少年よ、(大志なんて要らない。抱くのは )
「どうして、嫉妬は罪なんだ?」
黙って武器の手入れをしていたニクスさんが、突然静寂を破る。顔を上げると、刀身を研く手を止め此方を睨むように(本人は睨んでいるつもりは無いだろうが)見るそのひとと視線がかち合った。
聞かれている意味が理解出来なくて答えあぐねていると、それが顔に出てしまっていたんだろう。あからさまに不機嫌な舌打ちを溢し、ニクスさんは更に続ける。
「傲慢、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲。で、嫉妬。…他はわからなくもねェんだよ」
…ああ、そういうことか。
人間を堕落させ罪に導くとか言われている、七つの大罪。それに嫉妬が組み込まれてるのが気に入らないんだかどうだかは知らないけど、とにかくその理由が知りたい、と。
いつもの事だけど必要な単語が抜け過ぎてて何が言いたいかわからないとか、宗教なんて信じちゃいない癖に突然なにを言い出すのかとか、なんでそんなことを気にするんだとか思わず口にしそうになった文句、もとい疑問を飲み込みながら首を捻る。
「そりゃー……他の六つと同じで、よろしくない…って言うか、確か人間を堕落させるから、じゃねぇんですか」
さっきは自分を棚に上げてあんな風に思ったけれど、神や宗教を信じないのはお互い様だ。寧ろこんな世の中でそんな気休めを信じろ、と言う方が間違っているんじゃないか。
だから一応宗教的な知識としてあるそれも、目の前のひとの求めているであろう答えには到らない。俺の声に何の反応も示さずに黙りこくってるのがその証拠だろう、多分。
焦点を合わせずにぼんやりと無機質な部屋の壁を眺めるニクスさんを余所に、自分の刀の手入れを再開した。
どうせ、俺の意見なんか訊いても聴こえてはいないんだし、もし何かの間違いで聞いていたってそれはニクスさんの記憶のどこかに引っ掛かることは無くそのまま滑り落ちるだけだ。だからって俺が質問に答えないと、理不尽な報復を受けるんだけど。
いつもなら、これでニクスさんに怒られずに会話出来る貴重で短い時間は終わる筈、なのに。
「いッ…たぁ……」
「話、終わってねーだろ。手なんか動かしてないで聞けってクソガキ」
殴られた。多分、刀の柄で。
ずきずき痛む頭を擦りながら、ニクスさんとまだ話が出来る嬉しさ半分さっさと手入れを終わらせてしまいたい気持ち半分(あんまり時間をかけているとニクスさんに怒られるか、置いて行かれる)な複雑な気分を誤魔化す為に溜め息を吐き出した。
そんな俺を無視して、と言うよりは元より気にする様子すらないニクスさんが、更に続ける。
「なんで、嫉妬と堕落が繋がるんだ」
正直、結構驚いた…会話として十分成り立っている文章が返ってきたということはどうやら珍しく、さっきの俺の意見は聞いて貰えていたらしい。
それは素直に喜ばしいことだと思うし、後でこっそりカレンダーに印をつけて記念日にでもしてやろうかなんて考えてしまうくらい実は嬉しかったのだけど。
「どうして、」
「……あ?」
「なんで、そんなコト気にするんです?そんな、ニクスさんらしくないじゃねえですか。普段のあんたなら、そんなの気になんかしねえでしょうに」
そう、ニクスさんが話し掛けてくれたのが嬉しかったのと、余計なことを聞き返したら今の決して悪い方ではない機嫌を損ねてしまうのが心配でつい、尋ねそびれてしまっていた最初に浮かんだ疑問。
少なくとも俺の知るニクスさんは、そんな細かい所にいつまでも引っ掛かったりはしない。たまに気紛れで手近な誰かにふと浮かんだ何かを尋ねてはみるけど、その相手が例えどんなに必死に答えをひねり出しても適当な相槌を打つか、その頃には興味なんかとっくに失せていて返事すらしないかの、どちらかだろう。
普段はそうやって物事にも人物にも、それからずっと近くにいる俺にも。大した関心も興味も注がないこのひとがそんなちっぽけな曖昧なものを気にしているのが気に入らない、というか少しムカついた。
「…俺は、嫉妬のお陰でここまで上り詰めた。ここまで強くなったから、」
「……へ?」
ぽつり、話しはじめた声は、物凄く小さくて聞き取りにくかった。
驚いたように向けた視線の先のそのひとの表情は、帽子の影になってよく見えない。その小さすぎる声からも感情は汲み取れないし、ただ黙って続きを待つしか無さそうだ。
「俺は、妬ましいあいつらを越える為に地位と、強さを手に入れた」
「あのひとを裏切ったのに、まだ一途に想われ続ける士朗が、」
「あのひとと離れて尚、遠くに居るのに心が通じ合っているセリカが、」
「あのひとを手に入れて、我が物顔をしているセムが、」
「全部、憎くて妬ましい。だから俺はあいつらを越える為にあのひとから引き離す為に、剣の腕を磨いて血ヘドを吐きそうな鍛練にも耐えてイイ戦果を出して」
「嫉妬さえ覚えなきゃ良家の道楽息子のまま無気力な一生を終えてたに決まってる俺を、ここまで動かしたそれが。なんでいけないんだよ、鉄火、なあ!」
初めてみた饒舌なニクスさんは途中何度も言葉を区切りながら静かだった声を段々荒げてそれから、頬を小さく濡らしていた。
クールで格好良い俺の憧れで尊敬の的の大好きなだいすきなこのひとが、みっともなく叫んで泣いてそうやって感情を剥き出しに、して。俺と居るときは俺がなにをしてもなにを話してもこんな風になったことなんか一度もないのにそうか、あのひとの為ならニクスさんは。こんなにも人間らしく振る舞えるのか。
ニクスさんの言うそれが、罪かどうかはわからないしもしかしたら咎められるべきものとは確かに違うのかも知れない気もするけれど。俺が今まさに抱いているこの暗い黒い感情は確かに罪、なんだろう。
だいすきなひとの全て、と表現したっていい『あのひと』が。
俺が仕えるこの国の頂点に君臨する、本来は命をかけてお守りしなきゃいけない彼女が。
俺は、殺意に似たなにかを認識できるくらい、憎くて、妬ましい。
「…ふふん。泣いてるんですか?かわいいです、ね、ニクスさん」
なんとか精一杯いつも通りに吐き出した声は、今度こそ本当にこのひとの聴覚を素通りしたようだ。
無視されて行き場のなくなった視線を手のひらに落として、爪が食い込むくらいに強く、握り締めた。
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