LIII:漂白について


 想いのぜんぶを込めた楽譜を手にした瞬間、その重さに鳥肌が立った。紙の数枚だ。重いなんてことはない。それでも、おれは重く感じた。ありったけのごめんと、ありがとうだけを込めたつもりの、あいつへの、あいつだけの曲。

「……王さまはそう言うと思ってた」
 Knightsメンバーが思い思いに過ごすレコーディングの休憩を利用して、ピアノが置いてある別室に入った。おれの後をついてきたリッツが、鍵盤に指を乗せた瞬間に投げかけてきた問い。「結局、ゴムのことはどうするの? 」おれはリッツの瞳の色を眺めたあと、目の前の楽譜に視線をやって、はっきりと口にした。「見なかったことにする」そしてリッツは安心したようにふにゃりと笑って、そう言うと思ってた、と返してきた。
「そんなにわかりやすかったか〜? 」
「何年の付き合いだと思ってるの? 」
 ふにゃふにゃ笑うリッツに見守られながら、鍵盤を叩いた。なにかが変わればいい。なにかが、あいつに届けばいい。おれがあいつに優しくしようと思うたびに曇るあいつの表情が、変わればいい。

『あの子を抱いたのは俺だよ』
 最後の一小節に差し掛かったところでメッセージの着信を告げた携帯通信端末の画面には、はっきりとそれだけが浮かぶ。楽譜の隣に立てかけた携帯通信端末の画面が光って、最後の音が消えた。

*

 泣きたい気持ちになることが増えた。レオが私に連絡をしてくる、コーヒーを淹れて、隣に座る、他愛もない会話をしようとする、そのことが、私の心をぎゅうぎゅうにして、私はいつでも泣きそうになる。
 これは罪悪感なのだろうか。最初から裏切っていたのに、今更? ひどい女なの。だからお願い、私の心を揺らさないで。

 夢を見る。祈る。変わっていくレオに願う。どうか、私に手を伸ばさないで。優しくしないで。気持ちが揺れてしまう。

『王さまに連絡した。ごめん』瀬名先輩から突然届いたメッセージに、心臓がバクバクと音を立てる。

*

 一瞬、視界が揺れた。俯いた王さまの右手は拳に握られることもなく、力なく俺のみぞおちの当たりに僅かな衝撃を残しただけだった。顔は勘弁して欲しいと思っていたにも関わらず、本当に王様が顔を避けたことを、信じられない。瞬間的に、王さまがずっと、ここに来てから、来る前から、冷静だったのだと理解した。
「セナ」
「なに?」
 絞るような声に、一瞬だけ心が軋んだ。大切にしていたもの、大切だったはずのものが、今目の前で壊れるのかもしれない。
「……なんでだ」
「なんでって? 王さまが大切にする気のない人を、俺が必要としたこと?」
 目線の下で、いつか見慣れた通りのぼさぼさの髪を後ろで乱暴に結んだ尻尾と、その肩がびくりと揺れる。最近はきれいにしてたのにねえ、と、他人事のように思う。
 視界の中では、なるくんが眉根をほんの少し寄せて視線を逸らした。なるくんは聡いから、きっと、いつからか気付いていた。俺が彼女を手放そうとしながらそれでも手放せなかったことを、もしかしたら最初から知っていたのかもしれない。かさくんが拳を握って涙目になっている。何を言えばいいのかわからない、迷子の眼差しだ。王さまの後ろのくまくんだけは、その表情からは何も読み取ることが出来なかった。
「それでも、あいつは俺の」
「…………」
「おれ、の」
「王さまの、何? あの子はずっと王さまの何だったの?」
 いつの日かこんな風に何かが終わるための始まりが来るとはぼんやりと思ってた。覚悟していたはずなのに、覚悟していたから彼女を抱きしめたはずなのに、今になってどうしようもない気分になる。王さまの代理戦争を決めた時の覚悟を今更になって断念する気持ちが滲んで、俺の口元には自然と嘲笑めいた笑みが浮かんだ。
「………………」
「答えられないのに、それでもずっとそばにいるものだと思ってた? 」
「……違う」
 彼女が結婚を決めた理由を、俺は知らない。たぶん、王さま自身も知らない。知らないからこそ望みを捨てきれないのは二人とも同じだと思う。けれど、想像する先の帰結は、恐らく正反対だ。正反対のはずだ。
「王さまは、……れおくんはわかってるでしょ。俺はね、ずっと、あの子が好きだよ。好きなんだよ。これまでも、これからもずっとね」
 王さまが、静かに息を吐いた。そして、ゆっくりと顔を上げた。その眼差しは、想像よりずっと、意志の強さを宿していた。
「あいつのことが本当に必要だったのは、必要なのは、セナじゃない。おれだ」
 視界の中で、ナルくんが目を見開いた。そしてくまくんが、眩しそうに目を細めた。

「だってセナは、あいつがいなくても普通と同じように生きていける」

 その言葉に頭に血が上って、拳を振り上げた。俺の腕を制止するために、半ばしがみつくようにしたかさくんと、意外なことにくまくんが、発する言葉を探すように口を引き結んだまま俺の腕に手をかけた。
「一体、人がどんな想いでアンタを……」" 守ろうとしてきたのか " 続けたかった言葉は、喉に引っかかって出てこなかった。結局守るどころかめちゃくちゃにするんだから、説得力のかけらも無い虚ろな言葉だ。二人分の感情を掛けられた右腕を下ろす。
「…………王さまが、俺が普通に生きていけるって思ってるなら、きっとそれまでの関係だったんだねえ」
 唇からこぼれ落ちたセリフが、負け惜しみのように響いて床に落ちた。同時にどこか安心した。俺が王さまを知らないように、王さまも俺のことを知らないじゃないか。知ったつもりになっていた学生の頃の自分が、遠くで手を振っているような気がした。






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