「あの、ほんとにするの?」
「………しゃけ」
 初めてのラブホテルで初めてのサイズのベッドの上に向かい合って、もう何度目かわからないやりとりをする。そしてまた、何度目かわからないけどまっすぐに狗巻の目を見れなくて視線をずらした。ずらした視線の先に、ベッドのヘッドボードにコンドームのパッケージが二つ、かわいらしい小さいカゴに入っていたから、そこからも目を逸らした。もう視線のやり場がない。向かい合ってひざを突合せて、私の指先にほんのちょっとだけ重なる狗巻の指先に視線を落とした瞬間、「ひえ」と思わず声が出た。

 任務の帰りのことだ。狗巻のおかげで大きな怪我もなく比較的あっさりと解放されたとは言え、任務の完了は深夜一時だった。天気の良い──と言うのも変だけど、草木の匂いが立ち込めて、遠くに車の走る音が聞こえて、二人分の靴の音が湿り気を帯びた土、砂利からコンクリートへとうつり変わって響く、そんな普通の夜だった。この後はどこかで適当に最低限の買い物をして、予約済みの普通のビジネスホテルにチェックインして「お疲れ様〜!早く部屋入ってゆっくり休んでね〜」とか言って二人別室に入って翌朝「おはよ〜」って言って高専に戻るはずだった。狗巻は右手のスマホを真剣に見つめながら、スタスタと足を進める。わたしはと言えば「ホテルの道検索してくれてるんだ〜優しいな〜」と呑気に狗巻の後ろをついて歩いていた。それがだ。ようやく賑やかな街に足を踏み入れ、視界にきらびやかなでかい看板が入った途端、狗巻が不意に私の右手首を掴んだ。連れ込まれる直前に見えたのは "休憩 3000円〜" の文字。その下にもなんか書いてあったような気がするけど、読み取る間もなくわたしはその建物に足を踏み入れた。心臓が忙しない。脳内ではずっと「うそでしょ」「ほんとに? 」「狗巻が? 」がループしていた。狗巻が、部屋の写真が沢山並んだ画面の前でちょっとだけ狼狽えていたから、それだけがわたしを少し和ませた。

* * *

 当初指示されたのは、なんのことはないツーマンセルだった。誤算があったとすれば、わたしが三年生で狗巻が二年生の、学年の垣根をとっぱらったタッグであったこと。そしてわたしと狗巻がなんと付き合って四ヶ月のカップルだったこと。さらに言うなら、そのことは高専内でも割と周知の事柄だったこと。「お前の相手狗巻ね」とあっさり言われたわたしは、それでもにこやかに穏やかに「わかりました」としっかりよいお返事をした。しかし内心では頭を抱えたし、一人になったあとしっかりきちんと頭を抱えた。
 狗巻はあんな感じだけど立派に十七歳である。男子十七歳。ツーマンセルは良いとして、泊まり出張組んでいいのか? 高専のコンプラどうなってんの? 狗巻とのツーマンセル一泊二日出張を告げられたその夜、わたしは寮内のベッドの上で一人暴れていた。暴れては手持ちの下着のラインナップを脳裏に浮かべてしまった。狗巻のことだからまさかそんなとも思う。でも彼氏・彼女という関係に収まっている以上、それを狗巻が望んだ以上、狗巻の精神は健全な十七歳の気がする。付き合って四ヶ月って早いの? 遅いの? 高専にはそんなことを聞ける人材がいない。みんなどうせ経験ないでしょ。五条には死んでも聞きたくない。新しい下着買った方がいいの? いや、でも相手はあの狗巻だよ。こんなこと考えてるわたしの方がそういうの期待しちゃってるんじゃないの。──と、ここまで行き着いてようやく、わたしは大人しくベッドの上で布団をかぶった。だって相手は狗巻だもんね。そしてようやく、わたしは入眠したのであった。

* * *

 そんなこんなで出張当日、本日──日付はもう変わっているけど──の集合場所に着くなり、狗巻が左手をわたしに差し出した。次いで右手で、私の荷物と自分の左手を交互に指さした。曰く、「荷物持つよ」ということらしい。わたしはと言えばうっかり差し出された左手に自分の右手を重ねそうになっていたから、動揺して「あっ、はい、はいっ!荷物ね!カバン!これ!」と声が上ずってしまった。昨晩の妄想にすっかり取り憑かれていたわたしの醜態を、狗巻は怪訝な表情で見つめていた。

「ほんとに、ほんとにするの?」
「しゃけ」
 本当にこのやり取りは何度目だろうか。その都度、最初っからずっと、狗巻は「しゃけ」と返事をする。一度も、たったの一度も「おかか」とは言ってくれない。狗巻の目が二つ、蛇の目が二つ、計四つの目が私を見つめていて、このままベッドに溶けて埋もれてなくなってしまいたい気持ちになった。ラブホテルの部屋に入るなりぐいぐい引っ張られて閉じ込められたバスルームで、多少の覚悟を決めたはずなのに、わたしの体はまだがちがちに固まっている。おにぎりの具しか喋らない狗巻のその意図を、わたしは理解できない。わかるのは「しゃけ」と「おかか」くらい。学年が違えばその分一緒に過ごす時間も短いわけで、その分相互理解が足りないのは明白だ。そのくせ付き合ってるんだから、人生何があるのかわからないものである。
「ん、ん?」
 ふと、自分の視界が暗いことに気がついた時には遅かった。目前に迫っていた狗巻の顔に、反射的に後ずさろうとしたのに、太ももがしっかりと狗巻の右手で押さえられていた。眼前で狗巻が唇をひらく。牙の呪印が刻まれた赤い舌先が、薄い唇の中からわたしを迎えにきた。
「んぅ」
 何かを言おうとしたわたしの唇の隙間めがけて、柔らかい舌先がわたしの舌先をつんつんつついた。それからはもう、舌がまるごと食べられてしまうんじゃないかと思うくらい、何がどうなってるのかわからないくらいに口の中を荒らされる。どっちのかわからない唾液が口の端から溢れて、酸素が足りずに思わず狗巻の胸元にしがみついた。ねだってるように見えやしないかと、この期に及んで不安になって、腰が引けて、口内でうごめく狗巻の舌をやんわり噛んだ。
「、いくら、明太子」
「う、な、なに」
 不満げな狗巻が口の端を舐めながら、わたしが着る備え付けの寝間着のボタンを器用にはずす。狗巻の唇の端からも唾液が垂れていて、室内のぼんやりした明かりに照らされててらてらしている。
「い、狗巻、あの」
「……明太子」
「ほん、ほんとに」
 狗巻はもう、「しゃけ」とすら言ってくれなくなった。肩を押されて、のしかかられて、狗巻がボタンをプチプチと外していく、その重力に従って落ちる前髪を視界に捉える。着替える時に身につけるべきかどうかわからず悩んで結局身につけたブラジャーを視界に入れたらしい狗巻が、一度上目遣いでわたしを見た後に、小さく舌なめずりしたように見えた。
「いぬ、まっ」
 いつの間にやら下まで開けられていたボタンに、下着の上から指が小さく優しく、そこを撫でる。
「ひ、ぁ」
 知らない刺激に、内ももが無意識に震える。唇からも、わたしの知らない声が出る。喉が潰れたような気持ちになって、こわくて、狗巻がもう片方の手でわたしの背中とベッドの接地面でブラジャーのホックをはずしたとき、とうとう目じりから涙が出てきた。
「やだ、いぬまき」
 ピタリと止まった狗巻の両手に、瞼を瞬かせる。狗巻の表情は影になってよく見えなかったのに、それでも悲しそうなのだけはわかる。
「……………こんぶ」
 それが何を意味するのか、残念ながらわたしにははっきりとわからない。
「だって狗巻、し、知らない男の子みたいな顔、………そんな顔、しないで」
 今度瞳を瞬かせたのは、狗巻の方のだった。きれいなアメジストの瞳が細められる。実際には影になってて色までわからないのに、なぜかたまらなくなって、両手を狗巻の顔に向けた。わたしは狗巻の言葉の意味がよくわからない。でも、狗巻はわたしのことをよく知っている。狗巻が照れくさそうにちょっとだけ笑って、そしてわたしの意図を正確に把握して、そっと唇で唇を塞いでくれた。
「ん、ふ、ぅ」
 すでに外されたブラジャーを上にたくし上げられて、狗巻の手のひらがわたしの胸を包む。ひやりとして声が出た。もう片方の手も動きを再開して、知らない刺激が知らない快感へと変移していく。
「ひぁ、ぁ」
 指が一点をかすめた瞬間、肩が、喉が震えた。無意識に閉じようとした膝は、間に居座る狗巻の腰を挟んだだけだった。
「、たかな」
 自分の体のことなのにわからないことばっかりだ。狗巻の指先が撫でて摘んで優しくつねる胸だって、擦って柔らかく押し潰して行ったり来たりされる場所だって、なにもかも、まるでわたしの体じゃないみたいに反応する。
「やだ、はずかしい、はずかしいの」
 狗巻が今まであんまり見たことのない表情を浮かべる。この顔を最後に見たのはたぶん、四ヶ月前狗巻がわたしに「好きです」と書かれた手紙を押し付けて、そしてわたしが次の日に「昨日の手紙、ありがとう。あの、うれしかった」と言って、狗巻の唇が近づいてきたのをためらわずに受け入れたその時だ。卑怯だ。こんな時に、そんな顔しないで。
 ゆっくりと体を起こした狗巻が、自分のガウンを一思いに脱いだ。引き締まった細い体躯が晒されて、また目のやり場に困る。困るのに、視線は勝手にその体を上から下まで眺めてしまう。ピタリとしたボクサーパンツの中心が膨らんでいて、再び口から「ひえ」と声が出た。パンツを脱ぎ捨てて、わたしの下着も剥ぎ取った狗巻の瞳が瞬いている。頬が上気している。呼吸が荒くて切なくなっている。狗巻が自分に避妊具を被せるのを、横目に視界に入れた。そして、わたしの両膝を掴んで開いた狗巻の唇が、ぎゅうっと引き結ばれたのを見た。
「う、う〜」
 ぴとりと、わたしのからだへの入口に、つるりとしたものが触れる。思わず指を噛んで眉根を寄せた。それに気づいた狗巻が、右手を私のお腹に伸ばして、そこに人差し指を立てる。
『こ わ い』
 かろうじて感じ取れた指先の文字に視線を上げた。クエスチョンのない指文字の代わりに、狗巻が不安そうに、心配そうに、首を小さく傾げている。
「こ、こわい、こわいのかな。わかんな、」
 ぬるり。狗巻の表情に一瞬弛んだ体の中に、狗巻が侵入を始めた。押し広げられていくその場所が熱い。異物感を感じる間もなく、余韻に体を慣れさせることもなく、狗巻の腰は止まらない。
「んん、ぅ」
「──っ、は」
 狗巻は何も喋らなくなった。痛いのに、痛いという言葉が口から出てこない。言ったらたぶん、狗巻は今度こそやめてくれる。それなのに、それがわかってるから、わたしは唇を噛む。
「んっ、ぅ、あ」
「……はぁ、ぁ」
 おにぎりの具以外の言葉。言葉じゃなく単なる呻き。その掠れたうめき声に、下腹部のあたりがきゅうっと切なくなった。狗巻は眉根を寄せて、つらそうに、腰を前後に動かす。その度に粘着質な液体の音が頭の中に響く。揺さぶられる視界の中で、狗巻が親指をべろりと舐めた。その親指が、今繋がっている場所の上のあたりを擦って柔らかく押し潰して撫でる。
「ひっ、ぃ、ぁっ」
「っあ、く、」
 ひときわ力を込めてしまった下腹部に、狗巻が体を震わせた。食いしばった歯が辛そうで痛そうで、わたしの中でびくびくしているのが狗巻だと知る。

「……あの、わたし初めてだったんだけどさ」
「………………しゃ、い、いくら……」
「狗巻、その、気持ちよかった……?」
 終始つらそうな表情をしていた狗巻に、恥を忍んで聞いてみる。下腹部がじんわりと重く痛む。初めての時って血が出るんだっけ、と漠然と思う。当然狗巻の顔を見れる訳もなく、わたしは狗巻のいない方に体を向けて、まるで独り言ですよという雰囲気をこれでもかと詰め込んで口にした。
「ツ、ツナマヨ」
 小さく小さく、ちょっと震えた声が鼓膜をふるわせる。ツナマヨは知ってる。知ってるよ。おにぎりの具で、狗巻が一番好きなやつでしょ。
 むき出しのわたしの背中に、ぴとりと何かが触れる。触れたまま、下へと降りる。どうやら指先のようだ。神経を集中して背中の文字を読み取る。
「……………と、……げ」
「し、しゃ、しゃけ」
「…………………」
 意を決して、体を狗巻の方に向けた。恥ずかしくて恥ずかしくてどうにかなってしまいそうなまま、隣で横になっている狗巻ににじり寄って、その胸元に額をぴったりくっつけた。
「……寝る前にキスしてよ」
「い、いくら」
「……と、棘」
 つまり、たぶん、背中に書かれた文字はそういうことだろうと思う。ちらりと狗巻の顔を窺ったら、最中には見せなかったくらい、その顔は赤くなっていた。
「朝になったらちゃんと起こしてね」
 柔らかい唇が触れて離れて、わたしはそれだけ言って照れ隠しに勢いよく起き上がって、バスルームに駆け込んだ。

* * *

 気まずいなりに二人一緒に新幹線に乗って、座席でこっそり指先に触れてみたり手のひらをくすぐられたりしながら高専に戻ってきた。戻るなり、前方から五条が軽やかに迫ってきた。何らかの恐怖でつま先が震える。
「おかえり〜。ねえちょっと聞きたいことあるんだけどいいかなあ」
「おかか!!!!!」
「いやです!!!!」
 長い足を持て余すように腰を折ってわたし達と目線を合わせた五条が、あまりにも嬉しそうに、楽しそうに笑んでいる。そんなことが恐ろしくて仕方ない。
「え〜でもさあ、今朝ホテルから電話があったんだよね。キャンセル料のこ・と・で」
 付き合い始めた頃から筒抜けだったわたし達ふたりの関係、お互いがそれぞれの友人たちから尋問を受けて進展も筒抜けになっている。まさかそこに今日、一つ加えられる可能性がここに。
「ねえ、君たち、昨晩どこに泊まったの?」
 一層のニヤニヤ笑いの五条が、そう言い残してひらひらと踊るように校舎内に逃げていく。残されたわたし達はもうただ呆然とするだけだ。追いかけても無駄なことはわかりきっている。ちらっと隣の狗巻………棘を見る。顔が真っ赤になって真っ青になってまた真っ赤になった。
「……こんぶ…おかか……ツナ明太子……」
 ぶつぶつと唱える棘のそれはいつも通りにおにぎりの具のはずなのに、呪言のように聞こえる。──ふと、指先に何かがぶつかった。確信を持って、触れたものに指を絡ませる。棘が襟から口元を出して、唇だけでわたしに言う。
「だいすき」
 きっとこれからわたしたちを待ち受ける生ぬるくてちょっと下品な冷やかしの前の意思確認だろう。大好きだから大丈夫。大好きだから頑張ろう。たぶん、そんな感じの。だからわたしも、返事の代わりに指先に力を込めた。



あらしのよるに



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