煉獄さんの母君は、病で身罷られたそうだ。私はその話を聞いた時も、今と同じように煉獄さんが持ち帰るといういくつかのお団子を包んでいた。作業の片手間に聞いていい類の話ではないように感じた。けれど、煉獄さんはいつも通りの定位置に座って、ぼんやりと人の往来を眺めながら言ったのだ。聞いて欲しい、けれど、深入りはしないで欲しい、とでも言うように、煉獄さんはその話を区切るまでの間、ちらとも私を見なかった。

「お待たせしました!」
「うむ! ありがとう」
 小さく、けれど恭しく頭を下げた煉獄さんが、私が抱えるお団子の包みに両手を伸ばす。その指先は一度も私の指に触れたことがない。そっと、慎重に私から包みを受け取った煉獄さんが、口元だけで穏やかに微笑んだ。触れないよう細心の注意を払っているとしか思えないのは、一度も指先がぶつかったことがないからだ。
 空は青い。快晴の時にしか煉獄さんはここには来ない。そうして、煉獄さんがここに来る時には、ひとつふたつほどの短い話題を私を見ずに提供して、呆気なく店を出ていく。
「……お気をつけて」
 煉獄さんがこの店に来るようになってからどれくらい経っただろうか。ひと月やふた月では足りないその長さを思い、私から何か言っても許されるのではないか、そう思ったのはいつの事だったか。──指先がぶつかってしまえばいいと、何度か過ぎったことがある。すでに、脳裏に過ぎる淡い期待を遠くへ追いやるほどには時間が経っている。最初の一言にはどんな言葉が相応しいだろうかとなんとなしに考え始めてみたものの、気がついたら真剣に考え込んで夜も更けていたことがある。
「……、うん、」
 目の前の煉獄さんは、今までに見たことがなくその目を僅かに見開いて、口角を曖昧に上げている。目線だけがうろうろとさ迷って正直だ。
「すみません、突然」
「いや、……うん、少しばかり驚いた」
 正直な目の人は、やはり正直に率直な胸の内を告げた。
 煉獄さんはいつでも真っ直ぐな人だった。時々傷を負いながらも笑顔を浮かべて現れる煉獄さんと、ただの団子屋の売り子である私の間柄、当然多くを知っているはずはない。けれど煉獄さんが最初に「俺の名は煉獄杏寿郎という」と自己紹介をしたその時から、私は煉獄さんの語る内容を全て覚えている。燃え上がる炎のような髪の毛が風に揺れるたびに、まるで火鉢を前にした時のような心地になった。
「驚かせるつもりはなかったんですよ」
「そうだろうな」
 さもおかしそうに目を細めてくれた煉獄さんは、包みを少し掲げて「また」と言う。だから私も「はい」と笑った。──それで、終わるはずだった。今日という日が普段と違ったこと、私が『お気をつけて』と口にしたこと、そして、煉獄さんが足を進めながらもちらちらとこちらを振り向くこと。
「………」
 お客さんの背を見送ることはままある。けれども、これはどうしたものか。二度三度と振り向くたびに、私は小さく手を振った。その足が、徐々に速度を落とし、和装と洋装がほんの少しだけ混じる幾人かの足元の中で、つま先がこちらを向いた。
「………つぎ、」
「え? 」
 包みを片腕に抱えた煉獄さんがその長い足で駈けて来たのを、どうすることもできずに見守った。駈けて来たはずなのにも関わらず一切息を弾ませていない煉獄さんは、真っ直ぐに私を見下ろしながら、静かに、大きく息を吸って吐いた。
「次は、いついるんだ? 」
「あ、ああ、……えっと」
「すまない、………驚かせるつもりはないんだ」
 ついさっき私が口にしたのと同じように、煉獄さんはそう言ってから片眉を下げて、また口角を曖昧に僅か上げた。
「……そうでしょうね」
 私もまた、ついさっきの煉獄さんと同じように返す。私もきっと普段とは違う出来損ないの笑顔を浮かべているんだろう。動揺は指先に伝わり、指先は薄汚れた前掛けの端っこを弄っている。
「それで、」
「はい」
「次は、いつ」
 そこまで問われてようやく、私は煉獄さんに何を訊ねられているのかを把握した。大体ここでお団子を売ってますよ、と答えるのが常だ。──これまでにも、お客さんから問われたことがある。その度に、そう答えてきた。それでも今度ばかりは思案してしまう。
「すまないな、答えたくないなら無理にとは言わない」
 はっきりとした声で、潔さを含んだ言葉だった。
「大体居るんですけど、突然休みをもらうことがあるんです。突然呼ばれることもあって、きちんとした予定をお伝えできません、………すみません」
「………いや、」
 煉獄さんの後ろで、太陽がゆっくりと傾きかけている。あとほんの二時間ほどで、恐らくこの辺りは橙に包まれるだろう。普段と同じ気楽な着流しの裾を揺らす煉獄さんが、時々寒そうに足首を反対側の足の甲で擦っている。
「あ、明日は、います、けど」
 だからなんだ、という話だというのは百も承知で告げた。二日連続で団子を食べてくれなんて言わないし、勿論思ってもいない。でも、予定を訊ねられている以上は、それに応えるのが最大の誠意のような気がした。
「わかった! 」
 けれど煉獄さんは、満面の笑みでそう言った。
「え、来てくれるんですか? 」
「約束はできないが、来たいとは………思っている」
 あまりにも率直な答えに、前掛けを弄る指先に力が入る。きっと前掛けは、普段なら薄汚れているだけなのに、今日はくちゃくちゃになっているだろう。私の発言をきっかけにして、今日はいつもと違うことが続いている。──指先が触れないとか、話を聞くばかりだとか、快晴の時にしか来ないとか、そんなことをぼんやりと、時にはいつの間にか真剣に深刻に考えながら、そんな月日を経て淡い期待がほんのりとした絶望を運んで、すっかりと胸の奥に追いやって見ないようになかったことのようにしていたのに。
「……………じゃあ、待ってます」
 煉獄さんの足元で、再び足の甲が反対の足首を擦るのを見つめながら、再び前掛けを握る指先に力を込めた。
「待ってる人がいるというだけで、こんなに支えられるものなんだな」
 ぽつり、静かな低い声が頭上から降って、どうしようもない気持ちになる。どうしようもないのに、どうすることも出来ない。胸の奥の奥のもっとずっと奥の方にしまい込んだ私の何かには、名前がない。たぶん、そのことが私をこんな迷い子の気持ちにさせる。
「ずっと、待ってますよ」
 それで良かったんだと思う。名前があったら、こんなことはきっと言えなかった。──例えばいま目の前で足首を擦る広い足の甲とか、目線を上げたその先の薄ら桃色に染まる目元だとか、力の篭もる腕に潰されたお団子だとか、そういうものを順に眺めて、淡い期待が胸に去来して心臓が潰れてしまうことはない。
 煉獄さんが目を伏せて、息を細く長く吐いてゆっくりと吸った。
「じゃあ、また明日会いに来る」

***

 その翌日は、起きた瞬間から慌ただしかった。正確にはまともに眠れていなかったから、日が昇った瞬間から忙しかった、と形容すべきだろう。着物の柄、前掛けは洗って干したきれいなもの、いい香りの椿油、とっておきの紅、まっさらな足袋。それらを枕元に並べて、布団の中で何度も何度も、途中で数えるのをやめたほど寝返りを打った。どうせ昼頃には汗まみれになっているにも関わらず、念入りに鏡台に映る自分を見つめた。
 しかし昼をすぎても、辺りが橙に染まっても尚、煉獄さんは現れなかった。前掛けはいつも通りに汚れて、足袋のつま先も砂で汚れた。着物の合わせは緩くなり、指先はお団子に載る餡子やきな粉にうっすらと覆われた。あれだけ角度を変えて鏡の前で整えた髪の毛は後れ毛が飛び出しているだろう。
「そろそろ暖簾入れてちょうだい」
 店の奥から女将さんの声がする。
「はあい! 」
 いつも通りの返事をして、中に残る何人かのお客さんに微笑みながら店を出た。いつも通りの、煉獄さんがいない日の光景だ。踏み出した草履の下で細かな砂利が音を立てる。棒を使って暖簾を下ろし、抱えて店の勘定台の後ろに立てかけた。戸の向こうには、家路を行く人や行商の人が行き交っている。
「今日はもういいよ」
 いつも通りの女将さんの気のいい声に押し出され、いつも通りに笑顔で「お先に失礼しますね」と返した。店内の常連さんからも「気ぃつけて帰んなよ」と送り出されて、裏手から店を出た。煉獄さんのいない、いつも通りの光景。いつもなら、私はそのまま家に帰る。けれど今日はどうだろう。昨日私の言葉から何かが変わったように、今日も私の行動で何かが変わったりはしないだろうか。期待はせずに、つま先を表通りに向けた。
「………よもやだ」
 路地を出たところからちらと見た店の前、見間違えることのないその人は、確かに煉獄さんだった。見慣れない洋装の足元のその人は、申し訳なさげに片眉を下げながらも、静かに微笑んだ。
「…びっくりしました」
「来れるかどうかわからなかったんだが、………来たら、何かが変わる気がしたんだ」
 暖簾のない店先で、二人向かい合ってみる。ふと見下ろした煉獄さんの足元はとても大人しい。いつもなら、私の知る煉獄さんであればこんな時には足の甲で反対側の足首を擦っていたのに。
「ところで、」
「、はい」
 煉獄さんが、燃える毛先を揺らしながら口を開いた。足元は大人しいまま、つま先が私の方を向いている。
「少し歩かないか。その、もし時間があれば」
 あまり歯切れの良くない言葉とは裏腹に、その表情はあまりにもからりと爽やかだから、思わず笑った。
「はい、えっと、ぜひ」
 さっきまでぼんやりと眺めていた人々の往来に混じって、二人並んで歩く。物珍しい洋装の煉獄さんが、時々となりの私を見下ろして柔らかく微笑む。
「普段と印象が違うから、すこし驚きました」
「ん、ああ! すまない。目立つな」
 煉獄さんは静かに、なんでもないことのように続ける。
「着替えに帰る時間もあったと思うが、それよりも早く来なければと気がはやってしまったのだ」
 正解だった、と笑う煉獄さんの横顔が橙に薄らと染まっている。きっと私の赤くなった顔も染めているだろう橙に感謝しながら、思わず足元に視線を落とした。
「普段、着物しか見たことがなかったけど、洋装もお似合いですね」
 ほんの少し気まずそうに、気恥ずかしそうに曖昧に笑んだ煉獄さんが、ぽつりぽつりとその唇に言葉を載せる。
「うむ、……洋装が多い故に、和装だと足元がどうにもむずむずするんだ」
「なるほど」
 和装の時に足元を擦っていた理由がわかった。察するに、恐らく足首を擦るのは無意識だろう。そんな些細なことを知るのが、たまらなくうれしい。
「……普段、声が大きいとよく言われる」
「そうなんですか? 穏やかな煉獄さんしか知らないから、想像がつきません」
「元は自らを奮い立たせるためだったような気がするんだが」
「……知りたいことが、増えるばっかりです」
 顔を橙に染められているのをいいことに、そして会いに来てくれた嬉しさで、絶対に言えないことも滑らかに唇から放たれる。そんな自分が恥ずかしくて、嬉しくて、地面に視線を落としながらも時々、ほんの少し横を見上げて煉獄さんを盗み見る。
「俺も、聞いて欲しいことがたくさんある。これまでのことと、…………うん」
 わずかな時間のことだ。橙に伸びる並んだ影の間で、一瞬手が触れ合った。指先に絡んだ固い男の人の指。触れて直ぐに解放された指先を、やわらかい風がそっと冷ました。
「……すまない」
「いえ、………あの、こっち見ないでくださいね」
「大丈夫だ。たぶん俺も、その、」
 "俺も" という言葉に、思わず顔を上げた。見上げた先の煉獄さんの顔が赤かった。
「ほんとだ。おそろいですね」
「そうだな」
 照れ隠しに曖昧に笑い合いながら、宛もなくブラブラと歩いた。

「さて、今日はもう帰ろうか」
「……そうですね」
 一瞬繋いだ指先の甘やかさが心臓をぎゅうぎゅうにする。こんな幸福を、私は知らなかった。
「その、」
「はい」
「できれば、また」
「……はい、もちろん! 」
 いつの間にか戻ってきていた団子屋の店先で二人向かい合う。動けば、きっとこうして何かが少しずつ変わっていく。その幸福が、じわじわと去来する。
「また………次はしばらく日にちが空くと思うんだが」
「お忙しいんですね……大丈夫です、待ってます」
 煉獄さんは、そして今日も約束をくれた。二人とも昨日や今日に連なるすべてを伝えずに、それでも並んで歩いたことと、確かに触れた指先が、何もかもをつまびらかにしてしまうような気がする。そんな気配を感じながらも、私たちはやっぱり何も言えなかった。
「列車に乗って遠出するのだ。……そうだ、なにか土産を買ってこよう! 」
「楽しみにしています! 」
 そうして二人で手を振った。次に会った時には、私から聞いてみよう。『煉獄さん、次はいつ会えますか? 』それだけを、ありったけの気持ちを込めて。
煉獄さんが片手を上げて笑った。
「ではまた」

***

 そうして今日も、私は店先で待っている。随分あたたかくなった街で、人々の往来を眺める。

───彼はまだ来ない。それからもずっと。彼は、列車の旅から、帰っては来なかった。なんの報せも受け取る立場にない私は、だからこそ諦められないままで毎日毎日外を見つめる。いつかなにかの報せが舞い込んできてしまうまで──そんな日はたぶん来ないけれど、それまで、私は夢を見る。いったいあなたは何者ですか? と胸の内で訊ねながら。

『煉獄さん、次はいつ会えますか?』
『いつか、毎日会えたらと、その、………思ってるんだが、どうだろうか』



ROUTE418



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