長い廊下をゆっくりと歩く。放課後の学校はとても静か。時おり、音楽室から聞こえる金管楽器の音色に少しだけ淋しくなりながら、既に引退した部室へと向かった。
「…失礼しまーす」
少し前までは軽い気持ちで飛び込めていたはずの扉が何故か重い。どうやら後輩たちはいないようだ。
「…やっと来たか」
「あたしにだって用事があるんです」
「それはすまない」
その教室の窓際。彼は先日切ったのだと言う短髪を風に微かに揺らしながら、こちらを振り向いて笑う。
「桂先生、何か用ですか?」
「あぁ、資料作りを手伝ってもらえないかと思ってな」
「はぁ…」
坂田先生の皺くちゃの白衣とは対照的に、きちんとアイロンでプレスされた真っ白な白衣が、先生が歩くたびに小さく翻る。
「…髪、伸ばさないんですか?」
「ん?あぁ……短いのに慣れてしまったからな」
「ふぅん」
「…長い方がよかったか?」
「どっちでもいいです」
部活を引退するまでは、ただなんとなく過ごしていたこの空間。それが引退した途端、何故だか泣きたいくらいに眩しくなってしまった。手が届いていたはずのものに触れられなくなったような、そんな小さな痛み。それと同時に、あたしはもうずっと先生に恋していたのだと気づかされてしまったのだ。
柔らかい雰囲気。古めかしい物言い。几帳面さが現れる服装。たまに抜けてて、でも真剣な表情はかっこよくて。
これを恋と呼んだのは、図らずとも引退したあとだった。
もし引退する前にこの気持ちを恋と呼ぶことができたなら、少しは積極的になれていただろうか。
「どうかしたか?」
「いえ、なんの資料かなーと」
「部活で使う資料なんだが、どうせなら教科書に載っていない方がいいだろう」
ギシ、と先生が椅子に座って、机を挟んだ向かい側の椅子にあたしも座れと促す。それに従って椅子に座り、先生が広げた紙を手にとった。
「ホチキスで留めるだけですか?」
「そうだな……と、ん」
「?なんですか?」
先生はもぞもぞと、椅子の収まりが悪そうに体を揺すると、白衣のポケットから角の潰れた小さな箱を取り出した。
「…これのせいか」
「それって、グロス?」
有名なブランドの箱。黒い小さな箱には色とりどりのバラが円を作っている。高校生には簡単に手を出せないアイテム。
「あぁ、そうらしい」
その箱を摘まんで困ったように笑う先生に、ココロがずきんと痛む。彼女からの預かりもの、かな。見たくなくて自然と目線は下がり、手をホチキスに伸ばした。
「これをやろう」
トン、とプリントの上に立てられた箱。思わず顔を上げたら、さっきよりも困った顔の先生がいた。
「これが似合うようになったら、いつでも来い」
箱の中から出てきたのは、黒いバラの形のキャップをした、鮮やかな赤だった。
染まるココロ
唇まで染めて、どうするつもりなんですか
「…どういう、」
「女子の欲しいものなんか、生憎わからなくてな」
眉間に皺を寄せて笑う先生。あたしは、期待してもいいのでしょうか?
恐る恐る手にとったグロスのボトルに、先生があたしの頭を優しく撫でた。