恋人とキスをした事がない。

 恋心を自覚したのはなんでもない日々の合間だった。いつの間にか明るい色の頭を探し、話す時にちょっとだけ声が上ずって早口になって、聞いて欲しいことと聞きたいことがあふれてしまうようになって、よく目が合うようになって、それらを真希に指摘された。そうしてようやく恋心を自覚した私は坂道を転がるように、狗巻くんの手中に落ちた。

「こんぶ?」
「あっ、は、はい!」
 付き合って二ヶ月が経った。二ヶ月という期間がキスをするのに早いのか遅いのか、何しろ初めての恋人だからわからずにいる。けれど、声量を抑えるために頑なに口元を晒さない恋人の、その唇を夢想してしまうのは私がおかしいからなのか。
 “どうしたの?”と訊ねてきた狗巻くんは、私がちょっと焦っているのを見て、心底不思議そうな眼差しで小首を傾げた。その様がかわいくて、どうしようもなく心臓がきゅんとしてしまう。
「……高菜」
 長い襟の内側から、こもったため息が聞こえた。キスしたいなんてまさか言えるはずもなく、今日も私たちは高専の敷地で二人並んでいる。春の日和の中で、花の終わった桜の木が見える位置。そのベンチが私たちのひと時の憩いの場だ。付き合うことになったのもここだったし、手を繋いだのも、ここだった。

 綺麗な目をくりくりさせて私を見つめる狗巻くんだけど、一度だけ、私に向かって眉間に皺を寄せたことがある。そう、それが、私が狗巻くんにいわゆる愛の告白をした時のこと。
「私、狗巻くんのこと好きみたい、なんですが!」と、やっぱり声が上ずった。
「……おかか」と返す狗巻くんは、眉間に皺を寄せ、その声は確かに私を責める響きだった。──曰く、「遅いよ」と。
 つまるところ、その場でようやく聞いたところによると、狗巻くんは私よりも前から自分の気持ちを自覚して、更にささやかな攻勢に出ていたらしい。よく目が合っていたのは私ばかりが狗巻くんを見ていたからではなく、聞いて欲しいことが溢れてしまったのは狗巻くんが話を促していたからだったということだ。
「それなら狗巻くんから言ってよ!」と、騙された気持ちでいっぱいになって、半ば怒鳴るように言ってしまった私に対して、狗巻くんはスマホに文字を打ち込んでずいっとその画面を見せてくれた。
『好きになって欲しかった』その文字列を見てしまったらもう何も言い返せないのは仕方ないと思う。結局その場で、狗巻くんは目だけでニコニコして、私の手を優しく握った。

「……こんぶ!」
 ベンチに二人並んで春風と春陽を享受していたけれど、狗巻くんはとうとう痺れを切らしてしまった。それもそうだ。隣に座る恋人が、自分の方をチラチラと伺いながら何も言わず、自分の呼び掛けにも返事をしないのだから。
「ご、めん!」
 そうしている間にも、二人の間では手が繋がれたまま。それなのに、キスどころか、私は狗巻くんの唇すらまともに見たことがない。強く呼びかけられて思わず顔を上げてしまったその視線は、無意識に狗巻くんの口元あたりへと注がれて、瞬間的に顔ごと背ける──はずだった。そうできなかったのは、狗巻くんの両手が私の顔を挟んで、固定したからだ。つい今まで繋いでいた手を春風が撫でて、ちょっと冷えてさみしい気持ちになる。それでも狗巻くんは至極真剣な眼差しで、尚も私を咎めている。
「ごめんね、ちょっと、ぼんやりしちゃった」
 顔を挟まれたまま喋るのは、ちょっと難しくてだいぶ恥ずかしい。ともすれば、──このままキスされてもいい場面だ。綺麗な色の瞳に自分の縁どりが映っている。照れて恥ずかしいのに、その目を見ているとなんだか目を瞑るのが正解な気分になってしまう。
「いくら〜」
 目を瞑ってしまうまさにその瞬間、狗巻くんの左手の人差し指が、私の唇を突っついた。当然目を瞑るタイミングを失って、私はただ目の前の狗巻くんと、その指先の行方を見つめるばかりだ。顔にどんどん熱が集まって、口から火を吹けるんじゃないかとすら思う。狗巻くんはいま、“かわいい”と言ったのだから、それもまた当たり前だろう。
「い、いぬまきくん」
 目の前の狗巻くんは、襟の前で人差し指を立てた。内側のその唇が笑んでいるのかすらわからない。どんな意味を持つジェスチャーなのかわからないまま、私の手は再び狗巻くんに握られた。
 そこでようやく、思い至った。もしかしてこの人、キスも私からさせる気では?

 ぜったいにキスはそっちからしてもらうからね、と心の中で意気込んで、結局私は今日も、この憎らしくて愛おしい人の唇を、横目にちらちら睨むばかり。




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