「あつむ、おさむ」

彼女が細い指を指す。俺はいつも通りに笑って、その指先を包んでから「人指さしたらあかんよ」と言う。
面白いことに、彼女は俺たちの見分けがつかない。俺が隣にいる時、治が隣にいる時、笑顔で違う名前をその唇に載せて、わらう。

「それに、ちゃうよ、反対や」

小さな子供にするみたいに、努めて穏やかな表情を作って、彼女に微笑む。そしてまた面白いことに、彼女は俺の言うことだけを信用しない。
不思議なことに、どっちがどっちか見分けがつかないくせして、俺のことだけは信じない。

「こっちが侑だね」

正しく俺を見上げて、眉を寄せる。それなのに口元は歪んだように笑んでいて、俺は彼女のその顔がなぜだか一等好きで、そしてまた彼女が信用しない作り笑いを浮かべて微笑む。

「吹奏楽部、もう始まるんとちゃう」

治がそっぽを向いたまま、硬質な声で告げた。パチンと弾かれたように顔を上げた彼女が、机の上に大切に置いていたフルートの入ったケースをひょいっと持ち上げた。
肩に掛けたショッキングピンクのリュックが目に痛い。

「うん」

ほら、さっきまで治を侑と呼んで、俺を治と呼んでいたくせに、治の言うことは素直に聞いてスカートを翻す。

「なあ、スカート短すぎやない」
「えー、みんなこんなもんやないの」
「お前はもうちょい長い方がええって」
「えー……」

そうかなあと自分のスカートを見下ろす彼女は、指摘した俺ではなく、治の方を上目遣いで見上げる。すこし悲しそうに、つまらなそうに、治の顔色を伺うように。
それがいつも面白くない。面白くないけど、その様を眺めているのはたまらなく気分がいい。

「だめ?」
「……好きにすればええやろ」

ため息混じりに後ろ頭を掻いた治に、彼女がみるみるうちに笑顔になった。彼女の常套手段だ。信用出来ない俺の目の前で、信頼に足る治を味方につける。とても面白くなくて、とても愉快だ。

「なあ、今度治味方につけたら、そのフルート折ったろうか」

わらう。わらう。彼女が恐らく嫌いな、張り付いた笑みを浮かべて、隣の治の肩に腕を載せて、ゆっくりとゆっくりと怒りの色を浮かべ始める彼女の眼差しを真っ直ぐに受け止めながら、笑う。

「……笑えない冗談、やめて」
「ほんまおめでたいやっちゃな」

細い銀色の管なんか、俺は片手で折れるかもしれへんよ、喉まで出かかった言葉をすんでのところで飲み込んだ。代わりにフルートのケースをぶら下げる無防備な手首に指を回して、上体を傾けて彼女の耳元でやさしく囁く。

「お前は手首折られる方が辛いかもわからんな」

フルートが欲しくてほしくて、貯めてたお年玉と小遣いかき集めて、ようやっと高二の夏に買った彼女。初めての新品のフルートは、当然のように俺たちにお披露目された。大切に、怖々と銀色に触れていた指先。傷つけないようにと爪を切りすぎて深爪になった指先。

「……侑のそういうとこ、ほんま、嫌いやわ」
「知っとるわ、そんなもん」

治が冷えた眼差しで俺と彼女のやり取りを眺めている。どちらかに助け舟を出すでもなく、ただぼんやりと。

「ねえ、おさむ」

途端に甘えた声で治を見上げた彼女に、治はとうとう俺の腕を振り払って、「侑が怖なる前にさっさと行きや」とだけ彼女に言い放った。あっさりと背中を向けて、教室を出ていく治。
取り残された彼女は歪んだ顔で、スカートの裾をぎゅうと握る。

「ねえ、どうして二人とも、……私にそんな冷たかった?」

どう言えば伝わるんかなあ。そっと考えを巡らせながら、教室の時計を見上げた。もう吹部始まるんとちゃうかな。ええのんか。こんなとこで油売ってて。

「ずっと子供のまんまやおられんで」

彼女の表情がますます歪んだ。受け入れ難い現実と、嫌いな俺の張り付いた笑みが気に食わないのがありありとわかって、殊更愉快な気分になった。

「……私にもわかるように言って」
「俺の言うことは信じひんやろ?」

フルートのケースをぶら下げる指先が、力を込めすぎて白んでいる。真一文字に結ばれた唇の中では、昔からの記憶のとおり、歯を食いしばっているだろう。泣くのを我慢する時はいつもそうだった。

「時間切れや。お前は吹部、俺はバレー部、……また明日」

放課後の、ほんの少しのざわめきを教室に置き去りにして、エナメルのバッグを担いで彼女に背を向ける。背中に目があったら、こんな時の彼女の表情を見れるのに、残念ながらそんな目はないから、あとで治とゆっくり想像するとしようか。




奈落







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