TEXT log bkm top

蜘蛛の糸(羽根を手折るその腕はひどく優しい)





冷たい壁、冷たい床、冷たい空気。
勢いをつけて振り下ろした拳だけがあつく、熱を孕む。

「ぐ、ぁ……っ」

冷たい鎖を哭かせながら鳴く彼のその声が、強い視線が。聴覚から視覚から体中を巡り、熱となって私の中を駆け抜ける。その熱のせいか、背筋が小さく震えた。ああ、堪らない。もっと、もっとだ。もっとこの熱が欲しい。もっと貴方の声を聴かせてくれ、もっと私を見詰めてくれ、もっと貴方に溺れさせてくれ!
いくら貪っても満ち足りない、これはまるで。麻薬のよう、だ。

「ふざ、けるな…貴様、……いい加減、に、ぅ、ぁあ゛あ゛あ゛っ」

「貴様、ではなくマールーシャ、と。名前を、呼んでくれると嬉しいのだがな」

私に触れられ鳴きながらも、まだ意地を張る強情さに少し、ほんの少しだけ呆れつつヴィクセンの髪に指先を絡める。真っ直ぐで案外指通りのいい感触を堪能してからその髪ごと頭を掴み、そのまま床に叩き付けた。鈍い音と衝撃と同時に一際高く、無機質な室内に響く声。喉から搾り出される声の余韻にすら、ぞくぞくと悪寒に似た快感を覚える。
私は貴方を傷付けたいなんて狂気じみた願望はカケラも持ち合わせていないけれど、ほら。こうしてやれば貴方は、可愛らしい声で鳴いてくれるだろう?貴方が悦んでくれるなら、私の意思や多少の罪悪感など関係ないと、そう、頭を強く打った余韻か、朦朧と光のない瞳を見下ろしながら音にはせず、唇の動きだけで呟いた。
痙攣し、床で跳ねた指先に私のそれを絡めようと触れた瞬間、乾いた音を立ててその手は払いのけられる。見れば、私に向くのは一瞬前に彼が宿していた光のない眼ではなく強く、突き刺すような鋭い双眸。
そういえばこの、案外大きな瞳。ヴィクセンの持っているものは、髪も顔立ちも声も腕も指先も腰も腿も脛もそれこそ全てがくまなく美しいと思っているけれど、その中でも抜きん出て、この翡翠は美しいのではないだろうか。

「…いつまで、気狂いのふりを続けるつもりだ」

「何が言いたいのか、理解しかねるが。私はいまだかつて一度たりとも、狂人になったことも、それを演じたこともないぞ?」

忌ま忌ましげに投げ掛けられる言葉を退け石造りの床に横たわる身体を跨ぎながら、魅入られたように翡翠に手を伸ばす、が。指先が何処に向かっているのかわかった、か、どうかは定かではないけれど、あの美しさは伏せられ瞼の向こうに隠されてしまった。行き場をなくした指先は仕方なしに辺りをさ迷ってから瞳を覆う瞼を撫で、色素の薄い睫毛をなぞり痩けた頬、顎を巡って最後には細い首に辿り着く。痛めつけている時とは逆にあくまで、優しく、それから酷くゆっくりと触れているというのに。指の腹が肌を擦る度に大袈裟に奮え、初々しく縮こまる仕種が愛らしくて、喉の奥が微かに震えた。

「…ヴィクセン、眼を。貴方の瞳を、見せてくれ」

未だ頑なに瞼を閉ざすヴィクセンの頬に、ひとひら。なにもない虚空から現れた、花弁が滑る。血の気の無い肌にあかいそれは驚くほどよく映え、美しい。
しかしまあ、困ったな。私はあの翡翠を、もっと眺めたいのに。きっとこの方のことだから、視界を閉ざすことでいまの状況から眼を背けて照れ隠しでもしているのだろう。こんな強情さも生娘のようで可愛らしいとは、思うのだけど。愛しさを物足りなさや渇きがほんの僅かに上回り、かつて心があったはずのぽっかりと爛れた胸がきりりと痛んだ。
私達は愛し合っているのだから(だって最初の数日と違って貴方はもう抵抗もしない、こうして毎日私だけにしか会っていない、貴方が照れ屋なだけで言葉で愛を囁いて貰ったことはないけれどそれでも)、そうやって恥ずかしがらずにもっと素直になってくれてもいいのに、と。幸せな溜息を零しつつもう片方の手も首に添え、それから。

「っ……!止っ、…め……、」

両手に、徐々に徐々に力を込める。花を摘む時のように優しく、しかし確実に。花ではないけれど、花より美しくすらあるけれど、簡単に手折れそうな白い喉を圧迫してやると。ひゅるりと掠れた息が薄い唇から漏れ、そしてようやくあの瞳が思い切り見開かれた。
何か声にならない言葉を発しようとしながら私の手袋越しの手を、ヴィクセンの手袋越しの指が強く掻きむしる。私も彼も素手であれば、私の皮膚にヴィクセンが爪痕をくっきり刻んでくれただろうに、残念だ。とりあえず、次に会う時は互いに手袋は外すことにしよう。そうすれば今度こそ、ヴィクセンからの所有の証が私の身体に残る。
しかし、所有印を残し合うだけではまだ足りないな。もっと、もっと何か、形に残る私達の愛し合っている証、を。…そうだ、まずはやはり愛し合った者同士なら子供を作るべきだろう。我ながら名案だ、というよりは寧ろ当然の流れと言うべきかもしれないな。私とヴィクセンの子ならどちらの遺伝子を受け継いでも美しく、どの才を引き継いでも聡明になるに違いない。

「貴方はどう思う?私はどちらに似ても良いと思うのだが、ああでも眼だけは貴方に似て欲しいな、私のこの蒼い眼も美しいけれども貴方のこれは更にずっと、ふふ、」

幸せな未来を語るだけでその幸せの片鱗を掴めた気分になって堪らず、喉を絞める手はそのままに見開かれうっすらと涙の浮かんだ焦点の合わない瞳に。愛しさを込めて、ゆっくりと舌を這わせる。
力無く抵抗を続けていた指先がびくりと跳ねるのを無視して、鉱物のような印象を残す見た目とは真逆のぬめった生暖かさを舌先で味わえば自然と、口角に浮かんだ笑みが深まった気がした。
長い長い、一瞬。少し変わった口付けを堪能しきってから顔を上げ、首に添えていた手からも力を抜いてやる。貴方の首を手折って花のように活けて楽しむのも良いけれど、それはまたいつか、そのうちに。今はまだ、貴方と愛し合っていたいから。
四肢を弛緩させ、時折咳込みながらヴィクセンが忙しなく喘ぐ度に、それに合わせて上下する薄い胸。コート越しに、肉付きの悪いそこに頬を擦り寄せながら確かに。爛れたからっぽの胸に、熟れすぎたような甘い心が充ちるのを、感じた。



***






人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -