TEXT log bkm top

オスローの魔物





(O, beware, my lord, of jealousy !
It is the green-ey'd monster which doth mock.
The meat it feeds on.)


耳障りなガラスの断末魔が、決して薄いはずはない壁の向こうで響く。廊下を当てもなくふらつく足を止めてふと見れば、そこは見知った古い顔なじみの研究室、と言うよりは自室より過ごす時間が長いせいか余程自室らしい部屋だった。
こつこつと踵で床を叩きながらどうするか、ゆっくり思案する。研究室という特性故、例えば弄っている試験管を落としでもすればガラスは割れるだろう。が、しかしそうだとしたらその不快な音は床で響くわけでさっきのように壁で砕けるわけはあるまい、さて。喉奥で微かな唸りを漏らしつつ首を傾げたその時、再びがしゃんと大袈裟な断末魔が響いた。ふむ、どうやら壁の向こう側、そのひとの状況はあまりよろしくはないようだ。だとすれば。
──こんなに面白いことはないのだから、首を突っ込んでやらないわけにはいかないだろう、ってハナシだ。
良い暇潰しを見つけた、と深くほくそ笑んでから、ノックもしないで退屈から脱出するための扉を開いた。

「……っ!なんの用だシグバール、大体ひとの部屋に入る時はせめて声くらいかけろといつも、」

「カリカリすんなって。いやなに、たまたま通りがかったらお楽しみの最中みたいだったんで気になって、な」

ドアの隙間から一瞬見えた、ビーカーを振りかぶった長身は俺の姿を認識するのとおそらくはほぼ同時に、何事もなかったかのようにこそこそとその割られずに済んだ器具を傍らの机に隠し置く。何事もなかったように取り繕えているのはあくまで本人のその動きだけで、卓上は荒れに荒れ壁際には見るも無惨なガラス器具の亡骸が散らかっているしなにより、こいつの気が立っているのは痛いほどよくわかる。ああ本当に面白い、これは構い甲斐がありそうだ。

「…私が私の部屋で何の為に何を考え何をしようと、勝手だろうが」

「そりゃあなァ、でも気になっちまったんだから教えてくれたっていいだろ?」

減るモンじゃあるまいし。殆ど期待しないでおどけてみたが、まあ予想通り素直に教えてくれはしないらしい。と言うか、この自分のことには驚く程疎くて興味のないおヒトのことだ、はっきりと行動の理由をわかってすらいないんじゃないだろうか。
敵意丸出しで鋭く向かってくる視線を受け流しながら笑いを零しているとふと、脳裏にここを通り掛かる少し前、ロビーで補佐官殿と交わした言葉が蘇る。成る程、あれがこいつの耳にも入っていれば。いや、知らなくとも面白いけれど、他にこれが今ここまで荒れるワケも浮かばない。俺の顔に益々深く刻まれた笑みすら気に入らないらしいヴィクセンの眉が、小さく跳ねた。毛皮でも纏っていればそれがくまなく逆立ちそうな全身を、焦らすように上から下までたっぷり眺めてから浮かべていた表情を潜め、代わりに記憶の中から引き出したのはしおらしい顔。

「いや、な。まあそれは冗談で、お前を心配して来てみたんだって」

よく言う、配る心なんて持ち合わせていない癖に。内で零れた微かな自嘲と同じことを考えているらしい不可解そうで不快そうなそいつの虫の居所の悪さは相当だろうと読んで、片腕をちょうど奴の死角に隠し虚空から得物を取り出した。手に馴染む体の一部のようなそれを金属音を立てないようそっと、握り締める。
わざとらしく肩を竦めながら一歩、剥き出しの苛立ちに近付いた。

「サイクスに教えて貰ったんだが…今日から継続の調査任務で、マールーシャが、」

一瞬、室内の空気がぐっと冷え込む。氷点下の室温のせいで吐き出す息が白く濁った、なんて考える間もなく真っ直ぐに向かってくるビーカー。さっきは俺のお陰で割れずに済んだのに、残念だったな。八つ当たりに壊される器をこっそり弔いつつ、飛来するそれを隠し持っていた得物で撃ち落とした。全く、ここまでわかりやすい反応ばかりでこいつは苦労しないんだろうか。実際こうやって俺に暇潰しにからかわれているあたり、既に損をしている気がするが。砕け散ったガラスを踏み潰し、靴底で更に小さな破片へと変えながらまた一歩。じゃり、と鈍い足音と共に足を踏み出すと荒く、浅く、呼吸をする度に上下していた薄い肩が震えたように見えた。
あからさまに続く言葉を全身で拒絶しているのは嫌でもわかる。だがそんな拒絶如きで大人しく押し黙る程、生憎俺はイイコじゃない。

「…パートナーにラクシーヌを選んだらしいじゃないか。いやぁ、美男美女のいい組み合わせだと思うんだけどよ。フラれた学究殿が拗ねているんじゃないか、ってな」

背筋にぞくりと走った感覚は、あの強く歯を食い縛り怒りを露にした表情のせいだろうか、それとも更に下がった室温のせいだろうか。見れば部屋の隅に、微かに霜が降りている。ヴン、と、唸るような音につられて視線を戻すと、わななくその手にはこの部屋のように冷たい印象を与える大きな盾が握られていた。
不器用すぎる感情表現とは裏腹に、足元のガラス片の凶器じみた断面に似た視線が切に語りかけて来るのは俺への、俺の紡ぐ言葉への嫌悪とそれを簡単に上回るもっと強い──、

「一度だけ言う、いい加減にしろ。黙れ、そして今すぐ出ていけ。私は忙しいんだ、そんな馬鹿者の話を聞く暇や馬鹿者を気にしてやるくだらん時間は一分たりとも存在しない」

──嫉妬。纏わり付くような粘度の高いそれではなくて、きっぱりといっそ清々しいくらいの怒り。妬ましい、なんて感じる心がないただの屍のクセに、この屍はどう見ても頭に血が上り辛うじて普段持っている冷静さはすっかり無くしてしまっている。嫌っているそぶりは見せているが実のところのヴィクセンのマールーシャへの執着は、感情があるように振る舞っている、のではなく最早本物の心をもつ人間の行動そのもののようではないか。キングダムハーツの、大いなる心の力をまだ得られたわけでもないのに、こんな風に感情、らしきものを露にするこいつを、羨ましいと思うことも嫉妬を覚えるのすらも、同じ屍の俺には出来ないってのに。

「…ハイハイ、そりゃあ失礼。ああ、ヴィクセン、」

さて、そろそろこのクソみたいに面白くてかつ面白くないおヒトをからかうのもここまでにしようか。勿論ウデが劣るわけではないが、臨戦体勢の野郎の相手をするのは面倒だし何より、遊びは引き際が肝心だろう。見せ付けるように双銃を霧散させ、こちらには戦意がないと示す。
まだ何かあるのかとでも言いたげな視線の源、眼にはまだ強い感情が宿ったままだ。負けじと、というわけでもないがその緑を睨み返し、一度深呼吸をして冷え切った酸素を肺の底まで取り入れてから芝居がかった動作で両腕を広げた。

「気を付けろよ?嫉妬ってのは、緑の目をした怪物の姿をしていていつでも人の心を喰らってやろうと狙っているからな」

「……なんのことだ」

「さァな、お堅い研究書だけじゃなくて物語も少しは嗜めってハナシ」

くく、と喉奥を震わせ笑ってみると意味こそわかってはいないが馬鹿にされているのは伝わったらしく、今度こそ苛立ちが頂点に達したのだろう、ヴィクセンの正面に人の頭大の氷塊が現れた。瞬時にこちらへ向かってくる鋭い先端が届く前に、望まれた通り深い闇に姿を溶かし部屋を後にする。
俺を見据える鮮やかな緑の目もやがて、ゆらりと閉じる回廊の向こうに見えなくなった。



***

緑の目=green eyed=(英/慣用句)嫉妬深い
由来はシェークスピアの作品内で嫉妬を緑の目の怪物に例えたことから




人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -