「はなしてください」
 これまで生きてきた中で、これ以上に切実な声を出したことは無いというくらいか細く震えた声が、蚊の鳴くような小ささで室内に消えた。私の上で私の手首を真っ白なベッドには縫い付ける王様が、眉間の皺を深くして、とにかく不快そうに口元を歪める。うつくしい顔の不機嫌な表情というのは、どうしてこうも恐ろしいのか。
「……貴様、この期に及んで未だ我を拒むつもりか? 」
 低い声がますます不機嫌を募らせて私に襲いかかる。手首を掴むちからが強くなって痛むのだって、本当はやめてくださいと叫びたい。
「 我が貰ってやろうと言うのだ。有難がって献上こそすれ、雑種如きが我を拒絶する権利を持っているとでも誤想しているのではあるまいな」
 いっそ眼前に無防備に晒されている首筋に思い切り歯を立ててやろうかとも思うけれど、残念ながら私にはそんなことはできない。何故かって? 命が惜しいからだ。圧倒的であり絶対的な強者である英雄王は、"英雄" と評していいのかわからなくなるほど傲岸だ。以前そんなことを言ったとき、王様は思い切り私を馬鹿にした視線で──いや、あれはその辺を飛んで止まった小さな羽虫を見るような目だったか、そして口の端を捻ってつまらなそうに答えを寄越した。──曰く、自らの能力で名を馳せた者に対し雑種如きの尺度で勝手に思う"英雄"らしき謙虚さを求めることそれ自体が、我よりも大分にして傲慢で不遜な行いである、と。
「………はなしてください、」
 問答になれば結局私には負けが見えている。口でも力でも勝てない私に残されているのは、自分だけの感情だ。
「………さっさと去ね」
 とうとう根負けしたらしい王様が、本気の舌打ちとともにのっそりと体を起こした。解放された手首を擦りながら起き上がったら、手首には赤い痕がついている。王様の力なら、こんな小娘の手首なんてまるで小枝を手折るような気安さで、ポキリとやってしまうだろう。そしてきっとこの人は、そんな時もなんでもない顔をしているのだろう。
「去ねと言われても、あの、ここ私の部屋なんですよ」
 ………そう言ってしまいたい衝動に駆られたけれど、私も一応ばかではないので黙ってベッドから退散した。野生動物の如く安全な距離を見計らいながら、ベッドの上で居住まいを正す王様をそっと盗み見る。金糸の髪、白い肌、形の良い薄い唇、炉心のような瞳、賢そうな額、──どれをとっても神々に大層愛されたと言わんばかりの、完全な肉体のかたち。気だるそうに首を軽くコキリと鳴らすその姿ですらも絵画のようだ。
「破瓜の一つやふたつを随分と大切にしまい込んでいるようだな」
「………一つしかないと思います」
 やっとのことでそれだけ答え、追われてはいまいかとドキドキしながら部屋を出る。完璧な造形の王様を残して、部屋の扉が自動で閉じた。



『我を喚んでおきながら、自らの何ひとつも与えようとはしないつもりか? 』
 以前に王様はそう言った。マスターであるというただそれだけで愛おしく慈しんでくれるサーヴァントたちもいる。けれど王様のその発言は、核心を突いているようにも思った。つまるところ、私は以前からずっと、サーヴァントたちへの負い目みたいなものを感じていたのだ。見ないようにしながら前へ前へと進んでいたのに、ここにきて王様は無遠慮にそこに手を突っ込んで、あまつさえそれをなんの躊躇いもなく引っ張り出してしまった。加えて、王様は引っ張り出したそれをご丁寧に眼前に並べてわざわざ紹介してくれた。

 私は恋をしないまま、ここでサーヴァントを従えるマスターになった。
義務だとか権利だとかを考えて性行為に及ぶことを考えたことはない。私にとって性行為は、愛とか恋とかの証明のひとつであって、請われても脅されても嫌だったら嫌だと言っても良いものだ。………そのはずだ。けれど王様の言葉を切っ掛けにして、ちょっとだけ考えてしまった。私が彼らに何かを与えるのは、もしかしたら義務のようなものなのだろうか。だとしたら、私が彼らに与えられるものなんて、恐らく王様の言う通り私のこの身一つくらいなものだ。



「倫理的にも、それはどうかと思うんです。他のことなら、できる限り善処します」
 カルデア内をさ迷うこと約4時間。4時間もの間、所在なくあちらこちらに顔を出したし、みんなと一緒におやつも食べた。そして戻った自室のベッドには、まだ王様がいた。簡素なベッドの上に横になり、ねぶる様な目付きで私の足元から頭のてっぺん辺りまでを眺めた王様は、そのままの体勢で『心の準備とやらはできたか? 』とだけ言った。どうやら王様は、この至らない雑種に心の準備をする時間を与えたつもりのようだ。冒頭の私の言葉は、それを受けてのものである。
 私の言葉を黙って聞いていた王様が、さも退屈そうに長く息を吐いた。これで人の話をよく聞く人だ。全ての話を聞いてからその後、然るべき順序で一つずつ丁寧に、時には大雑把に、時には乱暴に論破してくる。
「………それで? 」
 頬杖をついた王様が、鬱陶しそうに口の端を曲げる。また『去ね』と言ってはくれないだろうか。そうしたら今度はマシュの部屋に行って、今夜はマシュと眠るのに。私はと言えば王様の、続きを促す圧力になんと答えていいのか、──そもそも、なにを問われているのかわからずに、ベッドの横の観葉植物の葉っぱを見つめている。
「皆まで言わねばわからぬか。貴様の言うその倫理とやらが、いつ貴様の身を助けた? 倫理は貴様の腹を満たしたか? ──貴様は、倫理によって人理を修復したのか? 」
 答えは明白だった。問の答えは否、だ。けれど私の倫理と王様の倫理は違うじゃないか、などと言ってしまえば、きっと火に油を注ぐようなものだろうとは私でもわかる。
「そも、破瓜ごときを後生大事にとっておくとはな。さっさと捨ててしまえばいいものを」
「………王様は、捨ててしまえと思うものが欲しいんですか」
 思わずムッとして、反射的に王様の瞳を真っすぐに見つめた。さっきまで『義務のようなものなのだろうか』と悩んでいたのが、途端に馬鹿らしくなってきた。別に大切に大切にしまい込んで取っておいているわけではないけど、他人に──それが王様であっても、『捨ててしまえ』などとは言われたくない。そんなのはまるで、まるで ──ゴミのような扱いじゃないか。
「私ごときの捨てるべきものが欲しいだなんて、随分浅ましくていらっしゃるんですね」
 これでもかというくらいの侮蔑を込めた嫌みがするすると口から流れ出ていく。そのことに一番驚いたのは、他ならぬ自分自身だ。嫌悪と怒りと侮蔑を混ぜ込んだ言葉は、王様の中でどう解釈され、どう私に返ってくるのだろうか。自分の今夜が不安にもなったけれど、それでも、言わずにはいられなかった。
「…………」
 しかし、王様の唇は引き結ばれ、待てど言葉は出てこない。ベッドの上に横たわる王様と、その横に立つ私。位置関係としてはわかりやすく、私が王様を見下ろしている。赤い瞳がゆらゆらと燃えているのを、どこか他人事のように「きれいだな」と思う。
「ゴミが欲しいなら他を当たってください。私は残念ながら、ゴミを抱えて生きているつもりはありません」
 私の体のどこに、ここまでの怒りが鬱積していたのか。自分を、自分の持ち物を軽んじられて発露した怒りは、これまで何度か感じた怒りとはまた違う。
「………貴様」
 視界にうつる瞳の奥で何かがその燃焼を強くした。王様に助けられたことは数え切れないほどある。そして私はきっと、王様を助けたことはないんだろう。
「出ていってください。……しばらく顔を見たくない」
 ぎしり、とベッドが低く鳴く。王様がゆっくりと、無言で体を起こし、立ち上がった。
「……………アーチャーが必要な場面で、我を編成しない等という愚策は取るなよ」
 冷たい声色に似つかわしくない言葉のようにも思えるたったそれだけを残し、王様は呆気なく部屋を出ていった。気だるそうに、けれど確かな足取りで、背を伸ばして、端正な顔を歪めることもなく。
 扉が閉まったのを確認して、すぐにロックした。気が変わった王様に乗り込まれてはたまらない。室内には高価そうな香りがゆったりと流れている。王様が連れてきた香りだ。思えば私にしては随分頑張ったと思う。王様に殺されなかったのが奇跡のようだ。苛立つ王様と相対した時の私はといえば蛇に睨まれたカエルのごとく固まって震えるくらいしか選択肢はないというのに。

 ベッドに腰を下ろして、息を吐いた。肺に溜まった淀んだ二酸化炭素が、すっかりと入れ替わっていく。王様の連れてきた香りを肺いっぱいに吸い込みながら、誰にともなく呟く。
「ぜったい、あげない」
 それは小さい小さい子供の、意味のないささやかな拒絶にも聞こえた。


エシカの采配






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