夏の夜が好きだ。
 夏の予感を抱きながら、短い梅雨を見送った。山々の中で際立つ、湿った空気の匂いと土の匂い、そして緑葉の匂い。虫の音のうるささには慣れている。高専に入るために上京してきた私には、懐かしさばかりのけたたましさだ。足りないのは、知らない家から漂ってくるおいしそうな匂いくらいか。
 窓を開け、網戸から部屋に入り込む涼風に前髪を揺らしながら、小さなローテーブルに肘をついた。部屋の隅に設置した羽のない扇風機が唸り声を上げている。梅雨を過ぎてようやく開け放てるようになった窓の外は、いつもの同じ時間より随分と明るい。みんなの部屋はそろそろ、クーラーをつけて快適な温度の中、汗とは無縁な時間を過ごし始めているだろう。

「しゃけ〜」
 扇風機の音と虫の音と、それから窓の外の風の音、木々や葉がぶつかる音、それらに混じって聞こえた声に、のそりと体を起こした。視線だけで扉を見る。田舎出身、そのまま入寮した身としては、未だに扉に鍵をかけるという動作にピンと来ていない。
「開いてるよ〜!」
 あらゆる音に負けないよう、なるべく声を張った。もう何度か繰り返したはずのやり取りなのに、棘は毎回扉の向こうから声をかけてくる。まったく、律儀な男だ。
「……おかか」
 扉を開けて部屋に入ってきた棘が、またいつも通りの私の責める眼差しで小さく抗議した。鍵を閉めろと棘は毎回私を叱る。高専関係者しかいない敷地の中の、更に高専生しかいない寮にあっても、みんなはきちんと鍵を閉めているのだろうか。聞いて回ったことがないからわからない。でも確かに、棘の部屋の扉はいつも施錠されていそうだ。
「だいじょぶだよ。鍵くらい」
 室内に大層な貴重品があるわけでなし、部屋に入ってきた棘は片手にお弁当のパックをふたつ積んで、たった今まで私がだらだらしていたローテーブルの上にそれらを載せた。
「……おかか」
 棘はいつもと同じようにダメだよと言う。理由は一度も言ったことがない。
「棘どっち食べるの」
 そんな忠告をまたいつも通り無視して、ふたつ並んだお弁当を指さした。棘とツーマンセルの任務を終え、棘が帰路の途中で「夕飯買って戻るから先帰ってて」と踵を返してから、約一時間が経過していた。時計は現在18:00を少し過ぎたあたりだ。
「しゃけ」
 棘がハンバーグ弁当を指さす。自動的にもうひとつの唐揚げ弁当が私のものになった。きっと棘はハンバーグを一切れこっちにくれる。私が何か言う前に、唐揚げをひとつ奪っていくんだろう。
「お味噌汁飲む?インスタントだけど」
「しゃけ!」
 棘が備え付けの洗面台に向かうのを見届けてから、簡易キッチンへと足を進める。電気ケトルに水を注いでスイッチを入れ、汁椀なんて気の利いたものは持ってないからマグカップにインスタント味噌汁の元を絞り出した。手を洗い終えた棘がローテーブルの前に座ってお弁当のプラスチック製のフタを外すのを、マグカップをふたつ手に持ちながら眺めた。
「………そういえば今日ってみんな任務だっけ」
「しゃけ」
 そうだ、だから棘はお弁当を買ってきたんだった。夏を間近にした日中の任務のせいで、思考がぼんやりしている。通りで寮内が静かなんだ。
「……こんぶ?」
「ん?ああ、ごめん」
 棘に声をかけられてようやく、お湯が沸いていることを知った。マグカップを二つローテーブルに置いて、ケトルを持って傾ける。お湯を注がれたマグカップから白い湯気が立ち、味噌の匂いが立ち上る。棘は既にハンバーグ弁当に手をつけている。
「はい」
「ツナマヨ〜」
「どういたしまして。私も、お弁当ありがと」
 ハンバーグ弁当は、やっぱりハンバーグが一切れ分よけられている。それだけの事にほんの少しだけ愉快な気分になった。
「いただきます」
 唐揚げ弁当のフタを開けるなり横から視界に入ってきた箸の先を咎めたりせず、割った割り箸でマグカップの中をかき混ぜる。棘が唐揚げをひとつ奪って、代わりにハンバーグを一切れ、唐揚げの隣に置いた。
 棘とツーマンセルの任務があった夜はこうして二人で夕食を摂ることがある。みんながいれば食堂で、誰もいなければ棘か私、どちらかの部屋で。明確に示し合わせたわけではないけど、いつからかそれが当たり前になった。
 貰ったハンバーグを口を放り込んで噛みながら、ぼんやりと窓の外に視線をやった。外の色はまだ明るい。随分と日が長くなった。
「棘はさあ、静かなのと賑やかなの、どっちが好き?」
「しゃけ〜?」
 私は田舎の賑やかさを嫌っていた。常にまとわりついて離れない人の気配を疎んでいたし、絶え間なく鳴き続ける虫の声に耳を塞ぎたかった。そのはずだった。けれど今はどうだろう。山の匂い、虫の音、人の気配、それが懐かしくて恋しくて、こうして窓を開けている。
「……早くみんな帰ってこないかな」
「……ツナマヨ」
 戻りたいわけではない場所に向けての郷愁が胸を突く。まだまだ明るい窓の外からは、人の活動の音はしない。

「高菜、明太子」
 お弁当を食べ終え、空いたマグカップふたつを洗う棘が、こっちを見ずに言った。「もう少しここにいるよ」と、それだけ。許可を取る響きは全くない、ただの独り言のように。
「うん」
 オーバーサイズの白いTシャツに黒いジャージ、そして口元をすっぽりと隠すネックウォーマーという出で立ちの棘を後ろから眺めながら、そっと立って窓に手を掛けた。サッシを滑らせて窓を閉める。棘が小さなシンクの蛇口を止めた。
「おかか?」
「エアコンつけるよ。首、暑そうだから」
 机の上に置きっぱなしのエアコンのリモコンを手に取って、行儀悪く足で扇風機のスイッチを切った。望まなくとも一斉に入ったエアコン清掃のお陰で、リモコンを操作したらすぐに涼やかな風が、静かに室内へと流れてきた。
 棘がタオルで手を拭いてから、リモコンを持ったままエアコンを見上げていた私の元までやってくる。手に持っていたリモコンを奪った、大きくてゴツゴツした手がなにやら操作して、そしてエアコンが再び沈黙した。
「棘?」
 棘は何も言わずに、目だけで笑った。それから身をかがめて扇風機のスイッチを入れ、窓を開けた。
「……暑くないの?」
 窓から吹き込む夏の風を受けながら、棘が私を振り返る。そしてネックウォーマーに手をかけると、それを呆気なく取り払った。普段頑なに外さないそれを乱暴にジャージのポケットに捻りこんだ棘が、今度は口元だけで不敵に笑う。
 一体棘が何を考えているのかもわからないまま、とりあえず窓の外へと視線をやった。まだ明るい。夏の前とは言っても、こうも明るかっただろうか。
「ねえ棘」
「しゃけ」
「手、繋いでいい?」
「しゃけ」
 付き合ってるわけではなく、ただ同じ場所にいる大切な友人だ。間髪入れずにいいよと言って差し出された手を握った。これは手を繋ぐと言うより握手だな、と思う。
「やだな。ホームシックなんて無縁だと思ってた」
 入学してからこっち、色んなことがありすぎてホームシックなんて感じることなく一年が過ぎた。二年目の夏を目前にしてようやく自覚した寂しさに、棘の手を握る力が強くなる。棘もまた、強く、手を握り返してくれる。
「みんなが帰ってくるまで、もう少し繋いでて」
「しゃけ」
 夏の音だけの部屋で、棘が見たことのないくらい優しい微笑みを浮かべて頷いた。


夏に至る日




×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -