生憎の曇天のせいで、屋敷中に湿った土の匂いが充満する。耳を澄まさなくとも葉を土を壁を屋根を叩く雨粒の音が聞こえ、気分が滅入る。
 こんな天候の日には、我が主は出陣を控えるのが常だ。以前誰かが出陣できると言った時、主はぬかるんだ土に馬の足がとられたらどうするの、刀を握る手が雨で滑ったらどうするの、至極冷静に、そんなことを言っていた。そして誰も言い返せなかったために、天候があまりにも酷い日には、全員がこの本丸で思い思いに過ごすことになった。

「主ー、爪紅が剥げちゃったんだけ、ど」

 いつものように声をかけるでもなく滑らせた主の自室の障子だったが、そこには普段の主はいなかった。
 声を掛けずにこの部屋を開け放したことが知られると面倒な人物が頭に浮かび、そろそろと足を中へ踏み込み、そっと障子を滑らせる。なるべく音がしないように、有り得ないほどゆっくりと。

「...あるじ」

 呼びかけるつもりのない、小さな声で口にした。視界の下では、主が文机に突っ伏して静かに寝こけている。
 珍しい事もあったもんだ。無意識に口角が上がり、体の真ん中からふつふつと湧き上がって震えるような嬉しさで、そっと身を屈めた。居眠りする主はそんなことには全く気付かず、すうすうと安らかな寝息を立てている。

「...あるじー」

 寝ていることを改めて確認するように、今度は控えめに呼びかける。閉じた薄い瞼はぴくりともしない。気が良くなって、主の隣に座り込んだ。畳がぎしりと音を立てて、一瞬身を固くする。背筋に嫌なものが伝ったが、主は一向に起きる気配がない。
 珍しいな。もう一度、同じことを思った。俺はこの人がこんなふうに居眠りしているところを見たことがない。近侍の時だって、主は居眠りなんてしていなかった。

「...抱きついちゃうよ」

 誰の許可を得るためでなく、許可を取らねばいけない人は眠っている。少し卑怯かなとは思ったが、主に一番に愛されたいんだから仕方ないでしょ、と心中で言い訳した。

「……加州?」

 隣からそっと主に抱きついた瞬間、寝ぼけた声で名前を呼ばれた。あーあ、残念。

「あれ、起きちゃった?」
「...あまえたいなら、そういえばいいのに」

 寝起きの舌っ足らずな声で、主はのそりと腕を持ち上げ、俺の髪の毛を撫でる。とろりとした眼差しが柔らかく細められて、思わず抱きつく腕に力を込めた。
 抱きつかれた格好のままずりずりと体勢を変えた主が、俺の背中に腕を回す。あたたかい。一番近くから、「加州、かわいい」と呟かれ、体の中心からじわじわと気持ちよくなる。そうでしょ?そう言ってやりたいのに、何故か声が出なくて、主の背中にぎゅうとしがみつくしかできない。

「...あのね」

 ようやく絞り出た声は掠れ、喉がヒリヒリする。鼻先をくすぐる主の髪の毛からは、甘い花の匂いがする。

「うん、どうしたの?」
「主に塗ってもらった爪紅が、剥げちゃった」
「じゃあ、塗り直さなきゃね」

 もう少し抱き締めていたかったけど、主はゆっくりと体を離した。そっと俺の手を取った細い指先が、爪を撫でる。
 俺は今、主に慈しまれている。この本丸にいる全員にそう言ってやりたい気持ちと、誰にも言わずに主と俺との秘密にしておきたい気持ちがないまぜになった。

「花びらみたいね」

 主が、俺の並んだ爪を撫でながら笑う。主の指先にも、同じ色が乗っているのがたまらない気持ちにさせる。主に爪を塗ってもらった時、俺がせがんでお揃いにしてもらった爪。
 しばらくは主に短刀たちが"主とのお揃い"を求めてあれやこれやと二つずつ用意して、片方を主へと差し出していた。この部屋にも、いくつかの野花が活けられた小さな花器が鎮座する。揃いの花は揃いの花器に活けられて、短刀に与えられた部屋にある。

「主の爪も」

 主が剥げた爪紅を塗り直してくれる最中、俺はずっと主の爪を見つめた。綺麗な形の真っ赤な花びらだ。
 どうかこれからも、お揃いの花びらを指先に乗せて過ごして欲しいと思う。真っ赤な爪が目に入る度に、主が俺を思い出してくれるといい。

「できたよ」
「ありがと」

 離れた指先がさみしい気もするけど、俺と同じ爪がいつでも主の手にある。まさかそんなことでこんなに安心できるなんて、思っていなかった。思っていなかったけど、心底良かったと思う。同じ爪のことじゃなく、こんな気持ちを知ることが出来て、よかった。

「ねえ主」
「なあに?」
「俺を愛してね」

 一瞬間の抜けたような表情を浮かべた主が、照れくさそうに笑って俺の前髪を払ってくれた。

「今以上に?」
「...そうだよ」

 くすくす笑う主の後ろでは、障子越しにぼんやりと明るくなっていた。
いつの間にか、雨は止んだようだ。




手のひらのひとひら



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -