名前を呼んでも返事がない時、彼はいつもそうするように、とびっきりの優しい声に切なさを込めて「こっち向いてくれよ」と囁く。そうして彼女はいつも、文句を言いたげに眉根を寄せながらも彼に向き合い、ひとつふたつくらいの嫌味を口にして、息を吐く。そう、いつもなら、そんな風にふたりはお互いを甘やかして、許し合う。いつもならそのプロセスは既定路線であり、既定路線が故にさほどの時間はかからない。

・・・

 さて、ではまず今の状況から説明しよう。彼──青井有紀は、普段通り自らが所属するバンドのメンバーと気持ちよくビールを飲み、気持ちよくビールをこぼし、ボーカルに柔らかに叱りつけられながら気分よく笑い、そうして彼女の家に乗り込んだ。彼は手の中の合鍵を電気に翳し、銀色に鈍く輝くそれを見つめながら息を吐く。途方に暮れているのだ。その理由はたったひとつ、今彼の目前でソファの上に横になり、足を投げ出して分厚い本を読み耽る彼女にある。今、ソファの上で優雅に読書している彼女の足元で、彼は床に座って投げ出された白い足首を視界に入れるしかできずにいる。
「なあ、……怒ってるのか?」
「怒られるようなことしたの?」
 存外弱りきった声が出てしまった彼が、言い終えてから小さく咳払いした。アルコールが入っていることを差し引いても、どうにも喉が渇くらしい。彼女の声色は普段とほとんど変わりないように見える。ただし、彼女の瞳に彼の姿は映らない。一瞥もせず、本に視線を落としている。
「………………夕星か」
 からからの喉で、彼はようやくそこに行き着いた。喉が張り付いて声が上手く出ない。さっきまではご機嫌にアルコールを煽って、メンバーに絡んで、ついでに近くにいたボディラインがあらわなお姉さんに絡んでいたというのに。
「楽しく飲めたようで良かったですねえ」
 彼女は尚も顔をあげない。頬に落ちた髪を適当な仕草で耳に掛け、今日はいい天気でしたねえ、というどうでもいい話と同じトーンで彼に返した。とうとう彼は天井を仰いだ。女性を丸め込むのはお手の物、という雰囲気をこれでもかというくらい漂わせて生きている彼だが、どうにもこうにも具合が悪い。そも、彼が手に握ったままの合鍵だって、彼が3度彼女に頼んでようやく受け取ることが出来たシロモノである。
「何もなかったですよ。当然」
 彼の言葉に時折敬語が混ざるのは常だけれど、今回は他に意図が見え隠れする。どうにかこの窮地を切り抜けなければ明日はないぞと心臓がうるさく騒ぐ。残念ながら、彼女にはそんな小手先の技は通用しない。なぜなら彼女は、彼と所謂恋人という関係に落ち着くまでの間ずっと、彼を観察し続けていたのだ。
「ふぅん。腰に手を回して、お尻撫でて、首にキスして、何もなかったんだ」
 面白がって逐一報告したのだろうメンバーの一人を脳裏に思い浮かべて、彼は想像の中で両頬を挟んでぐりぐりにしてやった。彼と連絡先を交換するよりも早く、彼女と連絡先を交換したのは、バンドメンバーの一人である音石夕星だった。彼は苦々しく、そして彼らしくもなく、毎度『夕星の連絡先消してくんないかな』と思い続けている。当然のように、音石のスマホから彼女の連絡先を削除しないことにはなんの解決にもならないことに、彼は気づいていない。

・・・

 元々はボーカルの天城成海の紹介で出会った。天城成海は彼女を『しっかりした女性だよ。お姉さんって感じ』と評していた。当時かわいらしくまとわりついてくる、体はお姉さん、精神はお嬢さんタイプの女性ばかりを相手にしていた彼は、あっさりと『お姉さん』な彼女に手を伸ばした。しかして、物理的に伸ばした手はあっさりと振り払われた。それはもう小気味よい音が響いて、それを目撃した音石夕星は爆笑したし、天城成海は得意げに鼻を鳴らし、残るメンバーの黒沢忍は感嘆の唸り声をこぼした。天城成海の胸の内に、『彼女はこいつらの手中に陥落しないぞ』という確信めいた信頼があったことは言うまでもない。誤算だったのは、青井有紀が意外にも彼女に再三連絡先を聞いて、その後ナンパをしなくなって、隙あらば彼女にコンタクトを取ろうと試みて、彼女には容易に触れず、できる限り彼女に優しく接しようと努めていたことだろう。かくして、彼は彼女と恋人同士になる前に、天城成海から彼女に手を出す許可を取る事になった。
 さて、彼女はと言えば、既に天城成海とのホットラインが繋がっていた。つまるところ、彼らの素行の一端は、既に彼女の知るところだった。『今日も有紀はナンパに行っちゃった』だの『トイレ行ってから30分経ったんだけど出てこないから心配してたら女の人と出てきたっぽいんだけど何してたんだろう』だの、世間話にポツポツと現れる彼の褒められない行動。それを彼女は、メンバーたちに紹介される前に知っていたのだった。加えて言うなら、彼と彼女が恋人になる前、彼のアプローチを目の当たりにしていた天城成海は彼女を心配するあまり、その他の女性関係の悪行も彼女に洗いざらいぶちまけた。最後に『そんな男なんだけど、大丈夫?』と付け足されて、いくら顔が良いとは言っても『大丈夫』と即答できる女はいないだろう。彼女も当時ご多分に漏れず、『嫌だよそんな男』と返事をした。

・・・

 つやつやしたサテン生地のショートパンツに、同じ素材のキャミソール、グレーのカーディガンという出で立ちの彼女は、腰に薄っぺらなブランケットを巻き付けてソファの上で足を組んでいる。静かな室内に、紙をめくる音がいやに大きく響いた。
「悪かったよ」
 彼はようやく、天井から彼女に視線に戻してそれだけを口にした。特段彼に対して盲目になっているわけでもない彼女は、やはり彼を見ずに、ページの1枚に指を滑らせた。
「なあ、こっち向いて」
 いつも通りのとびきりの甘い声は喉がからからに渇いているせいで恐ろしくセクシャルに掠れた。残念ながら彼女には通用しなかったようだが、それでも彼女はようやく床の上の彼に一瞥をくれてやった。
「アルコールの匂いは別にいいけど、その甘ったるい気持ち悪い香水の匂いはどうにかなんないの?」
 彼女の双眸の前に、彼の背筋にぞくりと何かが走った。確かに肩のあたりからそんな匂いがするようなしないような、という心許ない気分にもなったが、それを打ち消すように欲望のまま目の前の足首を掴んだ。
「なあ、妬くならもっとかわいく妬いてくれよ」
 さっきまでの殊勝な態度はどこへやら。明らかに嫌な顔している彼女がはっきりとした拒絶を示さないのをいいことに、彼は彼女のふくらはぎに噛み付いた。

・・・

 彼の心臓を捕まえたのは、彼女の人あしらいだった。音石夕星と連絡先を交換した後の彼女に、彼も乗っかって『俺にも教えて』と囁いた。ついさっき音石夕星のスマホの画面に自分のスマホのカメラを向けてQRコードを読み取っていた彼女はあっさりと、『スマホ持ってないんで』と言い放ったのだった。こんな女初めてだよ、なんて陳腐なことは言うまい。けれど面白くなかったのは事実である。その後もトイレに立った彼女が戻るタイミングで女性が好きなタイプのカクテルをオーダーしたが、彼女は『他人が頼んだお酒は頂かないことにしてるの』と素っ気なく言って張り付いた穏やかな微笑みを湛えた。それは人あしらいというより、事前に入手していた素行から導き出した青井あしらいだったのだろう。とかく、不思議なことに彼はわずかでも彼女に執着する素振りを見せた。すぐに手に入る女ばかりを食い散らかしてきたが、なかなか陥落しない女を手中に収めるのもまた、男の醍醐味なのだろう。しかしそうは問屋が卸さない。最終的に、彼女の『3回まわってワンって言って』という言葉に億劫そうに従い、頬ギリギリの場所で小さく『ワン』と鳴いて連絡先をゲットした彼を、メンバー3人は信じられない眼差しで、気味悪そうに、気持ち悪そうに見守った。

・・・

「単純な男でいやになる」
「その単純な男が好きなんだろ?」
 ふくらはぎに歯を立てて、膝に唇を落とした彼が、彼女に馬乗りになってブランケットを剥ぎにかかる。彼女の口から零れたのは、諦めのため息だ。
「いま、心底別れたいと思ってる」
「俺がはいそうですかって別れてやると思ってんの?」
 苦虫を1ダースくらい噛み潰したような顔をした彼女に、彼は両手を上げて降参のポーズをとった。観念したらしい。
「シャワー浴びてくる。出てきたら抱きしめさせてくれ」
「…………早めにね」

・・・

 彼が彼女に恋をしてしまった日、甘い声や性的な意図を隠さない指先が通用しないことを知って、彼は思いのほか苦悩した。どうすれば、彼女が自分を見てくれるのか。あまりにも青臭い悩みだ。それを恋と形容できないまま、ガキじゃあるまいし、と嘯いてみても、事態は一向に進まない。主に性的な駆け引きばかりを身につけて、心は全部音楽に捧げた。彼女が自分に、自分たちに一線を引いて向き合う、その正しい距離感に強力に惹かれたのだ。彼女の前でなら、自分を取り繕ってあなたが世界で一番ですという顔をしなくても良いのではないかという淡い期待が膨らんだ。惹かれたと自覚してからの彼は、周囲が天候を心配するくらいには慎重だった。それが彼女の心を揺らして、動かしたのだから結果オーライだろう。


「好きだよ」
「嘘ばっかり」
「嘘じゃない。一番ではないけど」
 濡れた髪のままでソファに乗り込んできた彼の体重を甘受しながら、彼女が笑って瞼を落とした。結局、付き合い始めてからもしょっちゅう女性にちょっかいを出している彼を、彼女は許し続けている。もちろん知らない女とセックスまでしようものなら瞬時に関係を切る潔さを持ち合わせているが、彼はそうしないし、必ず彼女の元に帰る。そして彼の感情と行動の行き着く先を許容できる女性はさほど多くない。彼女はそれをわかっているから、今日もまた許してしまう。何の因果か、彼女は彼がはっきりと『一番ではない』という、その率直さに惹かれてしまったわけだ。
 湿った皮膚の上を、髪先から落ちた水滴が転がって、サテン生地のキャミソールに落ちた。
「なんでこんな男好きになっちゃったんだろう」
「……もう一度言って」
 黒髪の隙間から見えるインナーカラーを苦々しく思いながら、彼女が返事の代わりに彼の唇に噛み付いた。


 連絡先を交換した直後、彼から彼女への一番最初のメッセージは『覚悟しておけ』の一言だった。たっぷり2日の間を空けて、彼女から彼への返事は『どっちが』の一言だった。


 ふたりは今日も、互いの首に互いの指をかけながら、あらゆる手段で愛を伝えようと試みている。かくして、いつもより時間を掛けた化かし合いは、これにて収束を迎えたわけである。





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