とてもわかりにくかったけど、どうやらいま彼は嫌な顔をしたらしい。その証拠に彼はさっさと立ち上がって窓へと足早に歩き、そしてカーテンを引いてから一気に窓を開け放った。この寒い中、暖房が効いた室内に突如として冷気が喜び勇んで流れ込んでくる。
「……ありがと」
「いえ、なまえさんのためやないんで」
 歯切れの良い涼やかな声だ。ほんの少しの嫌味を混ぜたお礼は、正しく届いてそして正しく嫌味を含んだ言葉になって返ってきた。なんてことのないように響いたはずの声だけど、どうやらそれは勘違いだった。窓を背に身体をこちらに向けた彼──北くんは、その眉根を今度はわかりやすく、思い切り顰めていた。
「…………とりあえず、タバコやめときますね」
 ついうっかり、普段の癖でタバコに火をつけてしまった。それはそれはもうしっかりスムーズに、バッグのシガレットポーチからタバコとライターを取り出して、箱から一本取り出して、唇に銜えて、ライターで火をつけて、ひと吸いしてから煙を吐き出したわけで、今更取り繕うことなんか出来やしない。北くんは現在高校三年生。私は現在ハタチ。法律上私が喫煙したとてなんの問題もないけれど、事態はたぶんそんな簡単な話ではない。そも、未成年の前でタバコを吸うなという話ではあるけれど。
「……なまえさん、タバコ吸うんですね」
「あ、はい。えーと、ハタチになってすぐ、なんや、なんとなく、ね」
 なんとなくで吸い続けられるほど楽チンな代物ではないけれど、恐らく北くんはそんなこと思いもしないだろうな、と思う。それもそうだ。少なくとも私の記憶にある北くんは、成人したとしてもタバコを吸うことはないだろう。
「なんとなくで吸うたらアカンと思うんですけど」
「いや〜、意外とみんな最初はなんとなくやと思う……よ?」
 こちらをじいっと見つめてくるその視線の強さにとうとういたたまれなくなって目を逸らした。北くんが来る前にテーブルの上から追い払った灰皿を取り出して、吸いさしのタバコをぎゅっと押し付ける。ああもったいない。
「なまえさんがタバコ吸うとは思ってへんかった」
「あ〜、まあ、そうね」
 なんとなく右手を空中に軽く上げて、煙を追い払う仕草をする。それをしたからどうってわけでもないけど、今はとりあえずそれが最適解のような気がした。北くんは押し潰したタバコを視界に入れるなり、狭いキッチンで換気扇のスイッチを入れ、そして再び窓へと寄って呆気なく窓を閉めた。
「そんで、」
「ん?」
 なんとなく自分の唇に触れる。そしてやおら立ち上がって、キッチン前の申し訳程度のカウンターに乱雑に転がるキャンディをひとつ、包装を破って口内に放り込んだ。
 その一部始終を見ていた北くんは、ようやく室内のローテーブルの前に腰を下ろした。
「なまえさんは最近何してたんですか」
「べつに、大したことはしてへんよ」
 口内でキャンディを転がしながら、私も北くんに倣ってローテーブルの前に座った。お尻の下でぺちゃんこに潰れたクッションのせいで腰が痛い。新しいクッション、買いたいな。
 そこでようやく、北くんが黙ったことで自分の失言に気づいた。唐突にも程がある。大したことも大したことないことも、北くんにわかるはずがない。
「えっと、だいたいレポートに時間取られてん。あとはバイト。サークルも入ってへんし。大学も変わらず結構楽しい」
 高校三年生の北くん、大学二年生の私。北くんは少し思案の顔つきを浮かべたあと、息を吐いて「そうですか」と静かに言った。

***

 私たちが出会ったのは、北くんが高校一年、私が高校三年の時だった。私は当時男バスのマネージャーをしていた。そして入れ替わりで体育館の使用権を持っていたのが、バレー部だったわけだ。雨の日なんかは最悪だった。体育館は広いのに、使用権がないけど仕方なく体育館で筋トレする部に対して、割とはっきりとあからさまな「出ていけ」オーラを振りまいていた。どっちの部も、だ。さて、そんなこんなですれ違うことも度々あり、体育館の使用権調整のためにバレー部マネージャーと打ち合わせることもあり、余ったスポドリをバレー部に提供することもしてもらうこともあり、いつの間にやらバレー部の面々と顔見知りになって、校内で会えば多少話すようになっていた。
 北くんに呼び出されたのは、男バス三年が引退した一週間後のこと。私も同じく引退して、引き継ぎも終わってるしこれからは朝のんびり寝れるなあなどと呑気なことを考えていたわけだけど、残念ながらそんなことにはならなかった。北くんは放課後の校内の隅で、「俺と付き合うてくれませんか、好きです」としっかりはっきり口にした。オレンジ色の夕日が窓から差し込んで、北くんの横顔をほんのり照らしていた。「北くん一年やろ? 今年で卒業する私と付き合うて、なんかいい事ことある?」私は確かにそう応えた。紛れもない本心だ。だって、私にとっての北くんは、所謂恋愛云々の世界では完全に刺客だったのだ。それでも北くんはめげなかった。「俺にとっては、ええ事でしかないんですよ」そして私はうっかりしっかりときめいた。結局付き合うことになって、それでも北くんは部活で忙しい身ということもあり、彼の朝練の時間に合わせて早起きをして通学時間を一緒に過ごすことになったわけで、結局私は朝ゆっくり眠ることはできないまま卒業を迎えた。

***

「なまえさん、」
「あ、うん」
 ぼんやりと馴れ初めを思い出していた私は、完全に反応が遅れた。北くんはまた怪訝そうな表情をしたあと、今度は少し悲しそうに目を伏せた。
「あんま会えんようになって、今日久々に会える思て来たんですけど、なまえさんあんま乗り気やないですよね。すみません」
「いや、えっとね、」
 北くんの告白を受け入れて、付き合い初めて、私だって卒業と同時にお別れかなあとか思ってたのに、なんだかんだ今の今まで続いている。そして今日は久しぶりに二人きりだ。私に落ち度があることは明白だから、恥を忍んで打ち明けた。
「……私たちの、付き合い始めた時のことをな、思い出しててん」
「付き合い始めた時」
 北くんが丁寧に復唱するものだから、再びいたたまれなくなって北くんから目を背けた。
「北くんが私のこと好きになる要素なかったやろ」
「……そうですか? 普通にあったと思いますけど」
 そんなもんあるわけないやろ、と口を突いて出そうになったが、すんでのところで飲み込んだ。しっかりきっちりの北くんが好意を持つポイントなんて、私は持ち合わせていない。大学に入って、新歓やら合コンやらサークル見学やらですっかり空気に飲まれてタバコを吸い始めたのがいい例だ。ハタチの誕生日を迎える前に飲酒もしたけど、北くんはそんなこと絶対しない。知らんけど。
「……なかったよ。ぜったい」
「……別に、」
 口の中でキャンディを噛んで、手持ち無沙汰に前髪を弄ってみる。周りの空気にあっけなく飲まれて始めた喫煙習慣はすっかり身体の至る所に馴染んでしまった。普段ならこんな時真っ先にタバコに手を伸ばすのに、北くんの前ではもう失態は犯せない。勝手に妙なプレッシャーを感じながら、私は枝毛捜索マシーンと成り果てようとしている。
「……別に、て、なに?」
「別に、なまえさんが言うて欲しいならいくらでも言いますよ」
「……北くんが私を好きになる要素?」
「はい。言うて欲しいならというか、言うてもええなら」
「なにそれ」
「言うたら絶対なまえさん、しばらく俺のこと見てくれなくなるやろなって」
 換気扇の音がうるさく響く。さっき大量に入り込んできた冷気たちは、再び暖房によって温められて、私はふと北くんの頬あたりがほんのり色づいていることを知る。
「北くん、顔赤いよ」
「赤くもなります」
「そうなん?」
「俺がなまえさんを好きになったんは、まず何回顔合わせても俺の名前覚えてくれんかったとこ」
 北くんがどっかよその方を見つめながら、なんでもない顔して言う。好きになった要素の話を始めたんだと思うけど、この出だしは違うと思う。
「だからやと思う。なまえさんが初めて俺の名前呼んだ時、めちゃくちゃ嬉しかってん」
「単純やな」
「なまえさん、男バスの人らに厳しかったやろ。"やるならさっさとしや!"とか"頼みごとあるならお願いしますやろ!"とか」
 男バレはというより北くんは、私が想像していた高校一年生よりもっと礼儀正しかった記憶が蘇る。それに比べて男バスなんて学年問わずみんな動物みたいだった。私が怒鳴るのは日常茶飯事で、動物たちは謝るのだけは上手くなった。
「ちゃんとしてる人やなって思ってたんです」
「……ちゃんとしてる人は毎日怒鳴ったりせえへんよ」
「怒るってエネルギー要るやないですか。毎日床モップ掛けして飲み物用意してタオル用意してスコアつけてボール集めて拭いて、ほかにもいろいろやることあるのに更に怒鳴るって、すごいなと思うたんですよ」
 「俺にはできひん」と付け足した北くんを見つめながら、北くんはたぶん静かに怒るタイプだもんなあとぼんやり思う。男バスの動物たちは怒鳴っても怒鳴ってもいつまで経っても同じこと繰り返して言葉だけの謝罪を放り投げてたっていうのに、男バレの一年生は大人びた観点から、好意的な目で私の怒りを見つめていたらしい。
「……随分ちゃんと見とったんやな」
「その時にはもう好きやって自覚してましたから」
「あ、そう……」
 今度は私が赤くなる番だ。
 北くんはそれまで私が好きになったあらゆるタイプの男子とも全く異なっていた。几帳面で準備に余念がなくて、例えば忘れ物なんか絶対しないし、体調を大きく崩すこともなくて、集合時間とか待ち合わせとかに遅刻するような事もないだろう男子。高校生男子としてはどっちが正しいのかわかんないけど、少なくとも私の周りにはいなかったタイプだ。
「部活終わりの帰り道に、歩きながらガム膨らませてたのも、なんやかわええ人やなって思ってました」
「あのさ、これ、長くなるんかな」
「……好きになったとこの話ですよね。もう少し続きますよ」
「もうあかん。いろいろもたんわ」
「その顔、」
「なに」
「そういう顔、いちばん好きです」
 どういう顔だよと心の中で悪態をつきながら、両手で顔を覆う。見られてたまるかという意地が顔を出す。私の方が先輩だし、北くんは高校生で私はもう大学生で、私の方が広い世界を見ているはずなのに、大人ぶりたいのにあんまりできない。少し、ほんの少しでいいから、お姉さんっぽいことしてみたい。お姉さんっぽく思われたい。
「隠さんでくださいよ」
「むり」
「だから言うたのに」
「北くんは私のことお見通しなんやろけど、私は北くんのこと未だにあんまわからんの」
 指の隙間から盗み見た北くんが、一瞬間の抜けた表情をした後、見たことのないふにゃっとした笑顔を浮かべた。一瞬でほぼ元通りの表情に戻ったけど、心臓がドクドク言う。
「…………ええやないですか。これからもっと時間かけて知ってってください」
「気の長い話やな」
「ああでも、知らんとこ知りたいなら、ひとつ面白いことありますよ」
「なに」
「俺もどうなるかわからんこと」
「なんやそれ、教えてみて」
 うっかり顔を覆っていた手を北くんに伸ばしてしまってから、ようやく思い知った。私はたぶん、良くも悪くも北くんにのせられやすい。
「……俺のこと、名前で呼んでみませんか」
「………………」
「もしかして覚えてへん?」
「……覚えとる。てゆか知っとる。当たり前やろ」
 北くんの中ではもしかして私も動物なのだろうか。頭の良い北くんの手にかかれば、私なんて確かに動物かもしれないな。男バスマネ時代の方がよっぽどお姉さんっぽくできてた気がする。
「言うてみて」
 北くんが私の両手に触れて、ゆっくり握った。大きい手のひらだ。年下でも男の人の、手だ。
「………………信介」
 なんてことない名前を呼ぶだけなのに、思わず俯いた。表情は見えなかったけど、確かに北くんの笑った声が耳に届いた。
「すみません、今顔あげんでくださいね」
「見たいけど私も見られたない」
 つないだ手だけが視界に入る中で、北くん──信介が静かに言った。
「キスしてもええ?」
 いつの間にやら敬語じゃなくなった信介相手に、こんな照れてる人間がお姉さんぽくできるはずがなかった。仕方がないのでようやっとの勇気を振り絞って返事をする。
「……ええよ」
「ほんまは触りたいけど、それは俺が卒業したら」
 だからあとちょっと待ってな、と言う信介の顔を、私はやっぱり見れなかった。触れる唇に思う。タバコは捨てた方がいいね。



坂道の下で会おうね

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恋は坂道を転がるみたいに落ちるもんですしねという意図のタイトルです



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