苦悩や葛藤を感じさせない、フラットな大きい瞳が好きだった。もちろん私だって小さい子供ではないから、彼が苦悩だとか葛藤だとかを秘めていないとは思っていない。でも、そんなところも好きだった。結局は、彼がどんなでも、好きだった。


*


「宇内くん」
「おー、どうした?」
 つい少し前まで、熱を帯びた眼差しで、汗を飛び散らせて羽ばたいていた宇内くんが、教室で笑顔を浮かべている。何でもない顔で笑う顔に、思わず片眉を下げて、出来損ないの微笑みを見せた。
「これ、いつもの」
「なまえはいつも優しいなあ」
 私が差し出したのは、チョココロネひとつ。もうすっかり遠慮しなくなった宇内くんが、紙の袋に収まるチョココロネを受け取って、そして早速おしりをちぎってチョコにつけてひとくち食べた。そのさまを、相変わらずかわいい食べ方するなあと思いながら眺める。


 家がパン屋なのと話したのは、去年の席替えの直後だった。私の真後ろに、机と椅子をガタガタさせて移動してきた宇内くんは、椅子に座ってすぐに「なんかいい匂いがする」と言った。笑って振り返りながら、「家がパン屋なの」と言ったその時に、呆気なく私は恋に落ちた。その顔があまりにも近かったから、一瞬で心臓はコントロール不能になってしまったのだ。


 それでも、そんな日はずっとは続かない。さらなる席替えと進級を経ても続いていたやり取りは、終わってしまう。宇内くんから「もうパンはいいよ」と屈託なく言われたのは、ちょうど一週間前の朝だった。引退するから、そうしたら食事量を減らさないと太る、と言う。「毎日元気出た。ありがとう」。私はその時も出来損ないの笑顔を見せた。「そっか。お疲れ様」。他に言うべきことはあっただろうけど、残念ながら運動部ではない私には、宇内くんにかける言葉が見つからなかった。その日まで、残り一週間。今日がその終わりの日である。
「俺さー」
「うん?」
「なまえが最初にパンくれた時のこと、今でも覚えてる」
 宇内くんが、ちょっとだけ照れくさそうに笑う。私も覚えてるよ、と返事をしたかったのに、心臓がぎゅうぎゅうになってまたしても変な笑顔を宇内くんに向ける。
「俺がバレーしてるとこ好きだから応援したいってパンくれて」
 席替えした日に唐突に恋をして、どうしたら彼の視界に入って特別になれるのか悩んで悩んで、そしてなけなしの勇気を振り絞って彼にメロンパンを押し付けた時のこと。驚く宇内くんをせめて警戒させないように、言葉を選んで何度も何度もシミュレーションした言葉で、何度も何度も練習した笑顔で、朝練終わりの宇内くんに告げたのだ。
「うん、………あの、」
 そして、もう今日しかないのだ。募った想いの出口が、たとえ良くない結果になってもいい、とようやく思えたのは、本当につい二日前の夜のことだった。平日毎朝パンを渡して、少し話して、笑いあった。そんな日々を続けること約二年。二年もかかった。
「あのさ、なまえ」
「あ、なに?」
「来週さ、帰りどっか寄んない?」
「……どうしたの?」
「お礼、ちゃんとしてなかったから」
 宇内くんが、照れくさそうに笑う。私は、この人の笑った顔が好きだった。二年募らせた感情は、どんな風にしたってたぶん満足に伝えられない。それでも、たった一言でも、言わなければ何も無かったのと一緒になってしまう。
「うん。じゃあ、喜んでお礼されちゃおうかな」
 やっとそれだけ返して、いつも通りに自分の席に移動した。進級してからも何度か席替えはあったのに、結局宇内くんと近い席になったのは、最初の時だけだった。


*


「なまえは」
「うん」
 そして週が明けて、私たちは二人並んで学校に背中を向けた。宇内くんは何度も、たぶん無意識に、「こんな時間に帰んの慣れないなー」と笑った。
 二人で入ったカフェで、ありがたくモンブランとミルクティーをごちそうになった。カップの縁に唇をつけたその時、宇内くんが大きな爆弾を私に投げてきたのだ。
「俺になにか言うことあるだろ」
 それはとても静かな声だった。
「………ある」
 静かな声の中には、確かに強い圧力を感じた。背筋がひやりとする。そうだ、普段屈託なく笑う宇内くんだって、試合中にはこんな空気を纏っていた。………もちろん、試合中は今とは比べ物にならないくらいの気迫を纏っているけれど。
「うん、………あー、ごめんな」
 心を落ち着けようと、ミルクティーをひとくち飲み込んだ。温かいカップに添えた左の指先が冷えている。震えてはいないだろうか。宇内くんは、私の感情に気づいていた。そのことが、喉を狭くする。
「今のは卑怯だった、ごめん」
 短い黒髪の先が、ふわふわとしている。天然パーマで、湿気が高い日はモサモサになってしまうと言っていた。宇内くんは謝ってから、一度目を泳がせてから、私がソーサーの上に置いたカップを見つめて息を吐いた。
「……ううん。ずっと、言いたくて、それでも言えなかったことがあるよ」
「うん。………知ってた」
 はにかんで、再び目を逸らして店内を視線だけで見回した宇内くんが、小さく「同じことを言おうとしてて、言えなかったから、知ってる」と口にする。その言葉だけが鮮明に耳に届いて、カフェの喧騒が全く聞こえなくなった。
「本当に、おなじこと?」
 たとえば宇内くんの進路とか、休日の予定とか、将来の夢とか、そういうものを聞いてもいいのか。普通の友達でも聞けるかもしれなかった質問たちは、私の恋という下心のせいで、これまで宇内くんに投げかけることは出来なかった。
「……例えばさ」
 唇を開いた宇内くんが、そう言って一度息を吐いてから、
手元のアイスカフェオレのグラスを持って、一気に3分の1くらいを飲んだ。グラスの中で氷がぶつかる音がする。
「こっからの帰り道に、手とか繋いでみたいんだけど」


*


 その日のことを、鮮明に思い出す。結局少しの間、好きな人とのお付き合いという夢のような時間を過ごして、そして別れてしまった。宇内くんの進学先は東京で、地元の大学に進学した私は意気地無しだったのだ。
 一人暮らしの狭いアパートの一室で、テレビを観ている。テレビの向こう側は春高だ。宇内くんが現役だった頃、何度も観戦に行った。最初は付き合ってくれた友達も段々来てくれなくなって、最後の方は一人で観戦に行っていた。熱心な高校バレーファンのようだった。そしてついさっき、テレビカメラは烏野の応援席を映した。黒い法被に太鼓がかっこよくて、柵には見慣れた横断幕が垂れていて、そして、そこには宇内くんがいたような気がするのだ。
 私がもっと強かったら、今でも時々、当たり前の顔をして宇内くんと会えていただろうか。胸が締め付けられて痛む。それでも、ずっとずっとこの痛みを感じながら、やってきた。目じりをこぼれた涙を乱暴に拭って、顔を上げる。次の休みには実家に帰って、パンを一つ、食べたい。宇内くんが毎朝嬉しそうに食べてくれたパン。私たちをほんの少しの間でも繋げてくれた。


『さみしい思いさせてごめんな』
 最後、宇内くんは付き合った時と同じように謝った。私も謝った。その時にようやく、宇内くんがどんなでも好きだと思っていたのは、正しくもあって、そして大きく間違っていたことに気づいたのだ。






手に入れられないもの



 



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -