夏が来る。体を取り巻く空気は生っぽい暑さを含んでベタベタと皮膚にまとわりつく。高専は山の中にあるだけあって、風は時折ひやりと肌を撫でる。恐らくコンクリートに囲まれた街はもっと暑いだろう。土の匂いと木々の匂い。鬱蒼とした森は見ているだけで涼しげだけれど、日中は気の早いセミが鳴き喚き、夜は虫の鳴き声が止まずに私たちを睡眠不足にさせる。そうやってここで、三年目の夏を迎える。
 ついこの間終わった昨年のことはあまり思い出したくない。恐らくみんなそうだろう。その証拠に当時の話題が上がることは稀で、あったとしてもすぐに収束する。あの渋谷での出来事を思い出す度、私は棘が失った左腕のことばかりが頭に浮かぶ。

「ツナ」
 見るからに不快そうな冷めた視線で、棘が私を見ている。"何を考えているのか" と問われれば、私が棘を可哀想がっているというただそれだけに尽きるだろう。ぼんやりと、私の上に跨る棘のその瞳を見つめてみる。目が合ってすぐ、棘が眉根を寄せた。その感情を感じ取ることは出来ない。



 渋谷事変の後からこっち、棘はしばらく幻肢痛に悩まされていた。取り繕った笑顔の裏で、いつも顔を真っ青にしていた棘。厳密には切断されたという訳ではないけれど、それでも脳が見せる失った左腕が存在するような錯覚は、日毎棘を蝕んだ。
 ある夜、私はその頃棘がただ心配で、棘の部屋を訪れた。ノックを三回、それでも棘は出てこない。眠っているのかと思い、最後に一度声をかけてから立ち去ろうとした。「棘、寝てる?」私はそう訊ねた。その直後に思いがけず開いた扉から飛び出してきた右手は、私の左腕を強く掴んだ。
「ツナ」
 部屋に連れ込むなり、棘は後ろ手に鍵を閉め、そして "なに?" と問う。困惑しながら見つめた先のその瞳の奥は、見慣れない澱みを湛えていた。
「心配になって」
 他にも何か言いたいことはあったはずなのに、それしか唇からは出てこなかった。呪言を持つために、人のために語彙を絞り、また人のためにその言葉を使う、その優しい人に優しくしたかった。ただそれだけだった。
「しゃけ」
 棘が、掴んだままの私の腕を引っ張って、無言で部屋の奥へと足を進める。強い力で引っ張られてもつれた足は耐えることも出来ず、私の体は呆気なくぐしゃぐしゃのベッドへと放り投げられた。見上げた先の棘が感情の読めない眼差しを私に向ける。そして右手だけで乱暴に上着を脱ぐのを視界に収めながら、私の体は無意識に震えた。それは間違いなく、恐怖がさせたことだった。



「ん、ぅ」
 既に私の肌は全て、棘の目前に晒されている。左腕のない棘が私の衣服を脱がせるのは、なかなか難儀だ。つまり、私の衣服は私自身が脱ぎ去った。──棘が視線だけで示したように。
 棘が膝立ちのまま、手のひらで私の胸を包み、指先で先端を捏ねたり摘んだり、人差し指と中指で挟んだりする。その度にどうにか声を噛み殺しながら、喉の奥で鳴くしかできない。棘の指先が胸からお腹、下腹部をゆっくりとなぞって、背筋が粟立つ。その指先が濡れたそこを往復するようになぞり、そして突起を柔く弾いた。
「、ひ、ぁ」
 両手で自分の口を必死に押さえて、刺激をどうにか逃そうと、視線を窓の外にやった。カーテンの隙間から夜の闇と星の瞬きが見える。
「ん、あっぁ、」
 棘の人差し指が一度奥へと差し入れられ、そして出ていったかと思えば今度は指が二本、また奥まで押し込まれる。どうしようもなくなって、震える両膝を閉じようとした。その気配と動きに気づいた棘が、まるで報復のように指を折って膣を指の腹で引っ掻くように、一気に引く。そしてその手はすぐに、閉じかけていた私の左膝を押さえた。
「──っ、あ」
「おかか」
 下腹部から粘着質な音がする。"閉じるな" というその語彙の意味に、行為よりもその言葉に、涙が出そうになる。
 あの日、棘はそれでも優しかった。苦しんでいるところに土足で踏み込もうとした女のことなんて、酷くしたかっただろう。それでも棘はひたすら、優しかったのだ。そのことに気づいている。棘が何を望んで私の体に触れるのか、体を繋げているのかわからなくても、棘の優しさは失われてはいない。"閉じるな" なんて、呪言を使えば一瞬だ。今日だって、"脱げ" と言えば済んだ。とうとう涙腺が決壊しそうになって、気づかれないように目をぎゅっと瞑った。
「ぁ、っ」
 濡れた場所に宛てがわれたぬるりとした感触が、ゆっくりと奥へと入ってくる。押し入れるその時にこそペニスを右手で支えるが、棘は両手でバランスをとることが出来ない。体幹は鍛えられているけれど、それでなくとも不安定なベッドの上だ。薄らと開けた目で見る棘は、私の左膝に右手を置いて支えに、唇を結んで眉根を寄せ、辛そうな表情を浮かべる。
 最中、棘は何も言わない。ただ辛そうな呼吸音だけが、軋むベッドの音と混ざる。私の体を揺さぶる勢いも優しいのに、棘の瞳だけは昏い。
「も、もう、ぃ、っ」
 あの日私の初めてを奪っていった棘は、事後に柔らかいタオルを持ってきて、そっと血が滲む場所を拭ってくれた。その、酷くなりきれない棘のぎこちなくて優しい指先だけが、今も変わらない。
「っ、──は、」
 視界の中で、棘が唇を噛んで呻いた。膣の奥で、どくりどくりと震えるそれが身体中に反響する。棘が大きく深呼吸する音と気配だけが、暗い室内に溶けていく。
 棘はいつもそうするように、呼吸を整えるとペニスをゆっくりと引き抜き、コンドームを外して捨てる。そしてまだ余韻の残る私の体に、乱暴に引っ張った掛布団を被せてくれる。月明かりに照らされた棘の横顔はきれいなまま、けれど棘は、この一連の行為の中で私が棘に触れることを許さない。棘の匂いだけの布団の中で、そっとベッドの横のローテーブルを盗み見る。水の入ったグラスは汗をかき、テーブルの表面に小さな水たまりを作っている。その横には乱雑に開封された鎮痛剤と、いくつかの錠剤を押し出したあとの包装シート。そしてそのテーブルの上にあまり似つかわしくないコンドームのパッケージ。
 優しい人に優しくしたかった私は、たぶんどこかで間違えた。だって棘は、それでも私に優しい。そのことだけがいつも私の心を重くさせる。けれど棘は、恐らく痛みをある程度予期して、私に連絡してくる。どこかできっと間違えたと思うのに、それがどこなのかがわからない。だから私はいつも、呼ばれるままにここへ来る。
 ボクサーパンツだけを身につけた棘が、ベッドサイドに腰をかけて息を吐く。その右手が、私が自分で脱いだ衣服を拾い上げて、膝の上で簡単に畳んでからローテーブルの上に置く。こんなに優しい人に、酷いことをさせてしまった。それが私の後悔だ。
 
 夏の到来を予感させる、肌にまとわりつくような熱が充満した室内。時折右手で先のない左腕に触れる棘の輪郭を見つめながら、ベッドの中で丸くなる。
 恋になれと願う前に、私は棘の心に触れてしまった。その肌に触れることも、その体を抱きしめることも出来ない私の中に、名付けられない花が咲く。

 


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