「返事をしてよ」

 うっかり、本当にうっかりしていたのだ。
 主のまつ毛が相変わらず長くて、瞳が黒曜石のようにつやつやしていて、指先が僕とは違ってほっそりしていて柔らかそうで、頬は薄く桃色に色づいて、風が黒いさらさらの前髪を靡かせて、白い額があらわになったから。
だから、うっかりして、背筋を伸ばしてその額に小さく唇を押し付けてしまったのだ。

「ねえ、主」

 それまでは縁側に二人並んで、時間の流れが本当にゆっくりで、空が抜けるほど青くて、雲がふわふわとおいしそうで、日差しが眩しくて絶好の日向ぼっこ日和で、髪の毛の手入れのこととかかわいい紐の結び方とか、遠征先のきれいな風景のこととか万屋で見つけた主に似合いそうな簪のこととか、そんなことを笑って話していたのに。
 思わず額に口付けてしまった僕の目の前で、主は一瞬固まって、そうして僕の顔をじっと見つめたあと、何も言わずにびっくりした顔になって立ち上がって、執務室に後ずさりして、障子をぱたんと閉めてしまったのだ。

「主、ごめんね」

 自分の声が思いのほか焦っているのがわかる。
 それもそうだ。あんなことをするつもりはなかった。自分でも、その理由はわからない。ただ何か、出陣前に自分を鼓舞するような気持ちと、それとは相反した粟田口のみんなとお昼寝しちゃって一人だけふと目が覚めて辺りをぐるりと見渡した時のような、静かで穏やかな気持ちがないまぜになって、意識しないところで主に手が伸びてしまったのだ。

「あーるーじー…、ボクが悪かったから、謝るから出てきてよ…」

 正直なところ、何をどう謝ればいいのかわからないけど、とにかくちゃんと衝動的な行動を謝りたくて呼びかける。でも、ボクが呼びかけるたびに執務室からはガタッとかドサッとか音がして、主は一向に顔を見せてくれない。
 レースが揺れるスカートの裾を指先でいじって、ため息を吐いた。

「あるじ、嫌いにならないで」
「き、嫌いじゃないよ!嫌いとかじゃなくて、その」

 ようやく返ってきた主の声に、ほっとして、そっと障子を滑らせて中を覗く。そこには、真っ赤な顔の主が、赤い袴をぐちゃぐちゃにしてへたりこんでいた。

「…主?」
「いや、なんか」

 普段書類ばっかりが散乱していて、息が詰まるからと入らない執務室に足を踏み入れる。ボクの足元では畳がぎしりと音を立てて、それを見た主が両手を頬に当てて、困った顔をしている。

「…今更なんだけど、」
「うん?」
「乱って、男の子だったんだなあ、なんて」

 その言葉を理解するより早く、またボクは衝動に負けて倒れこむように主に抱きついた。
 途端に、黒い髪の毛が風にさらわれて、その髪の毛をうっとうしそうに耳に掛ける指先が脳裏をよぎった。いつのことだっただろう。庭に向日葵が咲いたときのことだったと思う。赤い袴と白い袖も風に揺れて、戦場を知らない眼差しで、血色のいいきれいな唇は弧を描いて、ボクを振り返った主。それがすごくきれいだったのが印象に残っている。
 いくらかわいい格好をしてみても、どれだけ髪の毛を丁寧に手入れしても、肌の調子をきちんと整えても、主のようにはなれない。

「…そうだよ、知らなかった?」
「み、乱」
「ごめんね主、ボクいま嬉しいんだ」

 主はそれでも、みんなにするようなのとは違う扱いをしてくれていた。髪の毛を触ったり、触らせてくれた。手が荒れたと言えばハンドクリームというやつを丁寧に塗ってくれた。お守りに、かわいい色の飾り紐を結んでくれた。ボクはずっとそれを自慢に思っていたけど、何故だか唐突に、気付いてしまった。
 それはずっと、主がボクを男として見ていなかったからだ。

「…そうだよね。ごめんね、今までいやじゃなかった?」
「ぜんぜん」

 主は今度は逃げ出さないで、あやすようにボクの背中をポンポンと優しく叩いてくれる。
 柔らかいからだ、あたたかい手のひら、誰のとも違ういい匂いがする。

 これから何かが変わればいいな。

「主」
「ん?」
「これから覚悟しててよね」

 ボクは自覚したからね。主のことが好きなんだって、わかってしまったから、もう後戻りはしない。

「ぜったい落としてやるんだから!」




クリティカル・ヒット



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