ぽたん、瑞々しい音が耳に届き、ぱちんと視界が鮮明になった。普段の朝なら布団の中でうだうだと時間ばかりを貪る私が、まるで新しく生まれ変わったようなすっきりとした気持ちで目が覚めた。のそりと体を起こしたら、隣にはいびきをかいている広い背中がむき出しだ。寒くないのだろうか、私ばかりが巻き込んでいた布団を無理やり引っ張って、その背中に乱暴に放る。背中は傷だらけだ。

 さっきの音は何だったのだろうか。室内をぐるりと一度見渡す。しかし、どこにも水の気配はない。ならば外かと思い立ち、そっと障子に手を伸ばす。ほんの僅かすべらせて覗いた隙間は、まだ日も上り始めたばかりの薄ぼんやりとした光景。

 朝のひんやりとした、清冽な空気を吸うのは久しぶりのことかもしれない。深呼吸しようと息を吸い込んではみたものの、かさついた喉が引っかかって、呆気なくむせてしまう。なるべくこらえながら控えめに一度喉を鳴らしたら、広い背中から伸びる筋肉質な腕が、ぱたぱたと布団の上を探り始めた。

「……!」

 がばり、こちらが驚くほどの勢いで飛び起きた岩融が、目を見開いて私を見つめる。普段は余裕ぶった不遜な笑顔を浮かべるこの人の、間の抜けたような驚いた顔は初めて見た。昨晩から、初めて知ることばかりだ。昨晩の余裕のない表情や、私を安心させるための優しげな笑顔を思い浮かべ、畳を鳴らしながらじりじりと彼に近寄る。

「おはよう、岩融」
「...ああ、今日は早いのう」

 あくびをかみ殺しながら岩融の唇から出てきた言葉も、少し掠れていた。それが寝起きのせいなのかはたまた昨晩の弊害なのかはわからない。
繋がった翌日の気恥ずかしさで、岩融の目をまっすぐに見ることが出来ない私に、岩融は「どうした?」と簡単なことのように顔をのぞき込んだ。

「なんか、目が覚めちゃった」
「横におらんから、焦ったぞ」

 いつもより少し控えめな、いつも通りのガハハ、という豪快な笑い声に安心する。その声と表情に、私が昨晩岩融にあげたものを、なんの脈絡もなくゆっくりと脳裏で数えた。二つ。数は少ないが、私にとってとても大切なものだ。からだ、そして、なまえ。
 名前を告げた瞬間、岩融は目に見えて喜んだ。ゆるく細められた眼差しを、今でもまざまざと思い浮かべることが出来る。そうして岩融に呼ばれた私の名前は、それまでに呼ばれたことのない響きで私の心を揺らして、包み込んだ。

「...みんなの前で名前呼んじゃ駄目だからね」
「そんなもったいねえことはすまいよ」

 岩融が下半身を覆う布団を僅かに持ち上げて、その行動だけで入ってこいと告げる。ゆっくりと足先を滑り込ませたら、一瞬で私の体は岩融に抱きしめられた。厚い胸板に額が押し付けられて、太い腕が枕になる。後頭部と背中とを抱えられ、つむじのあたりに岩融が唇を寄せる感覚。背筋がぞわりと粟立った。

「岩融、」
「どうした?」
「名前を呼んで」

 付き合いの長い、主命を最上とする長谷部も、懐いてくれて普段一緒にいる時間が長い加州も、ちょくちょく面倒を見ることがある短刀の子たちも知らない、私の名前。
 名前を教えろとは言われなかった。私から名前を告げなければ、岩融は情事の最中も私を主と呼んだだろう。それを嫌がったのは、私の方だ。

「...なまえ」
「もう一度」
「なまえ、なまえ」

 優しい、優しい声だった。まるで幼子に呼びかけるような甘い響き。苦しくなって顔を上げたら、至近距離で岩融と目が合う。こころなしか恥ずかしそうな色を浮かべた岩融が、額に口づけをひとつ。

「俺の名も呼んでくれ」
「...いわとおし」
「喜べ、なまえのもんだ」

 途端にひたすら岩融が愛おしくなって、思わず唇に噛み付いた。昨晩小さく歯を立てられた舌先がじくりと痛む。その痛みすら愛おしい。岩融は一晩中、所有欲を隠すことをしなかった。お陰で舌先だけでなく、肩口や首筋、二の腕、ふとももにふくらはぎ、胸元、あらゆる場所に歯を立てられた。
 大きな厚みのある体に抱きしめられているのに、不思議と圧迫感は感じない。それが大切にされているということを惜しげもなく私に伝えて、愛おしさが溢れて辺り一面をゆらゆらと沈めてしまいそうだ。

「なまえ……、」

 離れた唇から、熱い息が唇を撫でる。甘くかすれた低い声に、体の奥が柔らかく痛む。瞬間的に岩融がなにを何を求めているかを把握して、身を固くした。

「…ダメだからね」
「固いことを抜かしおって」

 岩融は落胆の声音で拗ねたが、すぐにはあと息をはいて私の体から僅かな距離をとってくれる。

 ふと、自分の心臓に手のひらを当てる。

「……あ」

 そこから感じたのは、紛れもなくあの水の音だった。とくりとくりと脈打つ鼓動。それが体の中で反響して、時折ぽたん、と音がしたように思う。

「主、今日も1日楽しませろよ」

 顔を上げた先では、着流しを羽織る大きな体が、鈍く柔らかく障子越しの朝日に照らされている。




心臓の涙



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