XLI:防波堤について


「リッツに、間違い探しを勧められた」
 それは、ただの、ほんの軽口だった。自分にそう言い聞かせるように、俺は少し前からごく自然に居座るようになったリビングルームのソファに座って足を投げ出して、意図せずくつろいだ口調で投げかけた。
 それが、キッチンにいるあいつから返事がないことが気にかかって、顔を上げた。ゆっくりと氷が溶けていくように、顔を合わせて、挨拶を交わして、ほんの少しの連絡事項を口頭で伝え合い、微かな緊張を持ちつつも雑談する関係になっていたから、そう思っていたからてっきりすぐに返事があるものだと思っていたのだ。
「…………何が間違いだった?結婚したこと?一緒に暮らしたこと?付き合ったこと?それとも、出会ったこと?」
 想像とは違う声が、静かにリビングの床に落ちた。
 たとえば泣きそうな顔で俺を責めてくれればよかった。そうすればきっと、軽はずみな俺の言葉に傷ついたんだと思えた。もしかしたら俺に何かの感情が残ってるんじゃないかと、そう思えた。けどあいつは笑っていた。自嘲気味に、心底から何かを嫌悪する仕草で、口角を上げた。 

「決壊はいつでもすぐ近くにあるってことでしょ」
 事の発端であるリッツが、アイスティーの入ったプラスチックのコップの中をストローでかき回している。間違い探しを提案した張本人とは思えないほど他人事のように口にするリッツに対して、責任転嫁も甚だしいとも過ぎったのに、それでも何かを責めたくて、誰かのせいにしたくて仕方がない。事の顛末を掻い摘んで" 報告 "したつもりだったのに、図らずもそれは " 相談 " になって、みんなが不安げにおれを囲んでいる。
 揺れるアイスティーの水面から視線を上げたら、ナルが不安げにセナを見つめているのがはっきりとわかった。
「セナ、何か言いたいことがあるなら言って」
 自分でも驚くほど焦った声色に、セナが俺の目を真っ直ぐに見つめる。
「あの子は、とっくの昔に限界を超えてたよ」
 視界の中で、ナルがあからさまに安堵の色を浮かべて小さく息を吐いた。


*

 くまくんがれおくんに「間違い探しをしてみたらいいんじゃない」と言った時の、くまくんの真摯な眼差しを想う。結婚生活、ひいては彼女との生き方についてようやく思い悩み始めたれおくんが、思いがけず、昔のようにメンバーにその悩みを吐露したことを喜んだのもつかの間、俺はれおくんにかける言葉を必死で探すしかできなかった。それはたぶん、" うまくいかなくてもいい " という自分勝手な感情に起因するものだ。その自覚はある。だからくまくんが、「王様が間違ったこと、それをちゃんと見つけて、一つずつ向き合っていくしかないでしょ」と、普段と変わらない声で付け足した時、俺は口では「そうだねえ。くまくんの言う通りだと思うよ」と言いながら、『余計なこと言わなくてもいいのに』とさえ思った。

 彼女から電話がかかってきたのは、深夜一時頃のことだった。そろそろ寝ようとベッドに入って、枕元の加湿器のスイッチを入れ、照明を落とした頃。ワンコールで電話を取った俺の耳に届いたのは、抑揚を意図的に制した響きの、固い声だった。『間違い探しなんて意味がないと思わないですか?』、彼女はため息混じりに言う。既に感情を爆発させたのかと思うほど落ち着いて聞こえる。「王様は、意味が無いとは思わなかったんでしょ」 耳元で小さく息を吐く彼女の気配に耳をすませた。二人の感情に大きなズレやら溝やらがあることは、たぶん全員がわかっている。れおくんはその溝を少しでも小さくしたいと考えて、くまくんはそのための助け舟を出した。『始まりから、何もかも間違いだったのを、レオは認めたくないだけ』 彼女が諦めたように呟いた。さっきまでの抑制して取り繕った声音から、震えて揺らいだ声音に変わったことに気づいたのに、俺は何も言えなかった。




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