「俺に優しくしてくれないかい」

 真ん丸なお月さんが紺色の夜空にぽっかりと浮かぶ。小さな黄金を散りばめた空は圧巻だ。傍らには小さな盃。月見酒と洒落込んだのは、今から半刻ほど前だった。
 執務室から縁側に引っ張り出してきた肘置きに身を委ね、頬杖をついてぼんやりと夜空を見上げていた私は、さぞ間抜けな顔をしていたことだろう。

 不意に背後から、覚束無い足取りの足音が聞こえ、そちらの方を見やったらなんとも情けない表情の鶴丸が俯いたまま黙って私の隣に腰を下ろし、そうして私の一人きりの時間はあっけなく終わりを告げた。

「充分優しいでしょ」

 夜着だけの寒々しい格好に白い裸足という姿で現れた鶴丸。襟足の長い髪の毛が風に撫でられ、思わずこちらがくしゃみでもしてしまいそうだった。
 「ちょっと待ってて」と声をかけ、執務室から肩掛けを持ってきた私は、何故か肩を落としている鶴丸にそれを掛けてやったのだった。

「……感謝してる」

 さて、そうして、何があってこんな時間に縁側にきたのかも口にしないでいる鶴丸は、俯いたままそっと私の肩口に寄りかかり、冒頭の言葉を口にした。
 声はわずかに震えていたんだと思う。何しろあまりにも声がか細くて、よく聞こえなかった。鶴丸は肩に掛かった肩掛けの前の方をぎゅうと握って、息を吐いた。そして私の肩口に額を押し付け、すんと一度鼻を鳴らした。

「……さて、鶴丸くんは怖い夢でも見たのかな?」

 寄りかかられている方の左腕を上げ、鶴丸の左肩を努めて優しく抱いてやる。手持ち無沙汰の左手で彼の耳の下あたりを撫でたら、鶴丸は僅かに身じろいで小さく笑った。

「…眠れなかったんだ」

 寄りかかられているせいで、胸元にあたたかい息がかかる。しかしそれも一瞬のことで、生ぬるくなった胸元を風が掠め、瞬間的に鳥肌が立つほど冷える。それでもきっと離れたらいけないんだろうなあと漠然と思うのは、もしかしたら母性本能とやらのせいかもしれない。なんたって、なんでか鶴丸が可愛く思えているのだ。

「何かあったの?」

 普段歌仙から「ちっっっとも雅じゃない!」と力を込めて呆れられる投げやりな話し方でなく、静かに静かに、優しい声で語りかける。当の鶴丸はそれに気づいているのかいないのか、俯いたまま肩掛けの中で背中を丸めている。

「人の体とは、難儀だな」

 人の体に難儀なところなんて、それこそ数え上げればキリがないほど沢山あるだろう。人のかたちに顕現して随分長い期間が過ぎたように思うが、想像以上にこの男は繊細だったのだろうか。
 例えば、顕現してすぐはうまく寝付けない奴がいた。戦の高揚感をそのまま持ち帰ってきて眠れない奴がいた。初めて口にしたシュークリームに興奮して眠れない奴がいた。しかし今隣でしょぼくれている鶴丸は、そのどれもに当てはまらない気がする。

「どんなところが?」
「寝て起きて、笑って怒って驚いて、…………何故君は恐ろしくならないんだ」
「鶴丸は、何が怖くなった?」
「……この体を失うことが、心から、怖い」

 左側から寄りかかられる力が強くなった。鶴丸は私に文字通り全てをあずけているのか。光栄なことではあるが、二人分の体を支えるにはこの右腕はいかんせん細すぎた。
 ええいままよ、と縁側に倒れ込み、そのドサクサで鶴丸の体をぎゅっと抱え込んでやる。背後に倒れ込む体に一瞬驚いて顔を上げた鶴丸と目が合って、鶴丸はそれが私がわざとしたものだとわかるや目を細めて大人しく抱かれるままになった。

「人の体は有限だからね」
「そうだな」
「だからこそ、こうやって他人のぬくもりがいいもんだって、幸せだって、思えんじゃないのかな」

 優しく伝えたいのに、やはり普段の口調が混ざってしまった。鶴丸は私の胸元に耳を当てる格好で、眉尻は情けなく下がっているのに酷く心地よさそうに瞼を伏せている。
 私はといえば鶴丸は重いし、鶴丸の恐怖に対して何か上手いことも言ってあげられないしで、割と心中は散々だ。

「……そうだな、うん、しあわせだ」
「肉の体は君たちが思うよりずっと脆くて、早く朽ちてしまうだろ。だから、自分のことも相手のことも、大切にするんだ」

 言いたいことの一つも上手く伝えられない己の不甲斐なさにため息が零れる。それでも鶴丸は私の夜着の袷のあたりを幼子のように握っている。
 ため息に反応したのか視線を上げた鶴丸が、今更になって "迷惑だったかもしれない" とでも言いたそうな表情をしたから、左腕で鶴丸の背中を抱きしめたまま、右手で鶴丸の頭を撫でた。

「……触れたいものに触れて、したいことをする。この体は、俺にとって最上の贈り物だった」
「うん」
「……心の臓の音がする」
「うん」
「ありがとう」

 刀たちは、人に使われるが故に人に憧れているように思うことがこれまでにも多々あった。鶴丸はいつもそんなことはおくびにも出さずに笑っていたから、私も放って置きすぎたかもしれない。手のかからない子供を放置しがちになってしまうという世間の母親の気持ちがわかった。それはとても難しい問題だ。

「鶴丸、」
「……ん」
「好きだよ。大好きだ。刀の鶴丸も、人として笑う鶴丸も、みんな好きだよ」

 鶴丸の体がこわばるのを感じる。鶴丸はゆっくりと私の右腕に手を伸ばして、愛情をねだって甘えるようにそこにしがみついた。

「こうしてると安心するな」
「でもそろそろ寒いでしょ」
「…少しな」

 少し顔を上げた鶴丸の表情からは、さっきまでの悲愴さは消えている。何もうまいことを言えなかったけど、なんとなくでどうにかなるものなのか。なんとなくでどうにかなるというのも、人間の心の特権かもしれない。

「……しょうがないから、今日は鶴丸は私の部屋で寝な」
「…いいのか?普段は部屋に入るなって言ってるだろ」
「こんな状態の鶴丸を一人にするのも気が引けるし、何より」
「うん?」
「優しくして欲しいんでしょ」

 その言葉に鶴丸が胸元でがばりと起き上がって、そして花が咲いたように笑った。

 しょうがない。きっとこの表情に勝るものなんて、私は何一つ持ち合わせていないんだから。

「楽しんでね、鶴丸。いいことも悪いことも、私が朽ちても、全部覚えていられるように」
「ああ、……考えたくないが、きっと忘れない」

 つないだ手の温もりに安心したのは、もしかしたら私の方だったのかもしれない。




子守唄を聞かせて



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