耳を擽る遠い喧騒に、意識が浮上する。外を見ると随分日が差している。丁度、朝の会議が終わった頃らしい。
すとんとソファから飛び降り、障子を開けにかかる。てこの原理というやつか、なかなかどうして開いてくれない。やっとできたすこしの隙間に鼻を突っ込んで押し広げた。ふむ。犬というのも存外楽ではないらしい。
大きく伸びをし、くわあと欠伸をひとつ。途端、ぎゅるぎゅると腹が鳴る。空腹は自覚するともう離れず、土方は渋々食堂に向かうことにした。人の多いところは避けたいのだけれど。隊士から犬扱いされるのは、どうも気に食わない。いや、犬なのだが。


「あ、いた!」


忙しない足音とその軽やかさで声を聞かずともわかる。詩音だ。見上げると、彼女は「呼びに行こうと思ってたんだよ」と笑顔を向けた。犬相手に、まるで人間のように声をかける。以前から思っていたことだけれど、本当に変な奴。


「ご飯たべよう。お腹空いたでしょう?退がドッグフード買ってきてくれたんだよ。あ、退っていうのはね、昨日も一緒にいた、ええと、地味なひと!」


あんまりな紹介に、声を出さずにわらった(自分から発される声が犬のそれであることには、未だ慣れない)。とてとて、詩音の後を歩く。目線のちがいというものは、こんなにも大きいのか。犬の目線では、背のあまり高くない詩音でさえ目をあわせるのに一苦労である。
詩音もこのように、一生懸命に見上げて会話をしてくれていたのだろうか。そりゃあ、犬と人間ほどの苦労はなかっただろうけれど。屡々仕事に疲れきって目を合わせることすら億劫で、書類越しに会話をしていたことを土方は多少すまなく思った。


「あっ、詩音さん!ドッグフード、ここに置いてますから!」


山崎は詩音を見つけてそう叫んだかと思うと、足早に廊下の先へ消えていってしまった。いつも土方の雷が落ちる寸前まで他の隊士と喋っているくせに、今日は一体どうしたことだろう、と首を傾げる。何か急ぎの任務があっただろうかと思い返すが、特に言い渡していない。鬼のいないのをいいことに、バドミントンの練習にでも精を出しているのだろうか。


「はい、ごはん。よく噛んでたべるんだよー」


目の前に盛られたドッグフードに、すこしたじろぐ。これを、俺に、食えというのか。とても人間の感覚からしたら美味しそうとは思えないこれを。
覚悟をきめて口に運ぶ。ひどい味はしないのが幸いだった、どうやら味覚も犬化しているらしい。食感も、かためのスナック菓子だと思えばさほど気にならない。土方は目をつぶるようにして、ドッグフードを食べ終えた。


「ほんとはね、手作り食にしてあげたいんだけど、皆忙しくて。ごめんね、一段落したら、退とかに頼んでみるね」


申し訳なさそうに眉を八の字にする詩音。こんなに馬鹿真面目に犬に話しかける奴は、世界中探してもこいつしかいないんじゃないかと思う。大丈夫だと言えない代わりに、土方は尻尾をぱたぱたと振ってみせた。


わたしは仕事があるから、庭とかであそんでおいで、屯所の外に出ちゃだめだからね、と言い置いて(だめだからね、のところはわざわざ怒った顔をつくってみせた)、詩音は自室に引っ込んでしまった。特にすることもなく、ぽてぽてと廊下を歩く。かなり暇だ。昼寝をして時間を潰したいところだけれど、先程まで熟睡していたおかげで意識は冴え冴えとしている。人間だったら書類仕事でも剣の稽古でもできるというのに、つまらない。言いつけを破って外へ出ることも考えたけれど、詩音が探し回る様が鮮明に脳裏に浮かんだので止めておいた。沖田じゃあるまいし、人を煩わせることを進んでする気にはなれなかった。


そういえば、その沖田はどこにいるのだろう。大抵自室でサボるか、縁側でサボるか、庭の大木の枝の上でサボるか、町の団子屋や甘味処や駄菓子屋でサボるかしている彼を、今日はまだ見かけていない。
いや、別に見かけないからどうというわけではないのだけれど。寧ろ、見かけない方が好都合であることは確かだ。何をされるか見当がつかない。
自分の部屋にでも戻ろうかと歩を進めようとすると、背後に人の気配を感じた。咄嗟に一歩飛び出し、距離をとって振り返る。栗色の髪が、それはそれは愉しそうに揺れていた。


「どうしたんでィ犬、折角俺が首輪をつけてやろうとしたってのに」


ぎらりと瞳がひかる。やばい、こいつは本気だ。一見無邪気に見える笑みを浮かべ、沖田はゆるりと近づいてくる。寒気を覚え、土方は脱兎のごとく駆け出した。


「逃がしやせんぜ」


背後からきこえてくる足音がこれほど恐ろしかったことはない。あちこち跳ねまわり、怒鳴り、走りまわるけれど、一向に諦める気配はない。何より、怒鳴っている自分の声が只の吠え声にしかならないことが空しかった。この上首輪をつけられるなんて、冗談じゃあない。そうなってしまったら本当に、只の犬だ。


「五月蝿いですよ沖田隊長!仕事してください!」


いい加減疲れきった頃、スパァンと小気味良い音をたてて障子が開いた。丁度詩音の部屋の前だったらしい。部屋の主はそれはそれはご立腹である。


「貴方の書類が山程あるんです!そのこに構っていないで仕事を片付けてください!」
「えー」
「…沖田隊長、」
「へいへい。じゃあな、また遊んでやらァ」
「当分そんな暇はありません!」


再びスパァンと障子が閉まり、土方はぽつんと一匹取り残された。呼吸をととのえ、ふらりふらりと自室へ向かう。煎餅座布団の上でまるくなり、一体全体何がそんなに忙しいのかと訝しむ。土方が逃した敵の残党は、それほど大物には見えなかった。何か、新しい案件でもあるのだろうか。


(…俺が考えて、どうこうできる問題じゃねェか)


途端につまらなくなり、土方は瞼を閉じた。すこし休憩をして(沖田との鬼ごっこは心臓に悪すぎた)、探検に出かけようとぼんやり思う。犬の姿でしか見ることのできないものがあるかもしれない。手始めにどこから回ろうかと思案しながら、土方は瞼をおとした。


一匹、蚊帳の外
退屈を持て余す


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