高専に入学し、寮に入って三年が経った。見慣れた山々と鬱蒼と繁った木々、がらんどうの古めかしい模造の建造物。平和でつまらない日常からあからさまに隔絶された居場所だ。いつでも隔世の感を禁じ得ないこの場所に、血を見ることに、血を流すことに、── 人があっけなく死ぬことに、慣れていく。そんな三年目が始まっている。

 山々を吹き抜けてくる風はいつも湿気を帯びている。呪術高等専門学校の校舎、その地上を見下ろす一室から、地上を楽しげに走り回って級友を投げたり長物を振り回したりする一学年下の後輩たちを眺めている。窓から無遠慮に入り込む青臭い風が前髪を揺らす中、外の喧騒だけは私が過去に熱望した一般的な人の営みを感じさせる。
「しゃけ〜!」
 校舎の窓から見下ろす私の存在に目ざとく気づいた二年生たちが、こちらに向かって腕ごとその手を振ってくれる。どんなでもかわいい後輩だ。開け放した窓枠に腕をついたまま、私も手のひらだけで返事をした。彼らは私が手を振り返したのを確認するや鍛錬に戻った。その姿はあまりにも清々しくていじらしい。思わず長く、大きなため息を吐いた。 
 晴天続きの日々だ。薄青い空に、摘んで引っ張った綿あめのような雲が浮いている。外で体を動かせば容赦なく汗が出る陽気。それでも、私たちは任務とあらば黒を纏う。呪術師の業を背負う、軍服のような制服。闇に紛れるその色は、いつだって私の心をこれでもかと言うくらいに重くさせ、そのくせ残酷なくらい平気な顔をして私たちの身を守る。
「先輩」
 ふ、と背後から響いた低い声に顔を上げた。任務で私以外が出払った、静かな三年の教室。その出入口に気まずそうに佇む白いTシャツの──二年の乙骨が、眉を八の字にして、頬を人差し指で掻いた。
「……訓練中じゃないの?」
「みんなが久々に先輩と手合わせしたいって言うので声をかけに」
「乙骨、じゃんけんにでも負けた?」
 なんとなく愉快な気分になって、彼の方に体を向ける。誰もいない教室で、天気もいいしと電気も点けずにぼんやりと外を眺めていた私を、彼らはどう感じただろう。
「はは……」
 図星ですと言わんばかりの表情の乙骨が、乾いた笑いを漏らして続ける。
「本当は、狗巻君が来るはずだったんです」
「ふうん」
 乙骨の眉が情けない八の字から、私を責めるような形に変化した。その眼差しは確かに私を責めている。もしかしたら本人は責めている気はなくて、私が勝手に── 後ろ暗いから、そう感じてしまうだけなのかもしれない。
「……狗巻君が来たら、先輩は困りましたか?」
「…………………」
 清冽な気配を含む風を肺いっぱいに吸い込んだ。その冷ややかな風を吸う度、風が肌を撫でる度、黒い制服を恨めしく思う。晴れやかな気持ちで過ごす日々を恋しく思っているのに、常に死を感じさせる色合いの制服を毎日毎日身につけている自分自身の矛盾や歯がゆさと、うまく付き合えずにいる。乙骨がじゃんけんに負けたというのは事実なのかもしれないが、この口ぶりからすると立候補した可能性があるなと思い至った。眼差しを乙骨に向けてみたものの、乙骨は当然眼差しの意図なんかには興味がない様子でその唇を開いた。
「先輩、狗巻君の手を離したら、だめですよ」
 咎める声は充分に優しく柔らかく、教室内に響いて消えた。乙骨の制服は皆とは異なる色だ。黒と白、それだけのコントラストは揃いだけれど、白い制服はそれなりに爽やかに、軽やかに見える。どうしようもなく羨ましいのは何故だろう。手を離せなかった辛さも手を離せなかった幸福もよく知る乙骨のその言葉には確かに重さがあって、その目を見れずに視線を逃した。
「……眩しいね」
 横目に盗み見た乙骨が、遠い眼差しで窓の外に視線をやった。正午過ぎの太陽光は、直接はこの教室に射し込まない。物理的な眩しさではないのだと気づいたらしい乙骨が、「狗巻君を呼んできます」と振り絞るように口にした。

 上手に別れ話をできる人間になりたかった。返り血も自分の血も吸ってなおその黒さを失わないこの制服を身につけて、死と隣り合わせなのだということを毎日毎日感じながら生きている。いつか手を離さなければならない時に淋しくて悲しくて切なくて手を離せなくならないように、傷が浅いうちに、きちんと手を離しておきたい。その願いを叶えられる人間でありたかった。
 乙骨は恐らく気づいている。そしてたぶん、狗巻も。心が重いのは、自分に嘘をつきたいからだ。

 乙骨が廊下を駆けていく足音がする。リノリウムの床に、内履きのゴムが擦れて響く。呪術師とは関係のない小学校や中学校でも聞いた音だ。平和で穏やかで、心変わりくらいしか恋人同士を別つことはないであろう世界で聞いた音。
 失うことばかりを恐れてあらゆるものを手放そうとする私には、彼らはずっと眩しい。
「っ高菜……」
 ここしばらく毎日聞いていた低い声の、心配げで不安げな「高菜」に、とうとう観念して椅子から立ち上がった。息を切らせて、肩を上下させて、額から汗を流して私を見つめる年下の恋人がそこにいた。その眼差しはいつでも真っ直ぐで、私は少し居心地が悪い。それでも、どんな時も身につけたままのネックウォーマーが暑そうだったから、少し笑った。
「ごめんね、」
「……おかか」
 まるで私が何を言うのかわかっているように否定の言葉で私をさえぎった恋人が、大股で教室に入ってくる。やはり気づいていたようだ。けれど続く言葉は想像もできないだろう。私たちはきっと、お互いのことを正確には知らない。知りたいから手を繋いだ。そうして過ごしてきた。
「……私、狗巻のことが好きなんだ」
 好きなんだよ、そう口にした私の目の前で、恋人が一度目を見開いて、ほっとしたように薄らと涙の膜を張った目を細めて、二回くらい頷いた。
 例えば私たちが普通の学生で、私がもっとかわいい制服で、恐ろしいものを見ず、制服を血で汚すこともなく、屈託なく笑って恋人の手を繋ぐ日々があったとしたら。そんな夢の話を口にしたら、この恋人はどんな顔をするだろうか。こんな弱気で、失うのが怖いからと距離をとって別れてしまいたいと思ってしまった女の、つまらない夢の話だ。
 そんなことは知らない、口元を隠したままの恋人はそっと私の前に立ちはだかって、その両手を広げてくれた。私なんかよりずっと強くてずっと大人で、ずっと優しい年下の恋人の腕。抱きしめられながらその腕の中にずっといたいと願ってしまう、恋人は知らないままの話。

 別れようというその言葉がどうしても喉から出てこないまま、恋人の腕の中に甘えてしまう。そんな情けない私の話を、この先もこの恋人は知らないままでいて欲しい。


#ワンライに提出したSSを短編用に加筆修正しました。




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