XXXIX:花弁の一枚について


 熱もすっかり下がっていつも通りの日常が戻ってきた中、おれは一人で悩んでいる。仕事は今朝終わらせた。家のこともできるだけやった。朝晩は寝込む前と同じく、できる限り自分の口で、難しい時はメッセージアプリであいつに挨拶する。それでも悩むのは、熱が出たあの夜のことだ。
 朦朧としながらもあいつに伸ばした手と、ベッドに押し付けた身体。結局最後まで出来なかったものの、それでも今までになく心は穏やかになった。これまでどうやってあいつを抱いてたのかがわからなくなる。その混乱を自分自身にすら説明できないのに、おれはあいつに謝らないといけないとだけ考えている。そしてもうひとつ、あの夜、看病のために部屋にきてくれたお礼。なにをしたらいいのか、それとも何かをプレゼントでもするべきか。そこまで考えたら愕然とした。おれがなにをしたらあいつが喜ぶのか、わからなかったからだ。そんなふうに悩みながら、おれが散らかしては翌朝にはすっきりと片付くリビングの、そこに鎮座するソファに体を沈めて変わっていく空の色を眺めている。

 打ち込みで作った曲のデータをさっさとクライアントに送り付けた今朝、その間にさっさと仕事に行ったあいつに気づいて、すぐに携帯通信端末でメッセージアプリを起動した。『おはよう。行ってらっしゃい』。やがて既読を知らせるマークがついて、『おはよう。行ってきます』と返事が来る。ずっと傍にあって、見ないようにしてきたもの。そして、名前をつけることを避けてきたもの。何気なく触れたのは、左手薬指の指輪だ。おれがずっと外さない、あいつが身につけているところを見たことのない指輪。結婚式は挙げてない。必要ないと思っていた。けど、今になって少しだけ悔いる気持ちになる。あいつは、どう思っていたんだろうか。

 玄関の扉が閉まる重い音に顔を上げて、部屋から顔を出す。少し疲れを滲ませた " 妻 " に「おかえり」と声を掛けた。「ただいま」と答えるその表情は、以前の記憶に残るほどの固さはなくても、心を許してはないように感じる。それでも、おれは指輪に触れる。そして「コーヒー淹れるよ」と、物分りのいい " 夫 " の顔をする。曖昧に口角を上げておれの後ろをついてくる気配に胸をなでおろしながら、コーヒーを淹れた。リビングで二人コーヒーを啜って、僅かな話題でポツポツと話をした。それでも結局、さっきまで頭に浮かんでいた結婚式の話題になんて、微塵も触れることが出来なかった。それどころか、あの夜の謝罪もお礼も、喉に詰まって出て来なかった。

*

 先週末、仕事が終わって真っ直ぐに帰宅した私を出迎えたレオの緊張感を思い出す。なるべく音を立てないように家に入る癖がついているのは、自室で作業しているかもしれないレオを邪魔しないためだった。それでも、扉は音を立てる。気づかないでくれたら良かったのに、レオは部屋の扉を開けて、顔を出した。「おかえり」と口にしたレオのその声は、わざとらしく寛いだ響きだった。
 レオの淹れたコーヒーを飲みながら、寝て起きたらすっかり忘れていそうな話をした。

 そして今、私は自宅に瀬名先輩を招いて、普段飲んでいるのと同じ豆とは思えないくらいおいしいコーヒーをゆっくりと嚥下している。少し気まずそうに、それでも興味を隠さずに家の中をうろうろする瀬名先輩の背中を見つめながら、息を吐いた。
 思えば、不倫騒ぎの前までは二人とも周囲をきちんと気にしていた。そして騒ぎになった直後にも、反省した。けれど、今私たちは以前ほど取り繕わなくなった。たぶん、図々しくなったのだ。騒ぎは世論によって拡大して、そして世論によって収束した。赤の他人は、赤の他人だからこそ簡単に手のひらを返した。もちろん二人とも、「許された」とも「許される」とも思っていない。私たちは、ただ必要以上に取り繕うことをやめた。瀬名先輩がマンションのエレベーターの中で私の手を握った時から、ゆっくりと、私の感情は変わった。凛月くんの声に込められた、私を責める気配。気づかないはずがない。Knightsのみんながどう思ってるのかはわからないけど、私は私なりに生きてきた。華やかなばかりでない、もがいて足掻く人間が一瞬で華々しいスポットライトを浴びては一瞬で消えていく世界で生きて、夢ノ咲学院の生徒だった頃のままで居られるわけがない。
 瀬名先輩がソファに戻ってきて、「つまんない部屋ぁ」と口の端を僅かに曲げた。その様があまりにもおかしくて、思わず笑った。ほんの数時間前までの瀬名先輩とは打って変わって、穏やかで、ちょっと嫌味っぽくて、そして優しい。そう、ほんの数時間前、私たちは同じ場所にいた。

 私が働く芸能事務所の所属モデルと瀬名先輩の写真が、来月のファッション雑誌に掲載される。今日はその撮影だった。海外ジュエリーブランドのレセプションパーティへの招待をきっかけに組まれた特集で、所属モデルは私たちが想像する以上に刺激を受けたらしい。第一印象から全く異なる瀬名先輩の雰囲気に気圧されていた年若い男性モデル。瀬名先輩は私物だと言うアクセサリーを気負わずに身につけ、悠然と足を組んでカメラに微笑んでいた。
 ブランドの広報女性に対する瀬名先輩の態度を思い出して、僅かに背筋を嫌なものが伝う。瀬名先輩への過度な賞賛や、話題の振り方、撮影後の撤収作業中には慣れた口調で食事に誘っていた。明るい色の髪を巻いて、清楚にも見える胸元のカッティングがきれいなワンピース。甘い香りと柔らかく響く声。広報を務めるブランドの、華奢なブレスレットと腕時計。美しく手入れされた爪は、つやつやとしたベージュ。隙のない、私が思う限りのいわゆる『ラグジュアリーブランド広報の女性』だ。瀬名先輩は、撮影中には柔らかく微笑みながら彼女の言葉を当たり障りなく、けれど不快にさせるでもなくいなしていた。けれど撮影が終わった途端、その態度を一気に変えた。口元は笑んでいるようにも見えるのにとても冷たい眼差しで、「もう仕事は終わりなんで」とこれまた冷たい口調で彼女をいとも簡単に突き放したのだ。広報女性は引きつった表情で唇を引き結んでいた。瀬名先輩は追い打ちをかけるように、「ここのブランドのコレクションは好きですよ。今日はありがとうございました」と、はっきりと線を引いた。

 そうして、モデルをタクシーに乗せて一旦事務所に戻った私は、自宅に戻ってすぐに瀬名先輩を自宅に招いたのだ。自分でも、招いた理由はよくわからない。仕事をしている瀬名先輩を見て、ただ無性に『私が知る瀬名先輩』と時間を過ごしたくなったのだと思う。タクシーの中で興奮冷めやらぬモデルが「瀬名さん凄かった」と繰り返すのを聞きながら、たまらなく瀬名先輩と向かい合いたくなったのだ。
「あんたから会いたいって言われるとは思わなかった」
 一通り部屋の中を見て回り、当たり前のように私の隣に座った瀬名先輩が、コーヒーカップを手に取って息を吐いた。
「……突然すみません」
「……別に悪いなんて言ってないんだけどぉ?」
 私の知る、いつも通りの瀬名先輩。心地の良い低い声でそう言った薄いくちびるが、カップの縁に触れる。
「……なんだかびっくりして」
「ふぅん」
 コーヒーを一口飲んだ瀬名先輩の、喉仏がゆっくりと上下する。カップが離れた唇は、面白そうに弧を描いていた。
「……なんですか」
「惚れ直したんでしょ」
 私が瀬名先輩を見つめて、瀬名先輩も視線だけで私を見た。その瞳に、意地悪な輝きが宿っている。いつも通りの、瀬名先輩。
「………」
 どう返事したものか逡巡する私の心中を慮ったのか、瀬名先輩はその話題には触れず、私の頭に大きな手のひらを一度乗せたあとに口を開いた。色んなことを話しながら、ふたりで笑い合う。

*

『これから会えませんか』というメッセージが俺の携帯通信端末を震わせたのは、仕事が終わった帰りの車の中だった。マネージャーの送迎車の後部座席に身を沈めて、メッセージを確認して返事を送った。『いいよ。どこで?』返事を打っ指は自分で思っていたよりもずっと滑らかに動いた。すぐに返事が来た。『うちはどうでしょう』その返信に、思わず息を吐いて窓の外に視線を逃がした。今まで招待されたことのない、王さまと彼女の家だ。フィレンツェで同居生活をしていた王さまは結構薄情で、俺だけでなくKnightsメンバーを自宅に招くことはなかった。その理由には、大方の察しはついている。王さまはずっと、仕事が終わったあとも時間を潰して帰宅していたからだ。だから俺も「家に呼んで」なんて言わなかった。もちろん理由に思い当たらなくても、「家に呼んで」なんて言わないけど。とにかく、彼女の提案は俺の心中を少し乱したのだ。

 家の中に入って驚いたのは、リビングルームの中に彼女の気配が薄かったことだ。統一感のないちぐはぐな家具。決して散らかっている訳ではないのに、どことなく落ち着かない。彼女と、恐らく王さまも飲んでいるコーヒー豆を自動ミルで挽いて、コーヒーを淹れてやった。一口飲んだ彼女の表情がふっと和らいで、自然と口元が緩んだ。緩んだ口元を隠すように、室内を見回す振りをした。自宅着を身につけた彼女は、どう考えてもこの部屋より俺の部屋の方が似合うんじゃないか。
 ソファに並んで座って、仕事中の彼女の視線を思い出す。俺しか知らない眼差しだ。ちょっとした意地悪心で「惚れ直したんでしょ」と言ってやったら、彼女は目を泳がせてから視線を床に落とした。でも俺は知ってる。返事に窮する彼女の頬はほんの少し赤くなっていた。その後は他愛もない雑談で二人の時間を過ごした。プライベートでヘビーに使っているような顔をしてインタビューを受けた、今回の仕事のブランドのバングルとネックレスは、つい先週買ったものだということ。王さまが作った曲を聴き込んでいる現在の生活ぶり。今日仕事先に彼女が着てきた服が結構俺の好みだったこと。そして、思っていた以上にちゃんと仕事をしている彼女を、誇らしく思ったこと。話題は尽きなかった。外が橙になってきた辺りでそろそろ帰ろうかとソファを立ち上がった俺を、彼女は自室に案内した。至る所にある彼女の気配。「この部屋は悪くないんじゃない」と言って、棚の上に大切そうに並べられたネイルの瓶を視界に捉えた。俺が、前に彼女にプレゼントしたネイルだ。彼女が照れくさそうに笑ったから、なんとなく気恥ずかしくなって一度キスしてやった。






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