II:一日の始まりについて


 陰鬱な気分で目を覚ました朝、今日こそは特に会いたくないと願いながらリビングに頭を覗かせる。そこに既に人の気配はない。昨日ナルに言われた軽口が脳裏に過って、思わず眉間に皺を寄せた。そっと自室からリビングへ移動する。何の気なしに壁時計を見上げたら、その横に吊るされているカレンダーも視界に入った。無意識に今日の日付を見る。そこには空欄に殴り書きされた『出張』の文字があった。
 几帳面と面倒臭さが同居した彼女の文字が、まるで俺を責め立てるように歪んでいる。予定を夫たる俺に伝えながらも、戻る予定は伝えず、そしてどこに行くのかも伝えない。ふたたびナルの発言が頭に浮かぶ。「奥さん、元気?」からかい混じりのただの挨拶だ。彼女を"妻"と表現することはあるが、あくまでもそれは便宜的なものであって、そして自発的に口にしてきた言葉でもある。他人から与えられる二人の関係性に、俺が一番、困惑している。“奥さん”という響きに感じる気持ち悪さに、どうにか折り合いをつけなければいけない。

 今日も昨日と同様、レコーディングスタジオでの作業が待っている。まだアシスタントにもなれないレコーディングエンジニアの卵が、昨日とうとう辞めてしまった。その責任を少しは感じないでもなかったが、特別引き止める理由もなかったからそのままにした。綺麗に整頓されたキッチンで、冷蔵庫を開けてオレンジジュースの紙パックを取り出す。それを透明のグラスに注いで、一息に飲み干した。シャワーを浴びて、着替えたら出かけよう。スオ〜の音録りとリッツの音録りが残っている。全員で全てを確認する作業もある。やることは山積している。


*


 昨晩も会わなかったなと、車窓の向こうを流れて行く風景を眺めながら思う。大阪へ向かう新幹線の指定席のシートに身を沈めて、肌寒さを感じてバッグの中からストールを取り出した。カレンダーに殴り書きした私の予定を、レオはもう見ただろうか。もしかしたらまだ見ていないかもしれないし、もしかしたら私が戻る頃にも見ていないかもしれない。そもそもレオは私の不在に気づくのだろうか。そこまで考えてから何かたまらなく面倒で、つまらない気分になった。考えるだけ無駄なことだ。息を吐いてから、目の前の小さなテーブルに開きっぱなしのノートパソコンに視線をやる。もうしばらく触っていなかったその画面は黒くなって、無感情の女の表情を映していた。

 嵐からメッセージが届いたのは、空が白み始める時間が迫る夜中だった。レコーディング一日目が無事に完了したこと、自分はこれから眠ること、そして旦那さんを拘束しちゃってごめんなさいね、と結ばれたメッセージ。私はその時間は自室のベッドでぐっすり眠っていたから、正確に言えば嵐からのメッセージを読んだのは今朝のことだ。アラームを止めるために手に取った携帯通信端末の画面に浮いていたそのメッセージに、私はいつものように簡単な返事を送った。「お疲れ様。今日も頑張ってね」それだけのメッセージ。レオのことに一切触れない私を不思議に思うだろうか。それでも既に夢の中にいるであろう嵐から、返事はなかった。





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