仕事続きの毎日の中ですり減っていったのは、一体なんだったのか。体力、気力はもちろんのこと、いろんなものへの熱意だとか情とかも、仕事へのエネルギーに変換するために少しずつ使ってしまった気がするのだ。つまるところ、例えば会えない恋人への愛情だとか。
 仕事の合間に「会いたくなったから」と会社の近くまで来てくれた夕星はもういないし、続く残業のあとでも家に寄って夕星を抱きしめた私ももういない。夕星はほんの時々スマートフォンのメッセージアプリで、お酒の場の写真を寄越してくる。私は夕星の家に行く回数がめっきり減って、行っても持ち帰った仕事をしながら背後で夕星が苛立ちをまといながら吸いさしのタバコを灰皿に押し付ける気配を感じ取る。
 前にもらった銀色の、星の形をしたキーリング。貰ったその時に「自己主張の激しい贈り物だなあ」とぼんやり思ったそれは、所々が錆びていて、金具が緩くなっていて、まるで、いまの私たちの関係みたいだ。

「プロジェクト無事完了!お疲れ様でした!」
 フロアの一角に集まる集団の中で同僚が、缶ビールを注いだ安っぽいプラスチックコップを高く掲げた。それに合わせて全員が同じコップを持ち上げる。プロジェクトのサブリーダーとして過ごした半年に、ようやく一つのピリオドが打たれたこの日、私はやっと、肩の荷を下ろした。
「まだ残務があるなんて」
 睡眠不足とストレスによる肌年齢の上昇に抗うことを諦めた、リーダーである同僚がため息混じりに呟いて私の肩に頭を載せる。
「でもこれで休みが取れるよ。おつかれ」
 残務のことなんて考えたくはないけれど、頭の中で残りタスクをざっと数えた。少なくはない数が浮かんだものの、この半年、というより終盤の混乱を思えば嘘のように簡単なことのように思える。「そっちも、サブありがと」と優しく口にして、彼女は勢い良く顔を上げた。
「私ぜったいしばらく週一でエステ行くからまたしばらくサポートお願いね!」
 取り戻せ肌年齢。リーダーの重責から解放されつつある同僚に心の中でエールを送って、宴会会場と貸したミーティングスペースの、そのテーブルの上に目を向けた。ケータリングの料理は部長が気遣ってくれたお陰でかなり美味しそう、そして高そうに見える。ただしそれらを取り分けるのは割る前からガサガサの割り箸と、ぺらっぺらの紙皿だ。
 並ぶ飲み物はペットボトルのお茶、オレンジジュース、そこらへんで売ってる缶ビールとチューハイに、誰が持ち込んだのか日本酒のボトルが一本。色気の欠けらもない、らしいと言えばらしすぎるラインナップだ、そう、ふつうの、一般人の、会社員らしいラインナップ。
 ふと、いつだったか夕星に半ば強制的に連行されたお酒の席を思い出した。一般家庭と形容するには大きい一軒家に当たり前にずかずかと上がる夕星に手首を掴まれたまま、お邪魔しますも言えずに招き入れられたリビングルーム。広いテーブルの上に所狭しと並べられた見た目にも美しくて絶対においしいと確信できる手料理たちと、見たことがないけどボトルのラベルから辛うじてビールとわかる瓶たち。"はるはる" さんは「やっと連れてきてくれたのね」と笑った。
 はっと我に返って、思わず周囲に視線をめぐらせた。これはただの感傷だ。誰にともなく何かを否定するように頭を横に振ってから、ほとんど無意識に右手の中でメッセージアプリを起動したスマホを、考え直して再びジャケットのポケットに放り込んだ。.......だいたい、今更何を連絡するというのか。それでなくとも、直近のやり取りは既に3週間の、夕星から送られてきたお酒の写真と、それに対する私からの無機質なスタンプひとつの返事なのだ。

★☆★

 星を贈り続けた。最初はシルバーの星がぶら下がるネックレス。次はゴールドの小さな星が揺れるピアス。その次はシルバーの大きめの星型のキーリング。更にその次は星が光るフェイスの腕時計。結局彼女が気に入ったのは、キーリングだけだったらしい。

「夕星って、飲み会の時毎回写真撮るよね」
 成海が何の気なしに口にした。それを聞いたゆっけがむかつくニヤニヤ笑いを浮かべて「送るんだもんな?」と追い打ちをかけてきた。送っても返ってくるのは意味のないスタンプ1個だけどね、と心の中で言ってから、「記念みたいなかんじ〜」と気のない返事をした。タバコを口にくわえて、火をつける。一吸い目の煙を吐き出してから、スマホでいつもと同じようにメッセージアプリを起動して、撮ったばっかの写真を送った。
 いつから、どこから変わったのかなと漠然と思う。彼女の口数が減って、ため息ばっかりになって、お互いにどうにか時間を擦り合わせて会っても会話は弾まなくなった。彼女が僕に料理を作ってくれることもなくなって、僕が作った料理も残すようになった。いつもいつも、折角僕んちに来ても大量の紙っぺらとにらめっこしてた、かわいくない僕の恋人。気がついた時にはもう、彼女から僕に対して「会いたい」という連絡は来なくなっていた。
「彼女、まだ忙しいのか?」
 あれっきり静かになってしまった僕を心配したのか、ゆっけが神妙な声で僕の耳に唇を寄せた。気持ち悪くて距離をとった。
「知らなーい」
 本当に知らないから、それ以外答えられない。送った写真には、すぐに既読がついた。疲れきった表情の彼女に、何度も「仕事辞めちゃえば?」と言おうとしたけど、とうとう言えなかった。なんとなく居心地が悪くなって視線をめぐらせた先は、窓の外だった。
「いつの間にそんな臆病になったんだか」
 ゆっけがため息混じりに言った。表情なんか見なくてもわかる。たぶん、ウザい顔をしてる。
 無視して、窓のそばまで行ってスマホでカメラを起動した。窓越しにシャッターを切って、メッセージアプリを起動する。
 僕は、この期に及んでまだ星を贈る。

★☆★

 社内での申し訳程度の宴会とメール処理が終わった帰り、リーダーからの飲み直しのお誘いをキャンセルして、私は夜空の下で腕を組んでいた。お誘い断らなければよかったかな、とよぎる。唇を噛んで、スマホの画面を見下ろす。開きっぱなしのメッセージアプリの、夕星とのやり取り。うだうだしながらも結局撮影してしまったミーティングスペースでの宴会写真を選択したまま送信出来ていないそれが、まるで今の自分のようだと思う。のろのろと足を進める。何事もなく自宅に帰るか、はたまた夕星の家に乗り込むか。.......今更なような気がする。今更夕星の家に行って、きっと夕星は留守だから合鍵で家に入って、待つのか。合鍵を使う権利は、今も私の手中にあるのだろうか。とうとう途方に暮れて、頭上を見上げた。夜空を見上げるなんて久々だ。瞬間、手に持ったままのスマホが短く振動した。画面に視線をやったら、夕星からのメッセージを告げるポップアップが表示されている。すごいタイミングだな、と息を吐いて、メッセージアプリを起動した。どうやら夕星はまさに今飲んでるらしい。次いで、再び写真が送られてきた。夜空で瞬く星を切り取った写真。思わず笑って、私もカメラを夜空に向けた。やけに大きいシャッター音が響く。もういいよね。解放してあげよう。錆びたキーリングなんて、ゆっくり忘れてしまおうよ。何故か鼻の奥がツンと痛んだ。
『いまどこ』
 貼り付けたままにしてた宴会の写真と、撮ったばかりの夜空の写真を送った直後、夕星から短いメッセージが返ってきた。
『帰るところ』
 久しくやり取りしていなかった文字のメッセージに、一番最初にIDを交換したその日の夜を思い出す。面倒くさがりに見えた夕星は、なんだか予想とは違ってマメに返事をくれた。そのせいでなかなか眠れなくて、翌日眠気に苛まれながら仕事をしたっけ。
『今から行く』
 どこに?何しに?腕時計を見下ろして、今が20時を少し過ぎた時間であることを確認して、どう返事をしたものか考える。生ぬるい風が首元を撫でて、指先を首元に当てた。そこにおわすは銀色の星。会わなくなってからようやく身につけたネックレスに、苦々しい気持ちになる。貰ったばっかりの頃、なかなかどうして気恥ずかしくて、とうとう身につけたところを見せることはなかった。会う度に首元を一瞥して気に入らなそうな目をしていた夕星。
『飲んでるんでしょ。楽しんで』
 思い出にすがりついて、勝手に支えみたいにして、恋人そっちのけで仕事に向かい合った。ああ、それでも。それでも夕星は、私の手を離さないでいてくれた。
『言わなきゃわかんないの?会いたいんだよ』

★☆★

 彼女から届いた写真に、自分が一番驚いた。僕から送ることはあっても、彼女から送られたことのない写真が2つ。つまんなそうな飲み会の写真と、ピントが合ってなくて星がぼやけた写真。
 まだ大丈夫。間に合うでしょ?自分に言い聞かせて、「僕帰るぅ」と言ってから引き留められる前にそそくさと席を立った。返事がないから視線をあげたら、成海が少し赤くなった顔で笑った。
「行ってらっしゃい」

 会ったらまず何をしよう。何をしてやろうか。長いこと半ば放置された身としては、何か言ってやりたい気もする。けどたぶん、今はそんなタイミングじゃない。夜空の下を歩きながら、だんだんスピードが上がっていく。抱きしめて、キスして、手を繋いで?そんなんでいいのかな。彼女がっていうか僕が。彼女と出会う前だったら信じらんない行動のゴールは、本当にそれでいいのか?

 なんとかその場に留まらせた彼女の背中が視界に入って、息を吐いた。実のところ疑心暗鬼だったわけだ。仕事のあと、しかもお酒が入ってて、本当に待っててくれるのか。あーもうほんと、僕らしくない。なんなのこれ。
「おつかれぇ」
「.......お疲れさま」
 目は口ほどに物を言うとはこのことか。というか彼女は僕と目を合わせない。視線は一度僕の胸あたりを掠めて、それから左右に揺れて、地面に落ち着いたらしい。
「夜の公園で待ち合わせとかエモ〜い。ね」
「そうかな、.......そうかも」
 固さのある声は、緊張をまざまざと表している。素直な子だなぁと今更ながら感じる。
「.......仕事、まだ忙しいの?」
「.......いや、えっと」
「ん?」
「今日、一旦プロジェクトがね、終わった」
「.......ふーん」
 それであの写真か。それで、仕事が一区切りついたことを、僕には言わなかったのはなんで?
「あのさ、夕星」
「買い物付き合って」
「え?は?」
 思いがけなく、でもないけど、なんか真剣なトーンの声に肩が震えた。彼女を公園で待たせて、本当に待っててくれたその背中を見つけた時からうっすら気づいてた。待っててくれた安堵感と一緒にやってきたのは、漠然とした恐怖だった。
「.......買い物、行こ」
 むき出しの彼女の指先に触れてみた。指先がびくりと震えた。おかまいなしに、指先を握った。
「何買うの.......?」
 諦めたのか、伺うような小さい声が地面に落ちる。何買おうか。取って付けたようなかっこ悪い誘いに、たぶん彼女は気づいてるんだろう。
「星のかたちのキーリング」
 例えばさっき送りあった星の写真。たぶん、あれが、あれだけが、今の僕たちを繋いで、まだ大丈夫だと励ましてくれる唯一だ。

★☆★

「僕はもう、間違えないつもり」
 真新しいキーリングを指先に引っ掛けて追い詰められているのは夕星の家の壁だ。たかがキーリングなのにと目を疑う価格のそれを事も無げに店員に押付けた夕星は、そのまま私の腕を引っ張ってさっさとタクシーを捕まえた。
「.......なにを?」
「伝えなくちゃいけないことをー、ちゃんと伝えられるってことぉ?」
 夕星の唇が、私の唇ギリギリのところで、湿っぽい息を吐く。真っ直ぐな瞳と対極にありそうな、普段通りの軽い話し方。
「伝えなくちゃいけないこと」
 反芻するように、自分に言い聞かせるように口にしてみた。さっき飲み込んだ言葉が、首をもたげる。「もう別れよっか」と、なんでもないことのように口にできたら、そうできたらどんなにいいだろう。
「例えばさっきから思い詰めた顔してるかわいくない恋人に言わなきゃいけないこととか」
 .......それは例えばじゃなく限りなく正答に近いのでは?
「わたし、は」
「ざんねーん。いま、お前には聞いてねえよ」
 あっさりと掴まれた両手首が壁に押し付けられて、夕星の薄い唇が文字通りばくりと私の唇を食べた。
「.......、んぅ」
「どうしたの。キスの仕方も忘れちゃった?」
 今のはキスとは言わない!と、反論したかったのに反論できなかったのは、目の前で、本当に目と鼻の先で、夕星の瞳に薄い膜が張って、そして、小さく、零れたから。電気もつけてない室内で、窓から差し込む月の光に反射して瞬いた涙に、夕星が嘲るような笑みを浮かべた。
「、ゆうせい」
「.......たりなぁい」
 両手首を壁に縫いつけたまま、私の肩口に額を押し付けて動かなくなった夕星の髪が、頬をくすぐる。
「.......ゆうせい」
「もっと」
「夕星、」
 私の手首を掴む大きな手のひらから、ゆっくりと力が失われていく。スティックを握ってドラムプレイをする、皮が厚くて固くなった手のひら。
「待つのって、つらいんだよ」
 ぽつり、と耳元で聞こえた低い声が、微かに震えていた。
「.......うん」
「でも僕だって、待てる」
 とうとう解放された手首が、重力に従って落ちた。チャリ、と、金属の音が室内に高く響いた。視線だけでそれを追ったら、そこには握りしめられたままの、星のかたちのキーリングがあった。
「.......私のキーリングが錆びてたこと、知ってた?」
「何それ。もっと早く言ってよ」
 変わらず顔を上げないままの夕星が、わざとらしい不機嫌な声で答える。
「..............新しいキーリング、」
「ん」
「その、ありがとう」
 静かに顔を上げた夕星が、片眉を下げて歪にわらった。
「ネックレス、つけてくれてた」
 胸元を指さして、そして、ようやく私がよく知る笑顔を浮かべて、瞼を伏せた。まつ毛に煌めく小さな星に、ようやく私は思い知る。
「.......本心だってわからないことは、言っちゃだめだね」
 夕星に倣って、瞼を伏せた。キスの仕方を忘れたなら、また2人でやり直してみようか。

「好きな人なら、待てるんだよ」
 待たせるばっかだったんだけどねぇ、と小さく付け足した夕星が、幼子の様相で情けない笑みを浮かべた。重ねただけの唇が離れてから、私はやっと、この男の愛情深さを知ったのだ。





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