春の夜を甘噛みしたときの味

無性にあまいものが欲しくなるときがある。
欠伸がでるほど平和な午後、大きな仕事が片付いて久しぶりに定時で帰れる夕方、そして、なんとなく遅くまで起きていたい夜。いつもは飲まないカフェオレを、芙由花はマグカップになみなみと注いだ。せまいキッチンに立って、ゆっくりカフェオレをかきまぜる。カフェオレのぼんやりした色は、春によく似合っていると思う。やさしいけれど決して馴れ馴れしくはない色。


「なに飲んでんの」


濡れているせいでいつもよりボリュームを失った髪をそのままにして、銀時がにゅっと顔をだした。ぽたぽたとおちる水滴に眉をしかめる。


「カフェオレ」
「ふうん」


珍しいもん飲んでんのな、と言って銀時は洗面所に引っ込んだ。ドライヤーがぶおんと唸り出す。わたしは銀時のおとした水滴を拭いてやって、ソファに移動する。途中に本棚を経由して、よみかけの文庫本を一冊抜き取った。本棚はわたしの文庫本と銀時のジャンプと漫画本で溢れている。
カフェオレの蒸気であたたまった指でページを捲る。コーヒーの匂いの漂うアメリカの駅に栞ははさまっていた。


「なんで?」


活字を追っていたから、その言葉が自分に放たれたものだということさえしばらく気がつかなかった。ものすごい勢いで現実に引き戻され、ここが自分の家だということを認識できずに瞬きをする。ああそうだ、今日は金曜日で、わたしはソファに座って本を読んでいたのだった。


「なにが?」
「なんでカフェオレなんかのんでんの」
「なんとなく、気分」
「ふうん」


ふわふわの頭がキッチンへ移動する。どうせいちご牛乳を飲むのだろう。銀時の甘味狂いは、気分なんかに左右されない。わたしは再び文庫本に視線をおとす。この推理小説はなかなか面白い。ミステリーは活字で読むにかぎる、とわたしは思っている。


「疲れてんの?」


どうやら今日の銀時は、わたしを本の世界に没頭させてくれる気はないらしい。読書を諦めてキッチンに目をやると、丁度いちご牛乳を飲みほした銀時と視線がかちあった。


「べつに。銀時は?」
「おれ?べつに」
「そう」


そういえば、こうやって二人でゆっくり夜を過ごすのは久しぶりかもしれない。わたしも銀時も年度末の雑務に追われて、眠るためだけに家に帰るような日が続いていた。
今日は、久しぶりに夜更かしをしてもいいかもしれない。音楽でもかけて、あたたかいカフェオレを片手に。コンビニにアイスクリームを買いに出てもいい。自分を甘やかす夜にしよう。


「なあ」
「なに?」
「明日ひま?」
「このまえ買った本を読む予定だけど」
「ひまじゃん」
「ひまじゃないよ」


今だって、その本は本棚にありながらわたしを誘惑している。週末にご褒美として読む、と今日まで自制してきた自分を褒めてやりたいくらいだ。学生時代から気に入りの作家の新刊。
銀時は表情こそ変えないが、不満を空気にたっぷり滲ませた。彼がこんなふうに感情を発露させることは珍しい。どうして、と訊くとべつに、と視線を逸らす。まるで手のかかるこどものようだ。怒るから絶対に言わないけれど。


「なにかあるの」
「なにもねえけど」
「じゃあいいじゃない」


銀時はむすっと黙りこくってしまった。面白いから、本を読むふりをしてその気配に神経を集中させる。ソファの隣が沈んだ。テレビの電源がつけられ、喧騒がなだれこんでくる。


「たまにはどっか行ってもいいかと思っただけだよ。芙由花が本読みたいなら行かねえ」


行きたくないなら行かなくてもいい、と理解のある大人のふりをして、銀時はそわそわと返事を待っている。やっぱりこどもだ。珍しいおさそいに柄でもなくうきうきしてしまっているわたしもこどもだけれど。いや、もしかしたらきちんとした大人(たとえばわたしの上司)だって、こういうおさそいにはこころが躍るものなのかもしれない。
とにかくわたしは(そしておそらく銀時も)久しぶりの「恋人らしい」休日の予定に浮かれている。すこしはしゃいだ声を出してしまうくらいには。


「じゃあ、お昼ごはんをたべたら散歩にいこう。今日は夜ふかしをして、明日の朝はうんと遅くまで二人で寝ていよう」
「車じゃなくていいのかよ」
「いいの。ほら、明日は晴れてるし」
「ふうん」


丁度良くテレビではじまった天気予報では、お天気お姉さんが朗らかに晴れの予報を告げている。明日は良い日になりそうだ。


「夜ふかしって、何すんの」
「何しようか。映画でも見る?」
「借りにいくのめんどくせえ」
「ついでにコンビニ寄って、アイス買おう。ほら、」
「…明日の昼はフレンチトーストが良い」
「じゃあ牛乳もね、銀時持ってね」
「チョコといちご牛乳とプリンも買おうぜ」
「調子のらないで。行くよ」


鍵をしめて、マンションの階段を下りる。空気はつめたいけれど、すこしずつ春が近づいているのがわかる。空気がゆるむのだ。冬の切り裂くような空気が、ゆるゆるとゼリーのように溶け出していく。
風呂上がりであたたかい銀時と、冷え性のわたしの手の温度が混ざりあう。彼の熱がわたしに移りきる前に、コンビニにたどりつきますように。


春の夜を甘噛みしたときの味





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