「伏黒甚爾、死んだってな」
 唐突に背後から投げてきたのは、次期ご当主と考えられている禪院直哉その人だった。
 辛気臭い古びた日本家屋の、厚い屋根瓦を叩く雨の音が殊更大きく響く。障子が時折揺れて、ガタガタと音を立てる。以前は美しく整えられていた無駄に広い中庭からは、むわりと立ち込める土の香りばかりが漂う。日本家屋特有の薄暗さをそのままに、畳張りの一室で体ごと声の主を振り返った。
「それがどうかされました?」
 権力により存在意義を誇示し続けるこの人は、そのためだけに庭師を呼びつけるのに厭いはないはずだ。それでもここしばらくは随分と── 何かの焦燥がそうさせるのか、自分を取り巻くものへ目を配らなくなってきた。
 できる限り抑えた抑揚の声で直哉さんに応えた私の視界の中、結ばれた唇の端が歪むのと、片眉がさもおかしげに上がったのは、ほぼ同時だった。
「……そうや、そうやったな。そんなことは瑣末やった。悪い、堪忍な」
 直哉さんは、その表情にまざまざと安堵を浮かべながら、断りなく私の部屋に足を踏み入れた。無遠慮に畳を踏み込むその白い足袋の張り詰めたさまを視界に収め、視線を上げる。穏やかで、陰気で、愉しげな笑みを浮かべたままの直哉さんが、私が読んでいた文庫本を片手で奪い取って放り投げる。乱暴に扱われた本が、背後で嫌な音を立てた。
 笑みを取り繕ったままの直哉さんの髪の毛は、この陰気な日本家屋に似つかわしくなく輝いている。女に古風を求めるくせに自分自身はその型に嵌るつもりのない勝手さを振りまきながら、私の目の前でリラックスしたふうに腕を組んだ。
「聞けばその死に様は無様なもんやったらしいで。まさしくクズの本懐や」
 その目が室内をちらと見遣り、次いでまた私を見下ろす。その瞬間に何が望まれているのかを察知して、座布団を一枚、私の向かいに収めた。満足げに口角を上げた直哉さんが、ごく当たり前と言ったふうにその座布団に腰を下ろして「なあ、お前もそう思うやろ」とわざとらしい笑い声をひとつか二つ撒く。
「ふふ」
「………何がおもろい」
「クズの本懐だなんて、……直哉さんはおわかりにならないでしょうね」
「そないにおもろいことがあるんなら、俺にも教えてもらいたいもんやなぁ」
 無理やりに絞り出したであろう甘い甘い声が、湿気を含んだ室内に漂った。
「── 元より、クズに本懐なんてものはありませんもの」
 うつくしい顔立ちの黒い眼がまんまると、ささやかな驚きに見開かれたその後、直哉さんは顔をゆがめてまた可笑しそうに声を上げて笑った。染めた金髪の毛先が揺れている。くつくつと喉を鳴らしながら、直哉さんが顎を私に小さくしゃくる。私はまたその意図を汲み取って、手際よく、なるべく急いでお茶をいれて差し出した。
「そうやなぁ。ほんまに、お前の言う通りや。考え違いしとったな」
 次期ご当主には相応しくない、見るからに安物の薄い陶器の湯のみを手に、直哉さんが形の良い唇を尚も歪めて無理やりに笑っている。
「どちらにせよ、地獄への道行きにでさえもう会うことはないひとです」
「そらそうや」
 お茶をゆっくりと一口か二口啜った喉仏がゆっくりと上下したかと思えば、直哉さんは湯のみを畳に置いてさっさと立ち上がった。もう用はないのだろう。まるで幼子が、慕う母に自分のちっぽけな宝物を見せるような行動だ。それを知っているから、私はこの傲岸で不遜で性悪な男を憎めず、いっそ愛おしく思ってしまう。知られればきっとこの人は、「馬鹿にするな」と美しいお顔を歪めて唾でも吐いてしまいそうだ。賢しく黙って、望まれるままに微笑む私に一瞥を寄越し、そうして直哉さんは来た時と同じふうに──この部屋もこの部屋の人間も全てが自分のものだと知っているふうに、部屋をさっさと後にした。
 後に残されたのは直哉さんの為に差し出した座布団と、まだ湯気の立ちのぼる湯のみと、湯のみが影を落とす畳、それから、畳の上で無惨な形で沈黙する文庫本と、言いつけられたとおりに身につけた着物姿の私だけ。自分以外を見下していないと自分の形を確かめられない幼稚な男は、常に自分を肯定する女を傍に置きたがる。

 畳の上の湯のみを持ち上げ、直哉さんが唇をつけたその縁に唇を重ねた。あなたの道行きにあの人はいないし、私も、おそらく誰もいやしないこと、気づいていないのは一体誰やら。お茶を一口飲み下した自分の唇が、嫌に孤を描いている。私が最期までお供する気があるのかないのか、彼はきっと考えたこともない。いつかそれを告げた瞬間、私はきっと直哉さんのことを今まで一番愛おしく思うだろう。




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