、沖田は詩音に気づきもしなかった。
「はー、なかなか面白ェやこれ。旦那、来週も見に来ていいですかィ?」
「だめです」
「あれ、いたんですかィ詩音。すいやせん、あんまり影薄いんで気づきやせんでした」
「そりゃあ、みんなが沖田隊長みたいな強烈なキャラ持ってるわけじゃありませんから」
「当然でさァ、俺ァ特別なんで」
「褒めたんじゃなくて貶したんです。帰りますよ」
「えー」
テレビの前を陣取る沖田を引きずっていくのは至難の技だ。流石に雨の中そうするわけにもいかないし後が怖すぎる。取り敢えず沖田が飽きて立ち上がるまで待とうと、詩音は溜息をついてソファに座りなおした。その隣が、違う重さで沈みこむ。坂田が座ったらしい。
距離が、ちかい。
「万事屋さん、近いです」
「だめ?」
「・・・だめ、というか、一般的な距離から言ってこれは近すぎると言ってるんです」
「一般的に、てことは詩音ちゃんは嫌いじゃないんだ?」
ああ、この男は嫌いだ。
にやにやと笑っていて、何を考えているかわからなくて。大体、沖田隊長の「友達」に碌な奴はいない。
「私は万事屋さんと名前をちゃん付けで呼ばれるような間柄になった記憶はありません」
「ん?俺いっつも銀さんって呼んでっつってんじゃん」
「呼びません。そういう間柄になった記憶はないですしこれからなるつもりもありません」
「またまたァ」
「っ、沖田隊長!帰りますよ!」
へいへい、なんて言って沖田が立ち上がる。やっと帰れる、と詩音は腰を上げた。上げた、はず、なのに。
なんで、私はまたソファに座っているんだ?
あたたかさを感じてふと手を見ると、坂田の手のひらが詩音のそれをつつみこんでいた。顔に熱が集まるのがわかる。
「万事屋さん、離してください」
「やだ」
「はっ・・・?」
「だってさァ、本気じゃないじゃん」
視界がぐるり、回る。目の前に坂田の顔がある。逃げ道を塞いだ腕が筋肉質だなあなんて、少々間の抜けたことを思った。
「詩音ちゃん、俺んとこ来んの嫌いじゃないじゃん」
「・・・っ、悪ふざけも大概にしてください。公務執行妨害でしょっぴきますよ」
「ふざけてなんかねェよ、銀さんの目ェ見てみ?」
やさしい口調に引っかかり、避けていた視線を合わせたのが間違いだった。やる気の無さそうなその瞳は、しかし人を惹きつけてやまない。 言葉を紡ぐためか、唇を舐めるその仕草に、もうだめなのだと、思った。
「いけませんか」
「何が?」
「万事屋さんのところに来るのがすきでは、いけませんか」
ああ、きっと今私はまっかな顔をしている。それを見られたくないのに、彼の瞳は視線を解くことすら許さない。目をすうっと細めて、口角を上げて、坂田は余裕たっぷりに笑う。
「いや?いつでも来いよ」
笑みに溺れた午後三時
(いつかそれに絡め取られて食される運命でも、)
(それでも良いと思うのです)
やっちゃんへ!
← →