思い返せば虚像ばかりに囲まれて生きてきた。六眼に、無下限術に、“五条”に、あるいはその全てに媚びへつらう大人を、妙に冷めた気分で見渡していた。張り付いた不気味な笑みを絶やさずに、俺の眼前で気色の悪いどろどろの声を垂れ流し続ける呪術界の誰々さん。稀な特異性を持って生まれてきたが故に、なんでも思い通りになっていく家の中。全員がさしたる抵抗もなく、陰気で辛気臭い畳に指をついているその無様。俺はいつからか、あれしろこれしろと無理難題を吹っかけるのにも飽きた。“我儘なガキ” “だけど” “仕方なく言うことを聞いてやる”と思われることに嫌気が差して、それらを利用して武器にしてやろうとは思えなかった、本当の意味でのガキだった。

「よう、お邪魔するよ」
 そんな日々が少しズレた日のことだ。その日のことは今でも思い出せる。その後呪術高専でほぼ初めてちゃんと対等に扱って、扱ってもらえる──そればかりでは収まらない同級生に出会えたわけだが、その頃の俺は何しろ毎日常にうんざりしていた。そんなところに突然現れたその女のことが印象に残るのは、あまりにも必然のことだろう。
 その女の風貌はあまりにもその場に似つかわしくなかった。連綿と続くつまらない古い家だ。そこにいる人間たちも古めかしく、例えば普段から窮屈極まりない着物を着ているだとか、出来うる限り静かに、穏やかに努めようとする面白みのない人間性だとか。けれどその女は明らかに異質な出で立ちで、家の人間たちはわかりやすく眉を顰めた。
「……あんた誰」
「五条の次期当主のご尊顔を拝謁しに来ただけの赤の他人だよ」
 ぽいと投げられた端的な物言いは、それまで俺を取り巻いていた言葉とは違って、すとんと理解できた。何しろ普段俺を取り巻いているのは、真綿で幾重にも包んだ、その実遅効性の毒物のような物言いばかりだ。
 当時の俺は明確な善悪の判断基準を持たなかった。俺のする事なす事全てが大体思いのままだったから、善悪の基準どころか善悪の区別すら、他の人間とは隔絶していたのだ。
「じゃあ目的は達成されたわけだ」
 物言いは気に入った。けれど内容は気に食わない。結局どいつもこいつも、この女の目的と同じことを婉曲に唇に載せているだけのこと。最初に感じた興味深さをすっかりと追いやって、俺は吐き捨てるように顔を背けた。
「それで? 君は嘘っぱちのAV鑑賞か」
 しかし女は部屋を出ていくことはなかった。それどころか、古びた家の一室、俺の部屋にズカズカと素足で入り込んできて、馬鹿でかいモニターに一瞥をくれると奇妙な含み笑いでこっちを見やった。
 古さだけがとりえの部屋だ。畳を見たくなくて張り替えさせたフローリングの上には、所狭しとあらゆる物が散らばっている。しきたりだとか規律だとかに縛られたくないというそれだけの心情がまざまざと現れている室内では、ちぐはぐなインテリアと、部屋の主のプロファイリングが困難を極めるだろうコレクションとは言えないガラクタが散らばっている。
 家の人間たちには部屋に勝手に入るなときつく言いつけてあるが、この女は一体どうだ。再び無駄にでかいモニター画面に映し出される女の痴態を視界に入れて、面白そうに口角を上げるだけだ。
「何しろ普段から虚像ばっかに囲まれてるからさ」
 ガキらしく言葉を吐き捨てた瞬間に細められた女の目に、思わず、無意識に視線を逸らした。蔑むような、けれど好奇を目いっぱいに詰め込んだ眼差しを向けられて、座ったままのケツあたりが僅かに浮いた。浮いたものの、反射的に立ち上がったとしても、何もできない。それくらいはわかっているから、自分の体を制止して、大袈裟に息を吐く。
「リアルには興味がないのか」
 女の喉がくつくつと鳴った。乾いた笑いが部屋中に響く。その嘲笑めいた響きの後ろに、スピーカーから流れ出るわざとらしい泣き声めいた嬌声が、そろそろピークにさしかかろうとしている。
「呪霊のグロテスクも人が死ぬグロテスクも見飽きてんだよ」
「なるほどね。虚構は君の心を傷つけるに値しないはずなのに、実際は傷つけられてるってことか」
 知ったような口振りで言い放った女は、俺の方を見ずにモニターを見下ろして腕を組んだ。「男はこういうのがいいものなのかぁ」と興味深げに、呆れたように小さく零し小首を傾げた女の様を、つま先から頭のてっぺんまで、目線だけでなぞる。モニターに映る女優は作り物の如く美しい体躯をしているが、目の前の女は確かに、"リアル"な体型に思える。
「ははっ……、なあ、そんじゃアンタが女の体のグロテスクを教えてくれよ」
 女の髪の毛がひと房揺れた。爪の形は美しい女が、そのつやつやした指先で、揺れた髪のひと房を耳にかけ直す。改めてあらわになった首筋に、奥歯を噛んだ。
「君がいつか、何かを失った時に」
「は?」
「その時にまた会ったら、慰めてあげるよ」
 目の前にいる女の心情の変遷すらわからなかった頃の俺は、やはりその言葉と、困ったように片眉を下げた意味も、さっきよりまろやかに柔らかくなった声音の意味もわからなかった。
「私はもっと直截に口説かれる方が好みなの」
 打って変わって嬉しそうに笑んだ女が、「目的は達成したことだし、今日はこの辺でお暇しようかな」などと言うものだから、うっかり片膝を立てて、黒いワンピースの裾を握ったのが運の尽きだったのだろう。
 女の手が俺の手に触れ、指を撫で、爪をなぞり、「爪は手入れした方がいいよ」と言われた瞬間に、その一連の動作に、情けなく股間の辺りが張り詰めた。女の視線がそこに注がれ、俺の状態に察しはついたはずなのに、ゆっくりと裾を握る俺の指を一本ずつ解いて、そしてその素足はまた躊躇いなく引き戸の方へと向かった。
「………マジであんた何しに来たんだよ」
「五条の次期当主を見に来ただけだってば」
 引き戸に手をかけた女が振り向いて、感情が読み取れない笑みを投げてくる。俺は、何を言えば、なにをすれば女が部屋に留まるのか、やっぱりわからなかった。


"高専入学おめでとう"
 その朝、慌ただしく高専に入る身の元に一通のメッセージカードが届いた。部屋をガキらしく荒らしていた頃をすっかり追いやって、物がなくなり今度は人の気配のしない部屋だ。ほかになにか書かれてはいないのかと、矯(た)めつ眇(すが)めつ眺めてみても、その簡潔な一文しか見当たらない。あまりにも素っ気ない白いカードを、そこらに放り投げた。
「………クソ」
 善も悪も知らない。知る必要は無い。世界はたぶん俺の思い通りだ。
──それでも、一つだけ知って、守っていることはある。手を揃えて、短く切りそろえた爪を十、端から端まで眺めて、そして思わず舌を鳴らした。きっともう会うことはない。だって、俺はきっと何も失わないし、失ったところで、慰めを必要とするほど自分にとってかけがえのないものなんか、手中に収めるはずがない。ため息一つ、俺はそうして、黒い制服を身につけて家を出た。 

 これは、俺が──僕が、ガキらしいガキだった頃の、昔の話。


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皆さん矯(た)めつ眇(すが)めつって読める?私は平仮名で覚えてて読めなかった。でもこれしかここで使いたい表現が出てこなかった。無念。



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