「好き」と言いたかった。「好きになって」と言ってしまいたかった。それでもずっとその言葉を心の内に留めて、彼女の隣でその手に触れ続けている。

「ただいまぁ」
「しゃけ〜」
 高専敷地内の寮、その彼女の部屋で彼女を出迎える。室内に入ったばかりの彼女の体からは冬の匂いがする。"おかえり" と出迎えてから、ルーティーンとして頭のてっぺんからつま先までをチェックする。怪我はないか、ただそれだけを確認するためだ。
「ツナ?」
「あ、これね、呪霊は関係ないの。普通に転んじゃって」
「おかか……」
「お恥ずかしい……」
 彼女の右膝、トレンカに穴があき、そこから少し伝線している。動きやすさを重視してショートパンツタイプにカスタムしたこの制服を見る度に、せっかく呪霊からの攻撃にある程度対応している生地なんだから、もう少し生地面積の広い制服にしてほしいと思ってしまう。けれど彼女はそんな自分の思いなんて全く知らず、毎日この制服を身につける。 
 彼女が上着を脱いでハンガーラックに掛けるのを横目に、備え付けの簡易キッチンでケトルのスイッチを入れた。冬の任務からの帰寮時、自分が決めていることがある。なるべく部屋で出迎えること、そして温かい飲み物を出して、その手に触れること。彼女が好きな紅茶の葉っぱを掬い入れたティーポットにケトルから沸いたばかりのお湯を注ぎながら、彼女が部屋着を片手に室内のシャワールームに入っていく気配を背中で感じる。今日も無事だった。その安堵に息を吐いて、ポットとマグカップをローテーブルの上に運んだ。彼女を呪ってしまうことがないようになるべく外さないネックウォーマーの内側に、吐いた息で湿った熱がこもった。

 自分たちが寮の自室のスペアキーを交換したのは、一ヶ月くらい前のことだった。なにかイベントがあったわけでもなく、ただなんとなく自分の部屋の鍵を持っていてもらおうと、それだけ。賑やかな一年生がみんな出払っていた、誰もいない寮の談話室での一幕だ。春めいた生ぬるい強い風が窓をガタガタと揺らしていた。ちっぽけなテーブルを挟んで、談話室の広さと合わないサイズのテレビ画面を見ながら、二人他愛もない時間を過ごしていた。そんな中で彼女に理由も言わずに「しゃけ」とだけ口にして渡した鍵。彼女は一瞬の間を置いてからそれをつまみ上げてまじまじと眺めたあと、「ちょっと待ってて」と談話室を小走りに出ていった。春の訪れを感じる衣服を身に付けた彼女の、柔らかい素材のスカートの裾が軽やかに揺れた。息を少し弾ませて戻ってきた彼女の手から渡されたのは似た形の鍵だ。自分が鍵を渡した時と同じく、なんの気負いも躊躇いもなく「はい」と渡されたその鍵を、今度は自分も照明に翳して眺めた。こうしてその日、自分たちはお互いの部屋に出入りする権利を与えあった。

「何してたの?」
 部屋着に着替えた彼女がシャワールームから出てきて言う。既にやることはやっているのに、彼女は自分の前で着替えたりはしない。本人は「恥ずかしいから」と言うけど、見えない場所で着替えてる音だけを聞いているこっちの身にもなって欲しい。
「すじこ、いくら」
「動画サイト観てたの?何か面白いのあった?」
「しゃけ」
 柔らかそうな素材の、そのちょっと着古していかにも着やすそうな部屋着の彼女が、ローテーブルの前に座ってマグカップを手に取った。手元のスマホでついさっきまで起動していた動画アプリを起動して手渡す。彼女がそれを受け取り、再生ボタンをタップして、そうしてからようやく安堵するような息を吐いてカップの縁に唇をつけた。

 「好き」と言いたくても言えなかった。「好きになって」と言ってしまいたくても言えずにいる。付き合ってるはずの自分たち二人は、本当に付き合ってるんだろうか。「好き」ともそれを伝えるための語彙も伝えず、たまらずに隣の彼女の手を握ったその時のことを思う。彼女もまた、何も言わずに手を握り返してくれた。目が合って彼女がはにかんだように笑ったから、調子に乗っていちど、触れるだけのキスをした。彼女もそれを拒まずに、目を閉じてくれた。唇が離れても手を繋いだまま、校内の隅で二人並んでいた。触れた肩が熱かった。それが始まり。今になって「付き合ってる?」と聞くのも怖い。そしてものすごく情けない気がする。それでも、現にそれから二人で会う機会は格段に増えて、お互いの部屋で過ごす時間が長くなって、彼女の初めてをたくさんもらった。鍵の交換までした。ちゃんと付き合ってるとは思えるのに、やっぱり「好き」と言えずにいることが引っかかり続けている。同時に、自分は言えないくせに「好き」と言われてないことも。

「今日こっち泊まるの?」
 彼女がごく自然な口振りでそう言い、自分に顔を向ける。マグカップの中の紅茶が半分くらい減っているのが見えて、問われた言葉にどう返そうかと考えながらティーポットにお湯を追加する。無意識に焦ったのかお湯が跳ねた。
 泊まっていいなら泊まりたい。当たり前のようにそう思う。何をしても、何もしなくてもいい。いや、したいことはもちろんあるけど、しなくても別にいい。そう思うのに、同時に頭をもたげるのはやはり本当に泊まってもいいのかというそれだけだ。「付き合ってる?」というそれだけ、それを聞ければ、心のモヤはきっと晴れてくれる。
「ツナマヨ、こんぶ高菜……?」
「泊まってもいいのって、なんでそんなこと聞くの?」
 ほんの数日前までは、同じように聞かれたら「泊まる」という意味の語彙を口にしながら抱きついて、ちょっと照れてしまう彼女に意地悪く笑ってその肌に触れてやることもできたのに。いつもと同じように彼女の手に触れたいのに、今日は触れられずにいる自分の手のひらが汗ばんでいる。スマホで動画を見ながら時折笑いつつマグカップを傾けていた彼女が、心底不思議そうに、訝しげに自分を見つめている。
 言えないことと言って貰えずにいること。そんなことが今更になって心の中に影を落とすのはきっと、つい先週二人で見た恋愛映画のせいだ。声量を絞るために口元を隠したネックウォーマーの中で、小さく唇を開いた。
「明太子、こんぶ高菜」
 同じ年頃の男女に人気だというあの映画では、紆余曲折の末にちゃんと二人は告白しあってハッピーエンドを迎えた。その映画を彼女がうっとりと観ていたから、やはり今の自分たちは彼女の理想とは違ったんじゃないかと、唐突に不安になってしまった。つまるところ、順序なんかなく、大切なことをきちんと伝えないまま今に至る自分の不甲斐なさが浮き彫りになってしまったような気がしたのだ。
「…………私が、付き合ってもない男子とキスしたり、そういうことしたり、すると思ってるってこと?」
 結局手を繋いでキスをしたあの始まりの日から変わらず、自分は自分のことしか考えていない。"自分たちって、ちゃんと付き合ってるのかな" さっき口にした自分の言葉が、彼女にとってどんな意味を持つのか、目の前の彼女の表情を見るまで思い至らなかった。
「お、おかか……、」
"ちがう" と否定しても、彼女は責める眼差しのまま、唇を歪めて自分を見つめている。
 彼女とは高専一年生の途中で同級生になった。真希とパンダは入学当初から生活を共にしてきた日々の中で、更に遅れて編入してきた憂太も、自分の語彙の意味を読み取り始めていた頃だ。それでも一緒に生活している中で、彼女も徐々に、時々間違えながら、わかりにくいことこの上ない自分の絞った語彙を読み取ってくれるようになった。
「違くないでしょ。じゃあ棘は? 棘は付き合ってるつもりはなかったってこと?」
「おかか!」
 間髪入れずに "ちがう" と反射的に出てきた語彙は、自分で思うよりずっと大きな声で部屋の中に響いた。彼女の持つスマホからは、動画の音声がこの場に似つかわしくなく流れ続けている。
「違うなら、じゃあ棘は私のこと信じてないってことじゃん」
 動画の音声をバックに、彼女が小さく、ほとんど呟くようなか細さで唇に乗せた。彼女がスマホを手に操作して、動画の音声が途切れる。二人の呼吸音と、小型の冷蔵庫の唸り声と、窓の外の枝や葉がぶつかるささやかな音だけが、部屋の中にこだましている。
 何を言ったらいいのか、伝わるのか、逡巡しながら彼女を見つめるその視界の中で、彼女がローテーブルに両手をついて立ち上がろうとする体勢になった。「ごめん」も「許して」も口にできないまま、立ち上がった彼女を追って急いで立ち上がって、衝動的に抱きしめる。それはたぶん、縋るような形になった。
「し、しゃけ、ツナマヨ」
 自分が持つありったけの "好き" と "大好き" をめいっぱいに込めて、抱きしめる腕に力を込める。
「っおかかっ……!?」
 その瞬間、左足の甲に衝撃が走った。甲が痛くて、つま先も痛くて、ちょっと涙が出そうになる。それでも、彼女は自分を振り払わずに、小さく「私も好きだよ」とだけ言った。それが耳元に甘く柔らかく響いたから、痛みとは別の感情で目の奥がツンとして、口元が緩んだ。

 ひとまず踏まれたままの足は無視することにして、ようやく彼女の指先に触れる。抱き合う体勢で、彼女が頬にキスしてくれた。足は踏んだままだけど。




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