「私たちが着ているのは、制服という名前の喪服ね」
 汚らしく虫に食われ腐り始めた葉が残るだけの木々を前に、彼女は至極明るい表情で言った。夕暮れの空は水で薄めた橙とくすんだ青の淡いグラデーションで出来ている。ただ落ちていくばかりの太陽の周りだけが強烈なエネルギーを放って、それ以外は酷く冷たく、底なしに穏やかだった。
「………」
 なにを言えばいいのかわからない棘が、自分の手の、短くて平べったい爪を弄る。靴を履いていてもなお、じんじんと爪先が冷え、痺れるような感覚に陥った。
「狗巻くんは、人を殺したことある?」
 もしも彼女に人を殺めた過去があったとしても、棘は決して責めたりはしないだろう。棘が一度短い息を吐いて、意を決したように顔を上げた。そして顔を上げた先の光景に、思わず唾を飲んだ。
 高専敷地内の、その端に立つ彼女の背後には雄大な山々が連なり、見事に彩色をなくした美しいセピアが広がっている。それらを包む切ない色のグラデーションは段々と黒や藍を混ぜたように暗くなるばかりで、そこにぽかりと、まるでブラックホールのように、黒ずくめの彼女が佇んでいる。血色の良さそうな唇の色だけが、加工された写真のように鮮やかに、瑞々しい季節の花弁を思わせた。
「おかか……?」
 直接手を下したことはない。当たり前のことでもある。でも、間接的に殺したことはある。たぶん。棘はそんなふうに考えをめぐらせた。彼女の問いは、おそらくそんなことは聞いてはいなかっただろう。それでも棘は、疑問形の、曖昧な返事をかろうじて口にした。冷たい風が彼女のスカートをめくる。棘は真っ赤になって、目を逸らした。
「狗巻くんが、」
 彼女がそう口にして言い淀む。眼前の山々のもの寂しさに、その先の言葉を失ってしまったかのように。髪の毛をさらう風によって、そのきれいな首筋が露になる。棘は、いつか繋いだはずの彼女の手に目線をやり、それから自分の両手をいのる形に握った。
「……狗巻家は、術師をなくしていこうとする家系」
 誰に言うでもなく自分に言い聞かせる響きの彼女の言葉が、山々に、木々に吸い込まれて跡形もなくあっさりと消える。
 いつか繋いだ手、いつか合わせた唇、いつか、肩が触れ合う距離で歩いた隣。呪言を持ち、人と心からの関わりができなかった棘は、当たり前のように呪術師に恋をした。そして彼女もまた、少しイタズラで根が明るくて、優しい棘の想いに応えた。たった二ヶ月の間を恋人として過ごした二人は、今日、人生で初めての失恋をしようとしている。
「ずっと一緒にいられたらよかったのに」
 十代の男女の言う「ずっと」が、世間から見ればほんの数ヶ月くらいだと見られることも知っている。実際にはその程度で終わることであっても、当事者にとってそのたった数ヶ月は、世間にとっての数年にも匹敵する。それでなくともこの二人は、日々肉体的にも心理的にも今日が最期の日かもしれないと思いながら戦って生きているのだ。
「お、おかか、こんぶ、高菜、」
 棘が必死に取り直そうと、最後の足掻きを口にした。失恋したくないのは、二人とも。けれど、覚悟を決めたのは彼女だけ。「もう少し二人で、これからのことを考えよう」棘のそんな切実な言葉に、彼女は目を細めて柔らかく微笑んだ。
「いつ死ぬかわからない私には、約束が必要なの」
 将来は結婚しようね、などという幼い約束ではない。ただ今日も明日も明後日も、恋人として存在を確かめあって、笑って、手を繋いで、まっすぐに目を見て向かい合うことが当たり前のような、そんなささやかな約束の話だ。いつ死ぬかわからないのは棘も同じで、だからこそ手放し難くて、足を踏み出す。薄汚れた靴の先で、乾いた葉が嫌な音を立てた。
「棘もいつか、幸せになるといいね」
 伸ばした手が触れる前に、彼女がそう言って笑った。その表情はたぶん、泣いていた。

・ ・ ・

「棘」
 教室で、机に肘をついて窓の外を見下ろしていた棘は、扉の方から呼びかけた五条には一切視線を寄越さない。任務から帰ってくるはずの彼女を待って、じっと校舎の入口の方を見ている。本当は昨日帰ってくるはずだった。メッセージアプリで送信した「もう一度話そう」というメッセージには、まだ既読マークが付いていない。
 結局あの時、棘は彼女に触れることが出来なかった。笑った彼女を抱きしめたかったのに、体が動かなかった。泣いたように笑った彼女があんまりにも美しくて、棘の目の奥も痛くなった。そのことを後悔しながら、次に会ったらもう一度彼女の手を握ることを願っている。
 『人を殺したことがあるか』と彼女は問うた。あの言葉はもしかしたら、棘に障壁を排除できるかどうかを問うていたのではなかったか。その答え合わせもしなくてはならない。一緒にいることを選ぶために、一つ一つ解きほぐしていかなければいけないことがある。それでも、その答えは棘には出せないでいる。やっぱり、覚悟がないままだ。
「棘〜!」
 今度、五条が声を張った。弾かれたように、棘が顔を上げて声のした方に顔を向けた。視界に入るはずの真希と憂太、パンダの表情なんて、棘の目には映らなかった。五条が棘に手招きする。棘は少し面倒くさそうに席を立って、教室から出た。
「端的に言うよ」
 五条の目は隠されたままで見えない。いつ帰ってくるかわからない、まだ恋人だと信じる彼女の戻ってくるのを一番に迎えたい棘が、気もそぞろに先を促す。
「………今朝、なまえが死んだ」
「……………こんぶ?」
 言われたことが理解できない表情で、棘がとぼけた表情を見せた。『なに?』と口にして、それから棘の表情から温度が消えていく。
「……棘のせいじゃない。なまえを殺した呪霊は今夜俺が始末しに行く」
 五条にしては珍しく、それ以上のことは何も言わなかった。何も言わず、ただ棘の頭にその手のひらを載せた。
『私たちが着ているのは、制服という名前の喪服ね』そう言った彼女は、だから失恋の場には相応しいでしょ、と呟いていた。任務もなく授業も終わった夕方、棘にも制服を着るようメッセージを送ってきた彼女の気持ちなんて、棘にはほとんどわからなかった。
 家系から呪術師をなくしていこうとする狗巻家としては、やはり呪術師が生まれる可能性が高まる相手との交際は、いい顔をしなかった。彼女との交際が短い期間で終わったとしても、「将来も呪術師と生きていきたい」と棘が考えてしまうことを危惧していたのだろう。棘の呪言を使ってしまえば表向きには解決したはずだが、棘は棘なりに彼女のことを大切にしていたから、正攻法を選ぼうとした。彼女がそれを望んでいたのか、そんなことすら聞くことが出来なかった棘が、ネックウォーマーの内側で唇を噛んだ。
 彼女が命を落とすほどの呪霊だったのか。割り振りを間違えたのか。それとも、彼女が集中力を切らせる何かがあったのか。そうだとしたら、それは───
「棘、棘は間違えてない」
 何も言わず、体が動作をやめてしまった棘に、五条が珍しく、ほんの少しだけ焦ったように付け足した。
 約束することすらできなかった二人。遺されてしまった棘は、喪服を着たまま、ぼんやりとまた、窓の方へと視線をやった。ようやく視界に入ったクラスメイトの表情は一様に沈痛で、棘の口元は、無意識に、自嘲気味に弧を描いた。悪い冗談であることを僅かでも期待していたのに、あっさりと、その期待は音を立てて崩れてしまった。もう一度、あの時と同じように両手をいのる形に握る。どうか嘘であってほしい、祈っても祈っても応えてはくれない神様に、信じてもいないのに涙がこぼれた。足が意識せず細かく震える。

 確かに恋をしていた──しているはずの、いつ死ぬかもわからない恋人に、たった一つの約束もあげられなかった男が、とうとう高専の無機質な廊下に崩れ落ちた。

 これは、恋という呪いの話である。



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アンソロに提出するかどうか迷ってボツにした話です。




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