別に人間を羨ましいとは思わない。俺にないあらゆる部分を持ち合わせている点においては好きだが、じゃあ人間になりたいかと言われるとそうでもない。それでもやっぱり、人間の行動原理とか突き動かす感情を傍目に見ているのは悪い気はしない。

「あら、パンダくん」
「どもども」
 ワゴン車のボンネットに寄りかかってかったるそうにタバコを吸っているこの人間は、高専の卒業生であり、現在補助監督を務めている。そしてなんとびっくり、何故か棘の好意が向いている女でもある。その好意がどんな種類のものなのかはわからないが、少ないはずの接点でどうやって感情が育ったのか。最近専らそのことに興味がある。この女の名前を、なまえという。
「狗巻準一級は? 」
「もう来まーす」
 俺の体躯を考えれば当然ながら、セダンやコンパクトカーには乗れない。他の高専生は割とセダンが迎えに来ているが、俺が出るとなると必ずこのワゴンだ。そしてこのワゴンだと必然的に補助監督はなまえさんになるらしい。
 余談だが、いつだったかこの人を「なまえ」と呼んだことがあるが、にっこりと、笑っているのに聞いた事のない低い声で「なまえ "さん" だろ? 」とタバコの煙を鼻先に吹きかけられてから、俺はこの人をさん付けで呼んでいる。そしてなまえさんは当初、俺のことも「パンダ二級」と呼んだが、語呂のあまりの良さと何トカ検定ぽいからやめてくれと伝えて以降、なまえさんは俺を「パンダくん」と呼ぶ。
「こんぶ! 」
「おっせーぞ棘」
「じゃあ揃ったところで行きましょうか」
 なまえさんは集合時刻ギリギリになってしまった棘に対して何か言うでもなく、タバコを携帯灰皿で潰してから一度伸びをした。恭しく車のドアを開けたその仕草に倣って二人で車中に乗り込んだ。ご丁寧に後部座席の窓に日除けを取り付けてあるおかげで、外から俺の姿がはっきり見えることはない。
「早速だけど現状報告してもいいかな」
「しゃけ」
 毎回この車に乗る度、棘はなまえさんと対角線上の席に座る。その視線がいつでもバックミラーやら運転席やらに注がれているのを見るに、真後ろだとなまえさんがよく見えないということだろう。俺は別に見たいものもないからいつも運転席の真後ろに座っている。傍目にみえる車中は、日除けによって見えにくいもののでかいパンダのぬいぐるみを積んでいるように見えるだろう。様子のおかしい車だ。
「現場は廃屋。なにか事件や事故があったわけではないんだけど、住人が離れてからかなりの年月が経ってる。近所の子供たちの絶好の怪談話のターゲットであり、中高生以上には絶好の肝試しスポットね」
「そりゃ呪いも溜まりまくってるだろうな」
「幽霊を見たとかいう噂も一人歩きしちゃってたんだけど、とうとう肝試しから帰ってきた学生が半狂乱状態で病院に入ったの」
「こんぶ、明太子」
「そうね、観測する限りでは低級の集まりに二級が一体ないし二体」
 それはなかなか骨が折れそうだ、とぼんやり思う。平日の夕方、そろそろ帰路に着く車が増える頃合いだろうが、日除け越しに見る窓の外の風景は素晴らしいスピードで通り過ぎていく。俺たちが住む場所と生きていく場所と見ているものとは全く違う世界で生きているような顔をした人間たちの、その表情はよく見えない。
「明太子! 」
「ああ………待って、助手席にある」
 ようやくスピードが少し落ちたあたりで、ほぼ無意識にあたりをぐるりと見渡す。左車線を走るワゴンのちょうど左側、少し先によく聞くドラッグストアの看板が立っている。
 棘ののど薬について、普段からいくつか持ち歩いておけばいいのに、棘はよくわからんところで現地調達を原則としているようだ。もちろん、周囲に店がない場合はその限りではない。棘が身を乗り出して助手席に腕を伸ばすのを視界に入れながら、"寄って!" と言った棘に対するなまえさんの返事を、ぼんやりとした頭でもう一度組み立て直した。
「なまえさん気が利くな」
「ありがとう」
 ようやくのど薬が入ったビニール袋を掴んだ棘が、それを引っ張る。とうとう助手席から現れたビニール袋は思っていたよりも大きく、ずしりと重そうだ。なまえさんは一体いくつ買ったのだろうか。棘が袋の中から箱を取り出し始める。箱から中の瓶だけを取り出しておき、すぐ使えるよう準備するためだ。俺と棘の間に置かれていく箱を数えながら、俺も箱の開封を手伝う。
「随分買ったなあ」
「どれくらい必要かわからなくて」
「おかか、ツナマヨ」
 ──前に貰った分も残ってる。いま棘は確かに笑いながらそう言った。それでも俺の記憶の中では、棘がなまえさんを補助監督とした任務に行ったのは、ここ最近ではなかったはずだ。わざわざ棘一人、他の高専生と一緒だったとしても、ワゴンである必要はない。
「なまえさんが運転する送迎車って他にもあんのか? 」
「この車だけ。セダンにしちゃうと仕事増えそうだし」
 補助監督にあるまじき無責任な発言はこの際置いておくとして、それじゃあやっぱ最近棘を送迎するような任務があったのだろうか。
 棘は取り出した瓶のいくつかを、ポケットにねじ込んだ。ポケットの中から、瓶どうしがぶつかるガチャガチャした音がくぐもって聞こえる。
「ツナマヨ」
「はい、どういたしまして」
 それはそうとして、少し気になっていたことがある。長い時間を、苦楽を共にしてきた訳でもない一介の補助監督が、ここまでスムーズに棘とコミュニケーションが取れるものだろうか。
 そこまで思い至ってようやく、不覚にも今更ながら俺の頭にある閃きが浮かんだ。
「棘、オマエ水臭いな」
「高菜? 」
 ワゴンとはいえ狭い車内で重い体を揺らしながら棘の座席の方に身を寄せて、その耳元でそっと言ってやる。棘がちょっとうっとうしそうに体を縮めたから、ほんのちょっと傷つく。最初から知ってたら助手席に座れよとか言えたというのに、手のかかる男だ。
「なまえさんと上手くいったんだろ? 」
 棘の脇腹を肘でぐりぐり押してやった。しかしながら、棘からはなんの返事もない。おや? と棘の顔を伺ったら、棘は目に見えて顔を赤くしていた。それから片手を顔の前で振る。
「は?! ここまで状況証拠揃ってんのに?! 」
 尚もぶんぶんと振る手に、今度は首の動きも追加された。何度も何度も横に首を振るその顔だけは赤いまま、棘が小さく「おかか、おかか」とうわ言のように繰り返す。
「お二人さん、何してるの。もうすぐ着くよ」
「なまえさん棘と付き合ってるんじゃねえの?! 」
「……付き合ってないわよ。何言ってんの」
 あ〜こりゃやっちまった。やっちまったな。悪ぃ棘、俺余計なこと言ったわ。謝罪の意を込めて、ちらりと隣の棘を横目に見る。手を振る形のまま固まっているその姿に、自分のせいなのは明白なのに幾分か同情した。
「割と車に乗せてんのかな〜とか、棘と普通に会話できてんだな〜とか、思いまして」
「ああ、まあ……うん、そうね……」
 途端に煮え切らない返事を寄越すなまえさんと、顔を赤くしたままわざとらしく窓の外に視線を向ける棘。
 俺には人間の感情の機微なんてもんはよくわからん。よくわからないなりに、それでもこの雰囲気が決して悪くないこと、それから、自分の身の置き所のない感覚はよくわかるつもりだ。
「はい着いた。よろしくお願いしますね、術士さんたち」
「しゃけ」
「おう」
 車を降りても二人とも目を合わさない中、棘がポケット中で瓶を鳴らす音が夜の静寂に溶けて消えた。
 そうしてようやく、棘がなまえさんをちらと見る。思わず目が合ってしまったという風な顔をしたなまえさんに、棘がちょっと照れたように目だけで笑って、また目を逸らす。それからなまえさんの口元が一瞬ゆるみ、気をとりなそうといらん咳払いをしてそっぽを向いた。
 マジでこの二人、何があってどうなってんの? どんなに考えても、残念ながら突然変異呪骸・パンダにはわからない。




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