「字ぃきれいやな」
 何の変哲もない普段の授業終わり、ついさっき先生に指されて仕方なく黒板に書いた数式を消していたとき、近いところからそう声を掛けられた。
「ありがとう」
 小中高と習字書道を習っていた身としては変に謙遜をすることでもないと感じて、素直を謝意を伝えて黒板消しを黒板に滑らせていく。先生の書いた公式や設問、それにクラスメイトが答えた数式も消しながら、一向に自席に戻らない声の主を振り返った。
「どうしたの?」
「……いや、なんでもあらへん」
 声の主──北信介は、普段視界に入る時と全く変わらない表情で踵を返した。伸びた背筋、シワのない制服、引き締まった体躯。改めて後ろから眺めてみるとさすが北だなと感じる。それにしても今のは一体なんだったのか。よくわからないけど知りたいわけでもなかったから、気を取り直して黒板消しを上から下へと動かした時、ふと疑問が浮かんだ。
 数学の授業だった。私が書いたのは数式だけ。数字と記号だけで、「字が綺麗」なんて思うだろうか。黒板の文字を消し終わって黒板消しを置いたその体勢のまま、少し考える。北のことなんて私が知るはずもなく、考えたところで答えはまったく出ない。

「箸ちゃんと使うんやなあ」
 ざわめく教室内で、ついさっきまで視界にすら入っていなかったはずの北が再び私の頭上からその低い声を降らせた。ほんの少し前まではささやかなざわめきに包まれていたはずの教室は、部活を引退したクラスメイトたちによって随分と賑やかになった。その賑やかな中に北は入っていないけれど、人口密度を高めている一人ではある。
「………ありがとう」
 向き合ってお弁当をつついていた友人の目線が、私の手元と自分の手元を見比べているのが視界に入った。
 北を見上げて息を吸い込む。
「あのさ、さっきもそうやけど、」
「バレー終わったら話しかけてみよ思うとった」
 感情がいまいち読み取れない表情で、北は真っ直ぐに私を見下ろしている。見つめられる眼差しに負けて、視線を落とす。ちらりと窺った友人の表情はわかりやすく、口角が上がるのを堪えている。
「なん、私なんかした?」
 一言目が裏返って、顔が熱くなる。北の指先が机の端に触れた。
「一つずつちゃんとしよ思て」
 見あげられないまま、つい今褒められたばかりの箸使いで唐揚げをつまんでみる。
「………そんな、字ぃも箸もそんなふうに言って貰えることやない」
「……なんでや。字ぃも箸も、ちゃんとやってきた結果やろ。やってきた本人が"そんなこと"なんて言わんといてくれ」
 これまで聞いたことのないような、切なさを帯びた声だった。
「あ、ちゃう、私は北を否定したいわけやない」
「知っとる。わかっとる」
 習字、書道を習うのは楽しかった。箸使いは家庭の方針でかなり厳しく躾られた。どちらも別に悪い思い出はないけれど、生きていくにはあまりにもささやかだと思う。例えば受験や就職だって、『バレーで全国大会に行きました』とは言えても、『字がそこそこきれいです。箸も正しく使えます』とは言えない。セールスポイントにはならないだろう。
「日常的な動作をちゃんとするのは、案外と難しくて、それこそが大切やと思う」
 部活のない日には日直でもないのに黒板を拭いて、花瓶の水を取り替える北が言葉を選んで言う。
 いつの間にか大人しくなっていた教室で、北が小さく息を吸い込む気配を感じた。
「なあ、今日一緒にいなれへんか?」
 短く切り揃えられた清潔な爪を辿って視線を上げる。とうとう視線がぶつかった瞬間、思わず口元がゆるんでしまった。
「北も、赤くなるんやな」
「………当たり前や」
 視界に入る面々が気配を消そうと口を噤んで、チラチラとこちらを窺っている。客観的に見れば恥ずかしいシチュエーションなのに、不思議と気持ちは穏やかだ。
「………ええよ、でも私、今日日直やから」
「手伝うわ」
 即答した北が口元をほんの少し綻ばせて、それから目を細めた。
「そ、そんなら、またあとで」
「あとでな」
 伸びた背中が遠ざかる。ちゃんとアイロンされたブレザー、ゆるんでいない袖口のボタン、短い襟足、そして、──友人たちの輪の中に戻ってから強く握った右手。
「なまえ、なんで今になって顔赤くしとるんよ」
「だって、いま」
「ガッツポーズやん。見たらわかる」
「そん、そんなん私もわかるわ」
「あんた鈍すぎやで。今まで自由に班作るいうた時だって、北絶対うちらのとこ来てたやんか」
「………ええ?」
「うわ、北カワイソー」
 今更、本当に今更心臓がうるさくなって、顔中が熱くなって、とうとう箸を置いてしまった。
「い、いつから」
「それは知らん。聞いてみたらええやんか」
 ちゃんとした人、しっかりしてる人、バレーに打ち込んでた人、後輩に一目置かれてる人、そして意外と、感情を表に出す素直な人。
 お弁当箱に残った昼食から視線を上げて、北が戻って行った先をちらと見る。偶然合ってしまった目の先で、北が照れくさそうに笑った。


運命の人




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